〃 7歳 侍女の願い
地上四階建て地下は五階まであるアルバーン領を見下ろす城に王都の別邸から移り、一年と少しが経つ。
サニー・カーニーがパトリシア付きの侍女になってからは早五年だ。パトリシアは7歳だし、サニーも17歳になった。
盆にグラス2つと水差しを乗せてサニーは花々の咲き誇る中庭の広場までやってきた。
時は既に夕刻。
木剣のぶつかり合う軽い音が響いている。
広場横にある東屋のテーブルに盆を置くと、サニーは剣の修練に夢中の主パトリシアを見つめた。
「……」
最近はやっとクリフと2~3合、剣を合わせることが出来るようになってきたとパトリシアは嬉しそうに教えてくれたことをサニーは思い出す。
一際軽い音が響いて、パトリシアの木剣が宙を舞って地面に落ちた。
パトリシアは走って木剣を拾い、相手をしているクリフは三歩下がって構えなおしている。
元の位置に戻ってきたパトリシアは再びクリフの前で構え、向かっていく。
今度は二合目でパトリシアの木剣は左に振り払われ、開いた腹にクリフの蹴りが入った。
思わず、サニーは両手を前に出し、声を上げそうになった。
「…………」
下唇を噛み、両手を拳にして下げるサニー。
「──お、うまくなったな」
クリフの明るい声だ。
「このパターン、何度目だと思ってるの? さすがに覚えましたわ!」
入ったと思われた蹴りだが、パトリシアは半歩退いて威力をいなしていたようだ。そのまま元気よく木剣を横に振るパトリシア。だが──木剣は空をきるのみ。
読んでいたクリフはとっくにしゃがんでパトリシアの木剣を避けている。
「んー、足がなぁ……!」
次の瞬間、パトリシアは派手に尻餅をついて転んでいる。
「んもぅ! クリフはそればっかり!」
「俺は弱点をわかりやすくしてるだけだろ? ちょっとは気をつけろよ」
しゃがむクリフの前でパトリシアは体を起こしつつ、両膝から下の足を開くぺたん座りで言い募る。
「簡単に直ったら苦労なんてしませんわよ! 足をひっかけるばっかりはやめてと言ってるの! なんというか! こう! 剣で! ちゃんと剣で相手して!」
掴んだままの木剣を振り上げるパトリシア。
「お前……ほんとワガママだよな~。実戦形式がいいって言ってただろ? 実戦なら剣ばっかりじゃないんだぞ」
「わかってますわよ! だから蹴りも投げもなんでも有りって言ってるじゃない! でも! でも! ……んもぉおお!!」
言葉にしきれず立ち上がったパトリシアは、地団駄を踏んであらぬ方へ木剣を振り回して憂さ晴らしをしている。
クリフはと言えば──。
サニーもまた、微笑ましく眺めている。
剣の修練は主パトリシアがどうしてもと望んだこと。邪魔は出来ない。
擦り傷やあざをたくさん作って、痕になりそうなものは回復魔術で治癒するものの、他は「自分で治す!」と宣言されては手が出せない。
乱暴な程の剣の修練も、体力作りに城中走り回るのも、毎朝厩舎に行って馬の世話の手伝いをしながら乗馬訓練にむけて動いているパトリシアの様子も、サニーはただ見守る。
パトリシアの、年齢に不釣り合いな悲愴な顔をサニーは見たことがある……己の幼い主に強い決意があることを察してしまったから──。
サニーは固く握っていた手をほどき、待機の姿勢に戻して再びパトリシアとクリフを見る。
年相応に笑いあって話している姿に少しほっとした。
サニーの心には気がかりが消えないで居座っている。
一年半ほど前から、パトリシアが妙に大人しいのだ。
それまでは侍女のお仕着せの色が気に入らないとか、花が臭いとか、夜が暗いのは大嫌いだから昼にしろだとか、片っ端から文句をつけては必ず「早く直して!」だった。
クリフとのやり取りを見ていると今も「直せ」と言っているようだが、従兄弟のせいか取り合ってもらえていない。昔のパトリシアのままならそのまま癇癪を起こしていそうなものなのに──。
「クリフ! もう一本!!」
切り替えてまた挑んでいる。
5歳が7歳に成長したからだけとは、サニーには思えないところがある。
パトリシアが2歳の頃、見習いも兼ねてサニーは侍女になった。それから五年、彼女の成長を見守っている。
王都からアルバーン領へ戻る際、サニーは完全なパトリシア付きになったのだが、それを彼女が望んだのだと知ったのはつい最近だ。
そもそもパトリシアの父アルバーン公爵から最も覚えめでたい騎士がサニーの父だった。その父が男爵位を得るにあたり、アルバーン公爵がサニーをパトリシアの侍女にどうかと持ちかけて始まった縁。
サニーはその頃は12歳だったが、いわゆるお転婆──パトリシアと大差ない少女だった。才能豊かで読み書きから護身術も魔術も既に大人と変わらないほど扱えた点はパトリシアより優秀だったのかもしれない。だが、父が一代限りの男爵位だったので、サニーは社交界デビューも学園入学もしない。
2歳からワガママと癇癪を爆裂させていたパトリシアと元気が有り余っていたサニーのマッチング。
侍女を蹴飛ばしいじめるパトリシアがサニーには手を出さなくなることは、アルバーン公爵にはお見通しだったようだ。父世代、父同士の関係そのまま……という話なのだが、それはサニーの知るところではない。
サニーの方は2歳のパトリシアの嫌がらせなど『この程度で……』という気持ちで受け流していた。
