未来
「――ボツですね」
「ええっ、なんでぇっ!? そりゃないだろ、山ちゃん!!」
中年男の叫びが、ひなびた喫茶店に響き渡った。
山住幸生は苦笑を浮かべた。
「だって、藤先生。これ、発注と全然違うじゃないですか」
山住はプリントアウトされた原稿の束を軽く叩いた。
表紙には『桐朋笛美の異議 著:デーモン藤』と記載されている。
目前にいる中年作家、デーモン藤が書いた初稿である。
「いや、まあ……違うけど、違わない」
――はははは、なるほどねー。何言ってんの、お前?
藤の返答は意味不明だ。
顔が引きつりそうになるのを山住は必死でこらえた。
「先生、それじゃわかりませんよ。これはウチの『よっ、社長!』に載せる原稿ですよね?」
月刊誌『よっ、社長!』はビジネスパーソン向けの雑誌だ。
東証一部上場企業を中心に、注目される企業の解説や経済のトレンド、経営者インタビューなどを掲載している。
箸休め的に小説を載せる枠があり、来月から藤の新作を連載する予定だった。
だったのだが、いきなり雲行きが怪しくなった。
「もちろん、そうだよ。あれは中高年のサラリーマンが主要な読者層だろ? 俺は彼らに読んで欲しいんだよ、これを」
――ですよね。そんな話だろうと思いましたよ。
山住はため息を抑え込む。
こう見えて藤はデビュー15年目のベテラン作家である。
大人気とはいかないが、固定ファンがついており、そこそこ売れているのだ。
実力に応じた作家としての矜持も持っていた。
へそを曲げられたら、面倒なことになる。
「先生、お気持ちはわかりました。わかりましたが、今の時代、読者はみんな疲れているんです。必要なのは難しい政治劇じゃない。癒しですよ、癒し」
――って俺、打ち合わせの時にも同じこと言ったよね? あんたも頷いていたじゃん! これのどこに癒し要素がある? なんでこうなるんだよ!?
内心の叫びがいくらか伝わったのか、藤も若干気まずそうな表情になった。
「いや、それもわかるよ。確かにそうだけどさ……それじゃ、ダメだろ?」
――駄目なのは、お前だーっ!!
きっとそう言い返せば気持ちがいいだろうが、山住は我慢した。
相手のストレスを他所に、藤は長口舌を振う。
「いい大人が癒しばかり求めてどうする。閉塞感を打破するには、行動が必要だ。何をすべきか、彼らに考えて欲しいんだよ、俺は! いいかい、まさに昨今――」
――素数だ。素数を数えるんだ。気持ちが落ち着くに違いない。
だが、山住は素数が何かよく知らなかった。
文系の人間というか、ぶっちゃけ数字は苦手なのだ。
「――ってるだろ? むろん、これはただの小説でフィクションさ。刺激的になるように書いているから、真に受けてもらっても困る。だが、これをきっかけに現実の――」
しかし、おかげで聞き流しには成功したらしい。
気づけば、藤の演説は終盤となっていた。
「――だから、その時、伝えるべき物語というものはあるんだ。小説にはその力がある。これは作り手としての義務だ。俺が、いま、彼らに伝えるべき物語はこれなんだよ!」
「なるほどですね。それは確かに、先生のおっしゃる通りかも知れません」
「おっ、わかってくれたかい? さすが、山ちゃん!」
喜色に輝く藤の顔を見て、山住は意を決した。
――よし、わかったぞ。まともに反論してもこいつは聞かない。
雑誌『よっ、社長!』は書店売りもしているが、発行部数のかなりの部分を企業購入分が占めていた。
広告も大手企業のものばかり。
早い話、企業はスポンサーであり、主要な購買層でもあった。
政治家はともかく、経営者にまで不審を抱かせるような小説を掲載できるはずがない。
むしろ、経営者が社員に読ませたい物語を載せるべきなのだ。
そんな簡単なことが、この馬鹿作家にはわからないらしい。
「だけど、残念だなぁ……いや、困ったなぁ。僕は先生を信用していたのに」
「はっ? なに、なんだよ?」
「だって、先々週は打ち合わせ内容通りに進んでいるって言ってましたよね? ほら、チャットにも書いてる」
山住はスマホの画面を藤に見せた。
確かに藤からのチャットメッセージには、そのようなテキストが打たれていた。
「僕、これ、編集長にも見せちゃったんですよ……ばっちりです、藤先生、快調ですよって」
藤はややひるんだようだ。
「まぁ、それはさ……よし、わかった。俺から編集長に話してみるよ」
――やめてくれ。作家の手綱一つ握れないのか、ってこっちが首になるわ。
名刺には『ダレヤラノモンド社 よっ、社長!編集部』と記載されているが、山住は派遣社員だ。所属は小さな編集プロダクションで、期間契約。
