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1.美人形さんと私


それは、視力0.5のぼやけ具合からでもはっきり分かるほどに美しい人形だった。

ここは過去の芸術たちが眠る美術準備室。

一体どういう意図で作られたのかなんて考える方がきっとナンセンスだろう。

“彼”は、もはやガラクタと化した山に埋もれ深い眠りについている。


「貴方のような綺麗な人形でも捨てられてしまうなんて」


思わず憐れみ呟いた。

美術部の幽霊部員である私に、この人形の芸術的な価値など分からない。

けれどあまりに美しい造形にひたすら目を奪われるばかりだ。


陶器で出来た割れのひとつもない肌。

風が吹けばサラサラとそよいでいい香りのしそうなストレートの黒髪。

左右対称についた同じ大きさのその目は閉ざしているから瞳の形までは分からない。

スッと通った鼻は品よく小さめで、口も小ぶりだ。

肩から下は布をかけられているから分からないが、首筋の細さからその身は随分と華奢なのだと分かる。

けれど顔は不釣り合いにならない程度に小さく形も理想的な卵型。

この人形を生み出した作者はよほど美意識の高い人だったのだろう。


「……なんて、私に言われたくないか」


自嘲交りに吐き出して、腰を下ろす。

パラパラとめくる本の文字は、ぼやけて読めなかった。

それもそうだろう。

0.5の視力では教室の最前列でさえ半々の識字率なのだ、この薄暗い準備室で読む文字の小さな本など読めるはずもない。

明らかに度数の合わないこの眼鏡を新調する勇気すらなかった。


閉め切った窓の外からは、甲高い女子生徒たちの笑い声が聞こえる。

サッカーでもしているのか、こっちだこっちとそんな男子の声もする。

どこにでもある賑やかなお昼休みだ。


「何やってるんだろう、私。こんなところに逃げ込んで」


本を閉じうずくまる。

こんな人の気配すらも感じられない場所でさえ、演技をしている。

自分があまり哀れに映らないように。

人の輪に入れないのではなくて、あえて入らないのだと。

本を読むのが好きで、1人の時間を好んでいるのだと。

だから1人でいることに何の辛さだって感じていないのだと。

そんなはずが無いのに。


「教室、戻りたくないなあ」


惨めだった。

自分ひとりだけがどんどん取り残される。

高校デビューは見事に失敗してしまった。

半年経っても、世間話ひとつ上手に出来ない。


眼鏡の精度はどんどん落ちていく。

これ以上世知辛い現実を見たくなかった。

視界は、少しぼやけるくらいが綺麗に映るものだから。

くっきりはっきり見える世界は知りたくないものまで映してしまう。

たとえば0.5の視界ならば笑顔に見えるその顔の、少し引きつった部分とか。

寂しそうに歪めた眉をしたその顔の、少しだけ上がった口角とか。


中学時代のトラウマというのは、中々に厄介な代物だった。

私の心を未だに縛り付け硬直させる。

「笹部さん今日も1人なのー? 寂しいねえ」

なんてあれは、きっとほんの少しのからかいだった。

人付き合いの下手な私に対する、ちょっとしたマウントだったかもしれない。

いじめと言うには少し大げさだと思う。

それでもノリの良い彼らのからかいにも似た嘲笑についていくことができなかった。

「笹部さんって、変わってるよね」と、その言葉と共に見えた表情から自分が“面倒な人”認定を受けたことを正確に読み取ってしまった。

そこから少しずつ、少しずつ。

たとえば体育祭や学芸祭の、団結の輪に入れないあの感覚とか。

たとえばグループ決めの時の、周りの明らかに困惑したあの表情とか。

少しずつ気力や明るさを奪い取っていったように思う。


鈍くさくて人との距離感が掴めない。

そのくせ何故だか人一倍、他者の感情に聡い。

それが笹部ささべ理子りこという人間だった。

正直、自己嫌悪の毎日だ。


「貴方のように、輝く何かがあれば……私も変われたのかな?」


静かな部屋でジッと見つめるのは、今日発見したばかりの美麗な人形。

0.5の視力で見るからこそとてつもなく綺麗に見えるのかもしれない、端正な顔立ちの人形。

無機質な相手だからこそ、声をかけることができた。

今はもう同年代の人達とどう会話して良いのかも分からない。

あまりに会話に怯える日々が長くなってしまっていた。


もし、この人形のように自分の顔が整っていたならば。

もし、自分が頭の良い人間だったならば。

もし、運動でクラスに貢献できる能力があったならば。

もし、全てのことを笑い飛ばしてしまえるくらいの強い心を持てていたならば。

ありもしない可能性を浮かべては尚更落ち込む。

何もかも普通にすら達しない自分に自信など持てるはずがなかった。


「……ああ本当、どうして私はこうも卑屈で臆病なんだろう」


何もかもが空回っている。

こんなところでウジウジしたところで何かが変わるわけでは無いと分かっているのに。

人と比べたところで虚しくなるだけだと分かっているはずだ。

それなのに独り言でしか、自分は上手に言葉すら繋げられない。


