2.言えなかった言葉
ラムネの瓶に入ったビー玉。
それが“彼”の瞳を見た瞬間に思ったことだ。
無機物ではなくて有機物で、人形ではなくて人間。
そう理解しようにも、目に写る全てがあまりに美しく透明でやはり人工的に作られた芸術品にしか見えなかった。
頭が正常に機能するまでどれだけかかっただろうか。
そもそも人付き合いが壊滅的に下手な私は、こういう時にどう反応すれば良いのかまるで分からない。
かちりと固まり、今度は私が人形になる番だ。
1か月経って初めて動き始めた人形さん。
ずっと肩にかけられ続けていた布が崩れると、お揃いの制服が目に入る。
緩く結ばれた赤色のネクタイは、彼が1学年上の2年生であることを示していた。
「せ、先輩……?」
奇跡的に真っ当な言葉が出る。
とてもとても小さな、他の雑音にすぐにでもかき消されそうな声は、しかしこの静寂だらけの美術準備室ではそれなりに響いた。
淡々と表情も変えない“彼”はゆるく首を振る。
「“人形さん”で良いよ? それとも“お兄さん”?」
からかいの混じる言葉に、とたん頬が赤らむ。
勝手に上がる熱を抑えることは出来ない。
言葉も表情も、やっぱり人間相手には徹底的にポンコツで、固まったようにただただその美しい“人”を見つめるばかり。
“人形さん”相手ならば饒舌だった口も、“先輩”相手ではもつれるだけだ。
その少しだけ下がった眉尻も、柔らかな雰囲気も、何一つ変わっていないというのに。
「ごめんね、“人形さん”のままでいてあげられなくて」
そうして耳に届いた謝罪の言葉にハッとした。
慌てて否定しようとするけれど、喉に何かが貼り付いて声が上手く出てくれない。
ああ、こんな時ですらまともに意思疎通の取れない自分が情けない。
ブンブンと、勢いよく首を振ることしか出来ない。
むしろ、ごめんなさいは自分の方なのだ。
勝手に勘違いをして、1か月も下らない話に付き合わせて、人形のふりを続けさせてしまった。
この人はきっと優しい人だから、辞めるに辞められなくてずっと自分に合わせてくれたのだろう。
身動きひとつ取らずに、目を閉ざしたままずっとずっと付き合ってくれたのだ。
ごめんなさい。
ありがとう。
脳裏に浮かんだ言葉はその2つだけ。
それなのに、たった5文字のそれらすら零れてくれない。
距離はきっちり1メートル。
彼もまた、その距離を縮めずいてくれる。
0.5のぼやけた視界で見る“人形さん”は、瞳が開いたことでさらに美しさを増していた。
「あ、鐘……午後の授業はじまるね」
ぽつりと人形さんが呟く。
極度の混乱でまるで鐘の音など聞こえていなかった私。
「急いだ方が良いよ」なんて言いながら、彼はその場を立ち上がる気配もない。
のんびりと窓を見上げて小さくあくびをした。
「あ、あ、の……」
「またね。良かったらまた来て。喋る人形で良かったら……だけど」
美しい人だと、やはりそう思う。
どう反応するのが良いのかやはり分からないまま、何度も後ろを振り返りながら教室へと戻った。
いつもなら数分の猶予がある本鈴。
教室にたどり着いた瞬間に鳴る程に、足をもつれさせたどり着いたように思う。
当然のように、午後の授業は頭に入らなかった。
「……部さん、笹部さん?」
自分が呼ばれていると気付いたのは、どれほどの時間が経った後だろうか。
ハッと声の方に顔を上げると、そこにいたのは困惑した様子の女の子の姿。
佐々木さん。
緩いツインテールがトレードマークのクラスメイトだった。
やはりカチリと固まり上手に反応できない私に佐々木さんは眉を寄せて覗き込んでいる。
あ……、優しい顔。
自分を見つめるその表情にはからかいも蔑みも一切ない。ただただ心配してくれていると分かる。
「具合、悪い? もう皆帰ってるよ?」
「え、え……!?」
そうしてようやく辺りを見渡して、密度のすっかり減った教室に呆然とした。
いつの間にか時間が夕方に変わっている。
まるでそのことに気付かなかったのだ。
随分と気が動転していたのだと、ようやく気付く。
「やっぱり具合、悪い?」
再び声が響いて再度ハッと我に返る。
相変わらず優しい瞳の佐々木さんが心配そうに見つめていた。
「だ、だ、大丈、夫……」
「本当?」
「あ、あの、その……ありが、とう」
想定外が連続したことで声は見事に上擦った。
視線を上手に合わせられない。
俯いたまま震えた声でそう告げる。
グッと強く手を握りしめてしまうのは、そうでなければあまりに居たたまれなかったから。
上手く返せないくせして、沈黙が怖かった。
「ううん、どういたしまして。あのね、暗くなる前に帰った方が良いよ? 最近は陽も短いし、危ないから」
またね、と佐々木さんが手を振る。
……振り返すことの出来ない臆病な自分を恥じた。
こくんと、頷くことしか出来ない。
だから友達の1人も出来ないのだ。
そう自嘲して悲しくなる。
佐々木さんは私にトラウマを植え付けた彼らとは違う。
そう思うのに体が勝手に強張って、雁字搦めに拘束されている。
こんな臆病な自分を変えたいのに。
じわりと浮かぶ涙が、とても自分勝手に思えた。
"またね"
今日2回も言ってもらえたその言葉。
この先に繋がる……かもしれない大事な言葉。
「また、明日」
誰もいなくなった教室でぽつりと呟く。
明日は、きちんと返せるだろうか。
ありがとうと、言えるだろうか。
ギギッと音を立てて席を立つ。
鞄に教科書を詰める音だけが響く教室。
「……また、明日」
繰り返してグッと鞄を持ち上げた。
ずしりとした重みが、今日は何だかいつもより肩に食い込む。
その姿を影からそっと、"人形さん"である彼が見ていたことなど気付かない。
陽は、すっかり沈んでいた。