根無し草の作家には理解できないのだろうが、組織の中で一番弱い立場なのだ。
波風をたてることなど、できるはずもない。
「最初から先生が『こういう話にしたい』って言ってくれたら、僕もそれなりに動けたんですよ。でも、この締め切り直前になって、いきなりだから……どうしよう……困ったな」
困った、困ったと山住は繰り返す。
小説の内容そのものには、決して触れないのがポイントだ。
「先生……なんで僕を騙したんですか?」
できるだけ情けない態度を見せつける。
これはしっかりと藤に刺さったらしい。
「おいおい、人聞きが悪いじゃないか! 原稿はあるだろ、ここに、ちゃんと!!」
怒っているのは、動揺しているからだ。罪悪感を抱いたのだ。
ここが攻め時である、と山住は判断した。
その気になれば、藤は物凄い速度で執筆できる。
今から書いたとしても、ぎりぎり締め切りに間に合わせられるはずだ。
「す、すみません……失言でした。でも、これは、発注と違いますよね……」
弱々しく、しおれた声。
さすがに藤もさらに怒鳴りはしなかった。
「ちょ、山ちゃん! いや、その……参ったな。あるよ、ちゃんと。一応は発注通りに書いたんだよ。でも、こりゃねぇなって……」
「あるんですかっ!? 見せてください、すぐにっ!!」
差し出された原稿を奪い取り、山住は得意の速読で目を通した。
主人公は大手自動車メーカーの課長だった。
悲しき中間管理職という奴だ。
これと言って特徴のない男だが、勤務先の自動車メーカーの内実(トヨダ自動車がモデルのようだ)がそれらしく描かれており、面白く読める。
連載が続いた場合のプロットもついていた。
主人公は二流大学卒で自分では一切汗をかかないし、出世欲もない。しかし、いいタイミングでそれらしいことを言ったり、浮気をしたら仕事にうまくつながったりで、なんだか順調に昇進していくらしい。
なんと課長からスタートして部長、取締役、常務、専務、社長、会長、相談役までトントン拍子で上りつめるのだ。夢のようである。
主人公には妻がいるのだが、早々に離婚。
勝手に寄ってくる美女達と浮名を流していく。
小説のタイトルは『課長 井間豊作』。
まさに会社員向けの癒しであった。
「――いいじゃないですか。これですよ、これっ!! さすが、藤先生!!」
「ええっ、そおかぁっ? これ、面白い?」
「面白いですっ!! 読んでいると自分が大手会社の正社員になった気がしますね。気持ちよく出世レールに乗って行ける。発注通りですよ、まさにっ!!」
「でもさ、これ現実感ないだろ。あり得ないでしょ、こんな調子のいい話」
「大丈夫です! 最近はファンタジー流行りですからね、全然問題ないですよっ!」
――よかった。本当によかった。やるじゃん、こいつぅっ!!
山住は本心からほっとしていた。藤のことを見直していた。
同時にこの原稿を面倒な作家から引っ張り出した、自分の手腕にも満足していた。
「そお? うーん、そっかなあ……でも、こんなもの、読んでいる場合じゃないと思うんだよな……」
オイオイオイオイ。
またそこ? そこに戻っちゃうの? と、山住はうろたえた。
「確かに需要はあるかもね。でも山ちゃんさ、やっぱり俺は――」
「――わかりました」
原稿の束――もちろん、『井間豊作』の方を――しっかり抱え、山住は心持ち背筋を伸ばした。
――これでいいのだ。こっちがいいのだ。これを持って帰るのだ!
この原稿を死守する。
そして続きを書かせるのだ、来月も! と山住は固く決意していた。
「えっ、わかってくれたの? 今度は本当だろうね?」
「確かに、先生のおっしゃることにも一理あります。確かに、この時代に提示すべきは『笛美の異議』かも知れません」
己に言い聞かせるように、山住は小さなうなずきを繰り返す。
藤はほっとしたように笑う。
「おお、ありがとう! 話せばわかると思ってたんだよ、山ちゃんならさ! だけど、俺から言うのも何だけど、大丈夫かい?」
「もちろん、編集長には絶対に通りませんよ」
「ええっ!? じゃあ、どうするんだい?」
深く息を吸い、山住は答えた。
「編集長には『井間豊作』で了解をもらって、こっそり『笛美の異議』に差し替えます」
当然ながら、藤は驚愕した。
「ちょ……大丈夫なの、そんなことして!?」
「もちろん、大丈夫じゃありません。連載の話はなくなるし、当然、お約束していた単行本も出ない。僕は首でしょう」
「……マジで? そんなんなっちゃう?」
「なりますね。もう、コーラを飲んだらゲップが出るくらいに……」
「あ、俺、コーラ嫌い」
――うるせぇよ。いちいち話の腰を折るな!
