不十分な充足
「俺、結婚する」
いつまでもふわふわと浮ついてはいられない。
「前に話したかな。街道で助けた行商人のゴヨックさん。すごく俺を気に入ってくれてて」
『男の人だったわよね?』
「娘さんが二人いて、どっちか俺の嫁にって。もう結構経つけど」
怪我をした行商人が、街道の山道で獣に襲われていた。
俺もそれほど強いわけではないけれど、荒事にも少しは慣れた。五体万全なら獣を追い払うくらいは出来る。
行商人のゴヨックを助け、彼を目的の町まで送り届けるまで色々な話を聞いた。
飲み込みが良いと褒められたが、商売上の簡単な駆け引きなど。
助けられたという恩も感じていたのだろう。彼の家に招かれ、家族を紹介してもらって。
他に当てがないのなら、このまま商売を手伝うついでに家族にならないかと。
その時は故郷を探していると断ったのだが。
娘は際立った美人というわけではないが、愛嬌の良い姉妹だった。
案外、今はもう結婚しているかもしれない。その時はその時だ。
「このまま根無し草ってわけにもいかない。腰を据えて、ここで生きていくけじめをつける」
母からの返信が途切れる。
もう時間かと思ったところで着信があった。
『本当に帰れないの?』
ずっと探してきた道。
日本に帰る手段がどこかにあるのではないか。
こちらで誰かと深い絆を持つことが、帰らない理由になってしまわないかと不安だった。
「世界の真ん中。海の中から空まで届く木があるって」
言葉を覚えてから、別の世界に繋がる話を聞き漁った。
「中は虚の空洞になっていて、底は溶岩に。上は太陽に繋がっているらしいんだけど」
有り得ない。とは言えない。
そんな不思議なことくらいある。この世界なら。
「そのどこかに神様とかの世界に繋がる扉があるって言う話。でも、さすがに無理だね」
過去の伝説の英雄でさえ探索しきれなかったという場所。
ただの迷い人の俺では、辿り着くことさえ難しい。
「……諦めてごめん。情けない息子だ」
『そんなことない。あなたはすごく立派になった』
出来ないことを、母は責めなかった。
『それで死んじゃったらどうしようもないの。聞き分けがないのは母さんだったわね』
帰ろうと無謀なことをして命を落とす。
それでは意味がない。
だいたいその伝承だって事実かどうかわからないし、繋がっている扉の先が日本とも限らない。
その道は諦めた。
手が届かないこともある。
俺を助けてくれたジュドだって、ある時あっさり死んでしまったのだから。
生き方を教えてくれたジュド。
そして、誰でも思いもせずに死ぬことも教えてくれた。
彼には深く感謝している。
『トーマ、絶対に忘れないで。いつでも帰ってきていいの。あなたの部屋はずっと残しているから。母さんもお父さんもユーリもずっとあなたの帰りを待っている』
時間がもうないのだろう。
思うだけのことをとにかく書き綴った文章。
「死ぬまで諦めない。だけどごめん、ごめん。ちゃんと生きるから。一生懸命、ちゃんと幸せになるから」
約束するんだ。
幸せになると。幸せでいると。
そうしなければいつまでも家族は俺を引き摺る。
俺はいつまでも独り立ちできない。
「そっちも幸せでいてほしい」
『絶対に忘れないから』
「俺は生まれてきてよかった」
『おにい、ありがとう』
「井土トーマはこの世界で生きる」
『お前を信じている』
「俺は、いつか――」
――圏外
送れなかったメール画面。
しばらく、そのまま。
さっき充電したけれど、もう充電も残り少ない。
メールを多用したこともあるし、そもそもバッテリーが限界だ。
途切れた糸。
糸電話よりも頼りないもので繋がっていただけ。
書きかけのメールを消した。
ぴろん、と。
着信音が鳴った。
「!」
慌てて確認する。
アンテナは……圏外のまま。
けれどメールの着信が。
ああ。
書きかけていたメールのせいで、最後にメールBOXに届いていた分の通知が遅れたのだ。
「……」
誰からだったのだろうか。
「……はっ」
【井土トーマ様。日頃は弊社サービスをご愛顧いただきまして誠にありがとうございます。誠に勝手ながら本日12時を持ちまして、本契約を満了とさせていただきます。またのご利用を心よりお待ちしております】
「またのご利用、ね」
ぱたんと、二つに折りたたんだ。
高校入学の時だったのだから、地球時間で9年間か。
そういえば最初に選んだ時、落としたりしてもいい頑丈なのをと頼んだのだった。
販売員の人はあまり自信なさそうに、比べるならこれですかねと出してくれたのを今になって思い出す。
担当の人の顔も名前も覚えていないけど、感謝する。
あんたの見立ては正しかったよ、と。
「こっちこそ、長くサービス使わせてもらってありがとうございます」
ずっと繋いでくれていた。
恨みなどない。
「貴社の益々のご発展をお祈り申し上げます。って、こんなんで合ってたっけ」
日本を離れたのが高校時代なのだ。ビジネスマナーなんてよくわからないが、こんな感じだったと思う。
感謝している。
あの時、ユーリを助けさせてくれた運命にも。
大好きだと胸を張って言える両親の子として産まれたことも。
ここに流れ着き、ジュドを始めとして多くの人と出会い、生きてこられたことも。
不足だったと言うことも出来る。
もっと便利な機械だったら。もっと自由に通信が出来れば。
だけど、少なくとも俺が自分の足で立てるまでの時間を支えてくれた。
だから、もう十分だ。
思い出を荷袋の奥にしまい込み、立ち上がった。
歩んでいくしかない。自分の足で。
俺が。
不思議なこと、奇妙な景色がたくさんある、井土トーマが生きる世界を。
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