宣戦布告
誰の為、だって?
その言葉を聞いた瞬間――笛美の脳裏に閃くものがあった。
まさか。
まさか、この老人が言いたいのは――
「わかったかね。経済成長の恩恵を一番受けたのは庶民なのだよ!! 金は力だ。権力そのものだ。我々に集中していたはずの権力が削られ、庶民に分配されたのだ。おかげで連中は調子に乗ってしまった。主人が誰か、忘れてしまったのだ!!」
タガが外れてしまったのか、壇海は一気にまくしたてた。
「それがもっとも酷かったのが、バブル期だ。人手不足が拍車をかけ、信じがたい厚遇を提示した上で、大企業のトップが学生に頭を下げて入社を請うたのだ。こんな馬鹿な話はない。金を払う我々が、受け取る庶民にお願いをしているのだぞ!」
だん、と座敷卓を叩く。
壇海は憤懣やるかたない様子だった。
「報復、いや躾をせねばならん。この国をあるべき形に戻さねばならんのだ」
その手段として経済成長をマイナスにする? それもまた、筋が通らない。
もし金が権力であるなら、経済の縮小はすなわち、権力の減少に他ならないではないか。
「いやいや、たとえ全体が半分になろうが、僕は構わないと思っておるよ。要は我々の取り分が増えればいいのだからね。これはもう、半ば実現しておる。主要企業の株価と内部留保の額を見れば明らかだろう」
笛美は唖然となった。
経済的苦境にある国の権力者が、困窮しているとは限らない。
むしろその逆であるケースが多い。
貧しい国の独裁者が、とてつもない金持ちであることは珍しくない。
富の過剰な集中は、経済全体の活力を下げてしまう。
金は天下の回りもの……というが、その金が回らなくなるのだ。
結果、その国は経済的な泥沼から抜け出せなくなる。
代わりに権力者だけが肥え太る。
子々孫々まで続く金余りの中にどっぷりと浸るのだ。
「我々が苦労し、庶民の為に経済成長をさせるなど、ナンセンスじゃないかね。苦役を担うのは、奴らの仕事だ! 近年の政策はかみ合っていないのではない。君が見誤っているのだよ、最終目的をな」
ほんの一握りのエリート層が富のほぼすべてを収奪する。
日本をそのような形に作り替える。富の回収と分配の仕組みを変えてしまう。
それで国内の経済全体が縮小しようとも構わない。
壇海が――いや、政財界の重鎮がこぞって目指している世界は、それなのか。
「――なるほど」
笛美はゆっくりとうなずいた。
やっと腑に落ちた。腑に落ちてしまったのだ。
「なるほど、そうだったのですね。日本全体の経済成長を目的にした政策ではなかった。あるべき権力を奪還する為の政策だった、と」
「結果として成長する分には、もちろん問題はない。だが、権力の減少を伴うものであってはいかん。これは戦後体制のひずみだよ」
虚空を睨み、壇海は続けた。
「GHQは財閥解体や農地解放など、連中のお題目を押し付けてきた。自由、平等、公平という奴だ。まったく、くだらんよ! アメリカは日本よりもよほど不平等な階級社会だ。だが、我々はお題目に従わざるを得なかった。敗戦国の悲しさだな。僕自身、この呪縛から逃れるのにずいぶん時間がかかった……」
いくらか興奮が冷めたのか、壇海はため息をついた。
「我々にも反省すべき点は多い。選挙を気にしすぎるあまり、庶民におもねてしまった。馬鹿どもの世話をしすぎたのだ。この先は自己責任でやってもらう。税金は増やす。医療、公共事業、福祉は減らす。役に立たない人間は、自ら後始末をつけるしかない。当然の帰結だ」
「なるほど」
ある程度までは、笛美も予想はできた。
だが、まさかここまで悪辣であるとは信じられなかった。
自分の甘さに歯噛みする思いだった。
「世間は物価の上昇を嫌い、下落を歓迎している。我々の刷り込みの成果だよ。それが何をもたらすか、まったく理解していないのだ。本当に馬鹿な連中じゃないか。搾取されて当然だろ、ええ?」
やっと溜飲を下せる、といわんばかりの楽し気な笑み。
まもなく到来する一億総貧民時代を、壇海は待ちわびているらしい。
「年収200万、150万、100万の職を皆が争って奪い合うようになる。さらに円安がそこに加わる。すると、どうなるね?」
「従順で教育の行き届いた、格安の労働力が得られます。代わりに国内市場は壊滅しますが、売る相手は海外でいい」
呵呵大笑する壇海。
「わかってきたようだね! アメリカはもちろん、隣に中国という巨大市場が立ち上がったのだ。高額所得者の数は日本より中国の方がずっと多い。高級な商品は中国人に売ればいい。国内の庶民向けには、それにふさわしい商売があるよ。百円均一とは、本質的に貧困層向けのビジネスなんだからね!」
「ですが、少子化対策は必要なのでは? 労働力が減れば、待遇を上げざるを得ないでしょう」
笛美は指摘したが、壇海は揺るがなかった。
その程度の話は折り込み済みなのだ。
「心配はいらん。労働集約型の産業は一層の機械化、自動化を進めればいい。一時的に不足するタイミングもあろうが、その際には移民を受け入れることで話はついている。もう外堀は埋めてあるよ。難民を救うのだ。君が旗印にしている、人道支援だよ! 文句のつけようがあるまい」
受け入れた難民は用が済めば追い出される。
過去、日本は南米からの移民に対し、既に似たような仕打ちをしているのだ。
使い捨てにされるだけの日本移住にどれだけの魅力があるのか、わからない。