どうにか気持ちを立て直し、山住は平静を保った。
「……とにかく、確実にそうなります。下手すれば、僕と先生は訴えられてしまう。しかし」
言葉を切り、山住は藤の目をじっと見た。
「先生が、それをおしてでも世に問いたい。この1話と心中する。どうしてもそうするっ! と、そのお覚悟があるなら、僕も地獄の底までお付き合いします。どうしますか、藤先生」
□
駅のホームは夕焼けに染まっていた。
編集部に帰社する旨連絡を入れた後、山住は電車に乗った。
車内はがらがらだった。
席に腰を下ろすと、どっと疲労が押し寄せた。
ここから都内の編集部まで帰るのに、軽く一時間半はかかってしまう。
――田舎だけど、座るのに苦労しない点だけはいいよな。
『井間豊作』のプリントアウトが入ったリュックを膝の上で抱える。
データ入稿だから本来不要なのだが、なんとなく持ち帰ってしまった。
なにかしら、戦利品が欲しかったのかも知れない。
――わざわざ呼び出すから何事かと思えば、まったく。
通常はチャットでのやり取りで事足りる。
藤は山住を説得するために、対面での打ち合わせを希望したのだろう。
ともかく、やり遂げた。
出来はいいのだから『井間豊作』を連載することは、藤にとってもプラスのはずだ。読者からの評判もいいだろう。
もしかしたら『よっ、社長!』の看板にさえなるかも知れない。
――だって、みんな疲れているからな。俺も疲れているし。
必要なのは癒し。癒しだ。
大丈夫だ、上手く行くよと読んでいる間だけでも信じさせて欲しい。
ろくな根拠もない警鐘などはいらない、と山住は思った。
大体『笛美の異議』は女性が主人公であることからして、もう違う。
読者は中高年の男性が大半だ。
名家に生まれ、若くして議員になった女に共感を持つとは思えない。
たとえ編集長を説得して連載を強行しても、人気は出なかったはずだ。
文芸誌ならまだしも、『よっ、社長!』ではダメだ。
「……早々に打ち切りになるよ、あんなの」
つぶやいてしまった言葉の響きに、山住はぞっとした。
彼は作家ではなく編集者だが、期間契約の身だ。
契約の打ち切り――雇止めは他人事ではない。
もし、そんなことになれば大変だ。特に今はまずい。
――コウちゃん、話があるの。
先日、山住の妻は第二子の懐妊を告げてきた。
山住はとっさに口ごもってしまった。素直に喜べなかった。
もちろん、子供が増えるのは嬉しい。
最初の子を山住は人並み以上に可愛がっている。
しかし、彼の所得は年間380万程度だ。
一人ならまだしも、もう一人養うのは大変だ。いや、かなり厳しいだろう。
もろもろが脳内を駆け巡り、山住は言葉に詰まった。
その時の妻の、すまなそうな、悲しそうな顔が忘れられない。
金に余裕がないと気持ちにも余裕が持てない。
これで契約を切られてしまったら。
そこまでいかなくても、条件を下げられてしまったら。
生活が立ち行かなくなるのは確実だ。
――誰に文句を言えばいいんだ。誰がこの状況を改善してくれるんだ。
役人? 政治家?
とてもじゃないが、山住は現実感を持てなかった。
何もかも自己責任の世の中だ。
だけど、自分の手に負えないことはどうすればいいのだ。
――藤先生じゃないけど、この国のお偉いさん達はどう思っているんだろうな。
いくらなんでもあの小説のような、あそこまで酷い陰謀はないだろう。
一方、大手企業の内部留保が史上最高額を記録しているのは、事実だ。
口座にうなるほど金が積み上がった状況で、変化を望むだろうか。
沢山儲けました、もう結構ですと言うだろうか。
あり得ない。彼らにとっては、今が一番いい時代なのだ。この状況が続いて欲しいはずだ。できれば、永遠に。
もし、政治家が庶民の暮らしに真剣に向き合ってないとしたら。
大企業の言いなりになるのが、政治家の利益にかなっているとしたら。
現状が変わることはない。改善は望めない。
むしろもっと――もっと、もっと、特定の人々だけが利益を貪る世界になる。
そうなれば、先行きに希望を持つことが、不可能になってしまう。
実際、20年後の日本はどうなる? とアンケートを取ったとして。
明るい未来を書き記す人が、果たして何人いるだろうか。
――いい大人が癒しばかり求めてどうする。行動が必要だ。
ふいに藤の言ったことが頭をよぎる。
山住は苛立たし気に眉をしかめた。
――うるさいな、わかっているよ。だから働いているんじゃないか。こんな田舎まで出張って。
馬鹿げた話だ。気にしすぎだ。
あれはただの小説、それもボツになった小説に過ぎない。
スマホをリュックに放り込み、眉間をもむ。
なぜか息まで苦しい気がする。
疲れていた。とにかく、疲れすぎていた。
他の誰もがそうであるように、山住は疲弊していた。
せめて目を休めようと窓に視線を向けたが、少々遅かったらしい。
外はもう、真っ暗だった。
読了ありがとうございました!
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