「友達、欲しいなあ」


他の人ならば当たり前のように達成している、けれどとてつもなく高いハードル。

そのために必要な努力だって十分にできていない自覚もあった。

けれど、それでも。

どうにも諦めきれない想いと情けない感情が入り乱れて苦しい。


「今日は佐々木さんにさよならを言って、明日は後ろの森くんにおはようって言って……だ、男子は難しいかなあ。女子で気味悪がらないでいてくれる子、いるかなあ?」


いつだってシミュレーションだけは完璧なのだ。

おはようと笑顔で爽やかに告げれば、同じように弾けた笑顔でおはようと言ってくれる。

ばいばいまたねと声をあげれば、皆じゃなくても1人ふたり手を振り返してくれる。

そんな優しい世界は、残念ながら毎度ドモり、つっかえ、小声を極める自分の臆病さに負けて実現しないままではあるけれど。


「ねえ、人形さん。練習相手になってくれますか?」


ああ、どうやら本当に自分は限界のようだ。

ぺらぺらと人形にかける言葉が止まらない。

ずっと人との会話に怯えながら、それでもひたすら飢えていた。

そんな事実にやっと気付く。


「こんにちは、綺麗なお人形さん。私は、笹部理子。よろしくお願いします」


ぽつりぽつりと、語りかけた。

当然、返事など返ってくるはずもないけれど。


「こんにちは、美しい人。私とお話、してみませんか?」


人との会話の始まり方など、知らない。

童話の世界のように、妙に紳士のような淑女のようなそんな言葉を紡ぐ。


「こんにちは、お兄さん。今日は雲一つないから、お兄さんが神々しく光っていますよ」

「美人形さん、さようなら。今日もお話相手になってくれてありがとう」


他の人に見つかれば、きっと不気味がられるだろう。

無機相手じゃなければ途端にカタコトになってしまう自分。

視線を感じればたちまちすくみ上る、臆病な自分。

必死に人形相手に挨拶を練習し続ける自分。

けれど不思議と、声をあげれば心が少しだけ落ち着いた。

独りぼっちではないのだと、ほんの少し勇気が湧く。

午後の授業に向かう糧となった。


何気なく始まった、きっかけもはっきりしない日常。

あまりに一方通行な会話。

それでも“彼”は私を否定することがない。

いつだって会いに行けば変わらぬ姿で出迎えてくれる。

そうして声をかけ続ければいくら無機物と言えど愛着が湧いて、言葉は少しずつ多様性を増していく。


「今日は失敗してしまったんです。せっかく佐々木さんが気遣ってくれたのに。きちんと笑って“ありがとう”が言えなかった。心の中では大音量なのに」


そんな愚痴にも近い言葉をこぼす。


「雨の音、私好きなんですよ。だって、優しい音でしょう? ぼんやりした音が、ぽつぽつリズムを叩くの。少しだけ暗くて人形さんのお顔が見えづらいのは、ちょっと残念ですけれど」


そんなどうでも良いような世間話もする。


少しだけ日常が賑やかになった。

学校の隅、教室からは少し遠くて人の寄り付かない美術室。

さらに奥にあるこの薄暗くて物が雑然と積まれた準備室は、絶好の逃げ場所。

そこで理子と“彼”の過ごす日常は、1日たったの10分ちょっと。

それでも少しずつ、少しずつ、積み上がっていく。

そこから何かが生まれる訳ではないと、分かっているけれど。


「こんにちは、お人形さん」

「さようなら、お兄さん」

「寒くないですか?」

「今日は温かいですね」


視力0.5のぼやけた世界は前よりも少しだけ温かく、目の前に鎮座する“彼”は相変わらず美しい。

あまりに繊細な美人形を壊してしまうのが怖くて、いつだって距離はきっちり1メートル。

縮まることのない距離感でも、0.5のぼやけた世界でだって、やっぱりその人形は美しく、今日も目を閉ざしたまま言葉を受け止めてくれる。


いつしかその美しい人形は、私にとって会話の練習相手では無くなっていた。

無二の友人のような、一番の理解者のような、そんな感情が湧いたのだ。

変人だと思われようと、不気味がられようと、切迫つまった私の背中を無言のまま緩く優しく押してくれたのは"彼"だったから。


勝手に友人にするなと、この人形は怒っているだろうか。

それでも1ヶ月経つ頃には分かるようになった。

目元が少しだけ下がった穏やかな人形なのだと。

近くにいる自分を威圧しない、温かな空気を纏っているのだと。

芸術性など、やはりまるで理解できていないけれど。


「お話、したいなあ。貴方と、おしゃべり……してみたいです」


それは、だからこそ出てきた少しだけ傲慢な言葉だった。

一方的に話しかけ、一方的に好意を抱き、そうして生まれた欲。




「……うん、俺も」


まさか、返って来るものがあるなんて思っていなかった。

深く深く、1か月決して開くことのなかったその瞳。

淡くて透き通った、青の色。

ビー玉のように、ガラス細工のように透明度の高い瞳に吸い込まれ、かちりと固まった。




 





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