ただ、世界には明日の命さえ危うい人々が大勢いるのも、事実であった。
「ろくなリターンが見込めない以上、我々の金を使って無駄に庶民を増やす必要はない。今いる連中から搾れる限り、搾ればいい。なに、庶民など6000万人もいれば充分さ。ペットなら、もっとかわいらしいのがいるだろう? はっはっはっはっ!」
「なるほど、確かに先生のおっしゃる通りですわ」
笛美は相槌を打つ。
「それで、先生。どの位の率で国民から税を取り立てるおつもりでしょうか?」
「まあ、色々な手管を用意しちゃいるがね。まずは五公五民がおおむねの目途だな」
もちろん、政治家が税金をそのまま懐に入れることはできない。
税収を財源に法人減税や様々な優遇措置により大企業や資産家に恩恵を施し、そちらから利益供与を受けるのだ。
政治家の家族、親族が企業経営者であるケースも多い。
それにしたって、五公五民とは。収入の半分を毟ろうというのか。
「これは充分に可能な話だ。今は食い物も薬もいいからね。江戸時代のご先祖様がしてきたことを、子孫ができないはずがあるまい。庶民とはそもそも、そういう役割を果たすからこそ、社会に存在を許される。戦後教育はそこを間違えた。生まれながらの権利などというものは、古来我が国にはない。少なくとも、庶民においてはね」
「国内向けの商売に特化した中小企業の経営者は、困ったことになりますね」
壇海はふん、と鼻を鳴らした。
「我々は機会を捉えて警告して来たのだ。グローバル化の時代が来るぞ、とね。海外に打って出られないなら、国内で細々とやるしかない。準備を怠った連中の自業自得だよ」
傲慢さを隠そうとせず、壇海は切って捨てた。
大切なのは仲間内だけなのだろう。
「あと心配なのは野党の動きですわね。政権交代をお忘れになったわけではないでしょう」
「はははははっ、野党かね! 君、それこそ杞憂だよ!!」
手を打たんばかりの勢いで壇海は嘲笑した。
「庶民は野党の連中に失望している。心底、辟易しているのだ。一度、政権を渡したことが逆に効いているのだよ」
「ですが、選挙がある以上、不安は残りますわ。大衆とは熱しやすいものです。何かがきっかけになり、野党への追い風が吹かないとも限りません」
まさに雪崩を打つように野党へ票が集まり、なし得た政権交代。
その記憶はまだ、しっかりと皆の記憶にあるはずだ。
「理屈としてはあり得るが、心配はいらん。なぜなら、庶民にとっては同じことだからだ」
余裕を崩さず、壇海は笛美の異議を払いのけた。
「政権を奪った時、連中も嬉々として庶民から富を収奪した。単に納入先を付け替えただけさ! 政府が集めた富を出し渋るようになったのは、奴らが政権を奪った時からなのだよ。おまけに富のかなりの部分は、海外勢力へ流れていってしまった。世の中がよくなったと実感した庶民は、誰もおらん。奴らは二度と選ばれんよ」
投票先がない。入れたい候補者がいない。
選挙がある度に聞こえてくる声だ。
これだけ日々不安を覚える時代に、未来を託す政治家がいない。
結果、選挙があっても消去法で与党に入れるしかない。
これでは何も変わるはずがない。
日本を覆う度し難い閉塞感は、そこから生じているのだろう。
「ならば、我々に――お上に渡す方がまだマシというわけさ」
「国民は本能的にそれを理解している……」
「そうとも。連中はもう、受け入れている。この先、暮らしは悪くなる。負担は重くなる。しかし――仕方がない、とね」
心から安堵したかのように、笛美は微笑んだ。
「よくわかりました。きっと、父も先生と同じ理想を抱いていたのですね」
「もちろんだよ。桐朋さんは僕の同志だった。実に惜しい方を亡くしたものだ」
笛美はようやく、本当に理解した。
彼女と英賀がぶつかった根本的な原因は、ここにあったのだ。
――お父さんは、お前ほど恥知らずじゃなかったのね。
幾度となく、笛美は父がやっている政策に異議を唱えた。
英賀の説明に納得できなかったのだ。
――おかしい。ちぐはぐじゃないの。これで上手く行くはずがない。頭のいい人達が揃って、一体何をやっているの。
いくら責め立てても、英賀の返答はあいまいで要領を得ない。
最後には感情的な怒鳴り合いになり、喧嘩別れするのが常だった。
そもそも、目的が違っていた。
父はそれを一人娘に説明できなかった。
すべては日本の富を蚕食する為の手続きだとは、告白できなかったのだ。
驚いたことに、笛美はすっきりとしていた。
心に抱えていたもやもやが綺麗に霧散していた。
老練な政治家である壇海は、笛美に生じた変化を見逃さなかった。
しかし壇海はそれを別の意味に解釈した。
笛美が本心から納得したと、勘違いしてしまったのだ。
「今日、先生とお話できて本当によかった――これほど晴々とした気持ちになったのは、久方ぶりのことですわ」
「うん。できれば、桐朋さんが生きている間に和解して欲しかったが……これも巡り合わせかな」
しみじみとした様子で、壇海はつぶやいた。
笛美はそっとお辞儀をして顔を伏せた。
――ふざけるな、この化物め。いいでしょう、わたくしが戦ってやるわ! お前の仲間を全員探し出し、この国から駆除してやるっ!! 邪魔者はすべて焼き払い、なぎ払ってでもね!!
胸中に轟く苛烈な叫びは、容赦なき宣戦布告であった。
のちに日本最初の女性総理大臣となり、長期政権を築いた桐朋笛美。
彼女の長い戦いは、この日始まったのだ。