自慢の馬鹿兄
岩場に流れ着いた俺は、居合わせたおっさんに拾われた。
中年だが引き締まった体格で、言葉は全くわからなかったけれど豪快に笑う男だった。
海パン姿の俺に変な臭いのする革製っぽいマントを渡して、強いピンク色の肉団子を煮る。
味付けは海水だ。そもそも海水で煮ていたし。
食え、と。
相変わらず言葉はわからなかったが、俺の貧相な体を見て腹が減っているだろうと思ったようだ。
しょっぱかった。
当たり前だけれど。
わけもわからず涙が溢れた。
生きている。生きていると思ったら、急に。
ケイタイは電池がなかった。
流される前に充電をしておけば良かったのだろうが、不登校の俺に連絡をする人間は限られていて。
それでも唯一の貴重品だったから身に着けていたけれど。
おっさんはジュドと名乗った。
言葉が通じない中、身振り手振りで何とか自分も伝える。トーマだと。
日本では他人との接触を拒んでいたのに、いざ命がかかれば必死になる。
見知らぬ土地。
通じない言葉。
そんな中で頼りになりそうだと感じた相手に、どうか助けてくれと訴える。
幸いなことにジュドは冷酷非情な人間ではなく、面倒見のいい陽気な男だった。
後で聞いたら、生っちょろい体つきだったので、豪商の息子が航海中に嵐にでもあったのかと思ったそうだ。
そのくせ粗末な食べ物に感謝をする。
ジュドの目に映った印象は悪くなかった。
助けてやれば後で金になるかもしれない。
そういう考えもあったと言うが、どこまでが本心だったのか。
ジュドは言葉を教えてくれた。
目に付いたものを指差しながら、その名詞を。俺はそれを繰り返す。
少しずつ物の呼び方を覚えながら、彼の後を追う。
ジュドは狩人で、しばらくすると近くの村についた。
しばらく、とは言っても数日かかったのだが。
その間にもらった食べ物には青くなったこともあったし、地面を掘ってクソをするのにも最初は戸惑った。
近くに手ごろな草がないとケツを拭くことも出来ない。
ジュドが狩った太った鹿のような獣。
腹を裂き内臓を取り出すのを手伝わされ、最初は吐いた。
ゴム手袋もないのだ。素手で。
感謝している。
彼が、生きる術を教えてくれた。
ジュドがいなければトーマはとっくに死んでいただろう。
「半年も連絡とれなくて、ごめん」
ケイタイの充電ができるようになるまで、日本では半年が過ぎていた。
こちらの時間とは少しずれている。
「ユーリが無事で良かったよ。俺、頑張ったじゃん」
『バカ』
妹からの一言が嬉しい。
俺にしては上出来だ。
「俺も無事。ユーリも無事。俺にしたら上出来だよ」
『バカバカバカおにい』
「知ってる。俺って馬鹿だよな」
『私もそっちに行く』
「馬鹿言うな。お前は」
連絡が取れるようになってから、心配をかけないように色々と面白い話をした。
それを鵜呑みにされても困る。
ここは日本ではない。
日本のように快適に、安全に暮らせるわけではない。
「ユーリ、お前は父さんと母さんを頼む」
『……やだ』
妹から聞く我が侭はこれが最後になるだろう。
『頼まれない』
昔の俺なら、我が侭言うなと突っぱねたか、理屈っぽいことを並べて言い負かそうとしたはず。
「ごめんな」
『……バカ』
「なんか恋人みたいじゃね。この会話」
『バカじゃん』
こんな会話もこれで最後と思えば、何でもないことなのに大切に感じる。
残り数分で切れる繋がり。
『私のせいでおにいが……ごめんなさい』
「あのな」
俺なんかよりずっとよく出来た妹のくせに。
「あの時お前を助けられなかったら、それこそ俺は腐ってたよ。間違いない」
俺の人生で、あれは一番の正しい選択だった。
「ユーリが無事で良かった。俺、少しは兄貴らしいだろ」
返信は少し間が空いた。
感謝か、憎まれ口か、文句か、自責か。
何度も打って、何度も消しているのだと思う。
限られた数分の中の、しばらくの間。
無駄ではない。
うまく言葉にならないそれが、たぶん大切なものだと今はわかる。
『自慢の兄、だよ』
「ユーリだってそうだ。自慢の妹だな」
『大好きだよ、おにい』
「ああ、俺も大好きだ」
『これ、恋人っぽくない?』
「そうだな」
苦笑するしかない。
日本にいる時は、妹に対してこんなに優しい気持ちになったことがない。
離れたから。もう会えないから。
今更だけど、間に合ったと言ってもいいだろう。
『そっちで、私に似てないお嫁さん見つけなよ』
「なんで?」
『私と似てたら私と比べちゃうじゃん。かわいそうでしょ』
「はいはい」
これくらい生意気なのがそれらしい。
妹なりの別れの言葉。
激励の言葉、かな。
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