パトリシアのくだらないワガママも幼い暴力も見習い侍女だったからこそスルー出来た。
むしろ「ミニチュアの私ね。魔力がないから魔術を暴走させないし、私よりマシよ。可愛らしいお子じゃない」くらいでサニーは構えていた。
だが、それはある日突然、唐突に──。
まる1日パトリシアの元気がない日があった。
そう──一年半ほど前、パトリシアが5歳の頃……。
パトリシアは窓辺で仁王立ちをして、空を睨んでいた。
毎日、好き放題わがままを言って、周りがあたふたと駆けずり回る様子を笑って眺めているような令嬢だったのに、その日はとにかく静かだった。
無表情で空を見つめる横顔は、まろみのある頬なのに緊張で固くなっているように見えたものだ。
引き結んだ唇は何かを押し込んでこらえてでもいるかのようで、普段は事務的にしか対応しない、相手しないサニーが膝を折ってパトリシアの顔を覗き込んだほど。
サニーは「お嬢様、大丈夫ですか?」と声をかけた記憶がある。
その時、パトリシアは無表情のまま、両目に溜めた涙を一粒ころりとこぼした。
5歳の子供がする反応とは思えなかった。
我慢なんて知らない、我が儘が服を着たようなお嬢様──それがサニーのパトリシアへの評価だった。
あの時、自分が泣いていることにも気付いていない様子のパトリシアは、サニーの頬を小さな手で撫でたのだ。
声になっていなかったが、パトリシアの震える唇は『ごめんなさい』と動いていた。
差し込む夕日が一際強まった時で、きっとサニーはあの涙を一生忘れられない。
それからだ。パトリシアの理不尽な我が儘がすべてピタリと止んだのは。
もちろんサニーが目撃したのは前世の記憶を見てしまったばかりのパトリシアだ。だが、そんなことをサニーが察することなど出来ない。
だが、急な変化はわかる。パトリシアは大人を振り回してからかって笑っていたのに、突然、従順になった。
してはいけないことをしない。
決まったルールを守る。
一定以上の年齢なら簡単なことだが、普通の5歳児はひとつずつ覚えていく時期で、完璧には出来ない。ましてや、顔が可愛いだけで、内面は悪魔かと思うほど傍若無人だったパトリシアに出来るはずではなかった。なのに、その日を境に遵守してみせた。
有り体に言えば、いい子になった。
それでいて、日中、一人になると奥歯を噛み締めている。
また、その頃からパトリシアは寝静まった夜中に邸中に響き渡る悲鳴を上げて火がついたように泣き出すようになった。何時間も虚ろな目で暴れまわり、父親や母親が抱きしめて宥めてもボロボロと大粒の涙を流して意味不明の言葉を叫んでいた。その事を、パトリシアは覚えていないようでもあった。
アルバーン公爵も医師にも見せていたが、年齢的には見られる反応でもあるので落ち着いて見守るようにとの診断だった。
6人兄弟のサニーも実家に帰った際に母親に聞いてみたが、二番目の兄がそのような泣き方で夜中起き、一時間もしたら眠っていたと教えてくれた。半年ほど続いた頃にサニーが産まれ、そこで止んだのだと……。
だが、サニーは納得がいかなかった。
夜毎、透けそうな白い肌を真っ赤にしてパトリシアは喉が破けるのではないかという声で泣き叫んでいた。
その夜泣きが始まると公爵夫人がパトリシアを抱きしめ、反対側から公爵が二人まとめて抱え込んで、まるでパトリシアの苦痛に寄り添うように時を過ごしていた。
サニーも他の侍女達同様、自室から駆け寄り、ただ何も出来ずに見るだけだった。
幼い主の中で、何か大きな変化があったのだと察しはするものの、何も出来ない。
そのうち、パトリシアは『剣を習いたい! 乗馬を覚えたい! 王都ではなくアルバーン領の城で暮らしたい!』と騒ぐようになる。
公爵は数日悩んでいたが、夫人の反対を押し切って了承した。
その夜からだ。夜泣きが消え、パトリシアはぐっすりと眠るようになった。
何がなんだかわけがわからない──。
それはパトリシアの父母である公爵も公爵夫人も同じだっただろう。
好き放題する意地悪な顔つきだったパトリシア。
いい子になるも、激しい夜泣きを繰り返したパトリシア。
一人きりの時の大人びた横顔のパトリシア……。
涙を零して侍女になど謝罪した幼い主……。
公爵にパトリシア付きの侍女としてアルバーン領へ行って欲しいと言われた時は『自分が行かなくて一体誰が行くのだ!?』と答えそうになったほどだ。
放ってはおけないとサニーは強く思ってしまった。
意地悪に笑う顔も、大人しく微笑む口元も、孤独に何かと戦う横顔も、零した涙もすべて、愛おしいと思ってしまった。
主に抱く感情ではないが、サニーは思ってしまったものは仕方ないと覚悟を決めた。
ふと、クリフがこちらを指差している。柔らかな金髪を揺らして振り返ったパトリシアの汗が光って見えた。
「サニー! もう時間!?」
パトリシアが心のまま、自然な笑みを向けてくれたことがサニーは素直に嬉しかった。
「はい。そろそろ終わりになさってくださいね、トリシアお嬢様」
この頃にはもう、10歳年下の主を一番そばで見守りたいと、主は何かに憑かれているようにも見えて、それを振り払うのを手伝いたいと──サニーは心底願うようになっていた……。