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異議

「それでは、ごゆっくり」


 仲居は深々とお辞儀をし、廊下へ退去した。

 赤坂でも老舗の料亭とあって、立ち振る舞いは完璧だった。

 音もなく障子戸が閉まる。


「素晴らしいお食事でしたわ、先生。素晴らしすぎて、わたくしにはもったいないくらい」


 笛美(ふえみ)は軽やかな笑みを浮かべた。

 黒檀の座敷卓の向こうに鎮座している老人は、ふむ、と声をもらした。

 

「この料亭は君の御父上――桐朋(とうほう)さんが先代の女将と古くから懇意でね。生前、ご紹介頂いたのだよ。君は初めてなのかね?」


「ええ。子供がお邪魔する場所ではないですし、成人してからは――」


「そうか、桐朋さんのご贔屓(ひいき)じゃ、かえって使いにくいかな。はっはっはっ!」


 笛美が父親である桐朋(とうほう)英賀(えいが)とひどく不仲だったのは、周知の事実だった。

 同じ政党に所属する政治家同士でありながら、また二人きりの父娘でありながら、英賀が病没する寸前まで諍い続けたのだ。

 

 笛美が無所属の新人として選挙に打って出た際も、英賀の地盤は一切利用していない。

 

 どころか、英賀は対立候補すら送り込んできた。

 笛美の入党にも最後まで難色を示していたらしい。


「お恥ずかしい話ですわ。父とわたくしはどうしても意見が合わなくて……いつまでも子供じみた態度だと、呆れてらっしゃるのでしょうね」

 

 すべて承知している老人は、鷹揚にかぶりをふった。


「いやいや、親子でも時に意見というのは異なるものだよ。君が独り立ちした証なのだから、気にすることはない」


 好々爺然とした笑み。

 老人の一番恐ろしい側面は、この人好きのする笑顔だった。

 探りをかわすように笛美は頭を下げた。


「恐れ入ります。先生にそう言って頂けるなんて」

 

「だがね――派閥に入る以上、それは困る」

 

 いきなり深海に没したかのような重圧が部屋に満ちた。

 老人は政権を握る自由公平党――自公党 最大派閥の領袖、壇海(だんかい)清大(せいだい)なのだ。

 

「君はテレビやネットで顔を売ったそうだが、今後は控えなさい。むろん、どのような形であれ、僕の意図に反する発言はしてはならん。忖度の程度がわからない場合は、第二秘書の尾辺加(おべか)に尋ねるといい。特に最初は万事、気を配りなさい。それが君の為だ。いいね」

 

 異論を認めない、強烈な独善。

 50代の終わりに党の幹事長に抜擢され、“剛腕”と称された壇海の政治家としての本性がむき出しになっている。

 

 笛美とってはなじみ深い――父とまったく同じ種類の人間だ。

 女など、圧力をかければ萎縮すると思っているのだろう。

 

 表向きは従順に、しかし心中では、この桐朋笛美をなめてもらっては困る、と笛美は意を強くした。


「はい、先生。わたしくの公約については?」


「ああ、女性差別の解消と経済弱者の救済だったね。結構なことだ、大いにやりたまえ。ポストは用意しておいた。枠の範囲であれば、横やりは入らないよ」


 許されるのは、あくまで多少の改善。

 既得権益を揺るがしかねない根本的な改革はするなということだ。

 これではやった()()に近い。

 笛美の目指すものとは程遠かった。


 だが、黙って飲み込むしかない。

 

 議員二期目の笛美ではまともに対することはできない。

 少なくとも、今はまだ駄目だ。


「重々承知致しました。過分なお引き立て、お気遣いをありがとうございます」


「なに、構わんさ。桐朋さんにはずいぶんと世話になった。まだまだこれからの方だったが……」


 本心から寂しそうな壇海に対し、笛美は胸中で嘆息した。

 

――冗談ではない。あれ以上、長生きされてたまるものか!

 

 もちろん、笛美にも親子の情はある。

 父との間に温かい思い出もある。

 自分はひどい娘だったとの悔恨もある。

 

 英賀にとって笛美は老境に入って初めてできた一人娘だ。

 小さな頃は大変な可愛がりようで、知的に早熟だった笛美の成長を誰よりも喜んでいた。

 

 しかし英賀が病を得たことを、笛美はある種の僥倖(ぎょうこう)と捉えていた。

 

 政治家としての父は、恐るべき老怪だった。

 いつまでものさばられていては、この国が手遅れになってしまう。

 

「うん。まあ、表向きの話はこんなところかな」


 ふっと壇海は表情を和らげた。

 重圧は霧散してしまい、構えていた笛美は虚を突かれた。

 

「表向き……ですか?」

 

「人はね――誰でも内心、という奴がある。心の奥底に沈めた本音だよ。僕はそれがいかんとは言わん。特に政治家ともなればね、二枚舌、三枚舌は当たり前さ。僕もね、実を言えば総裁の彼は好きじゃない。だってね、女の趣味も悪いし、息が臭いんだよ、あいつさ!」


 くっくっくっ、と楽し気に喉を鳴らす壇海。

 つられて、笛美も苦笑してしまう。


「だからね、君もね、なんでも話すといい。不平不満や、おかしいと思っていること、なんでもいい。ここでぶちまけてしまいなさい」


「いえ、わたくしは、特には……」


「君の公約。あれ、本音じゃないだろ? 君はあれがウケるから言った。君があれを言えば、マスコミが面白がって取り上げる。父親の政策に真っ向からぶつかるからね。大衆にも支持される。明解で単純な主張は気持ちのいいものさ。結果、君は見事に当選した。二期連続でね、見事なものだ」


 すばりと指摘されてしまった。

 確かにそうだった。もちろん、笛美にはあの公約も大切である。

 

 しかし、彼女が議員を目指した根っこはまた別なのだ。

 

「妨害を払いのけ、君は一人で選挙に勝った。君はたくましい政治家だ。親の地盤頼りの二世、三世議員とはモノが違う。僕は君のそういうところを買っているんだ。だから、君を党へ迎え入れたんだよ。わかるね?」


「はい――父の反対を先生が抑えて下さったと、うかがっております」


「ここには僕しかいない。遠慮することはないよ。あるんだろ、別の本音が。君はそれをどうにかしたくて、議員になったはずだ。聞いてあげるから、全部話してみなさい」


「……感服致しました。さすがのご器量、ご慧眼ですわ」


 ふたたび頭を下げつつ、笛美は戦慄していた。

 やはり怖い男だ、この老人は。

 潜在的な敵対者の懐にさえ、するりと入り込んでくる。

 

 いや、これも英賀の薫陶(くんとう)のたまものだろう。

 老怪が老怪を作ったというわけだ。

 

 適当に煙に巻こうとしても恐らく無駄だ。

 駆け出し議員の政治生命を絶つ手段など、いくらでもある。

 恩人の娘であろうが、壇海は容赦すまい。

 もともと危険は承知で入党したのだ。


「実は――いくつか、ございます」


 腹を決め、笛美は語りだした。

 延々と続く庶民の経済的苦境――失われた三十年と政治家の責任についてを。


「栄え続ける国はありません。しかし、落ち続ける国もそう多くない。いずれ環境も変わり、政治が対策を打つからです。しかし、日本はそうなっていません。世界有数の経済的資産を抱えつつ、ひたすら坂道を転がり落ちている。これは異常です」


 経済は理論通りには動かない。

 だから、経済政策にはどうしてもばくち的な要素がある。

 色々やってみて、一つ当たりなら成功なのだ。

 

 だが、日本は負け続けていた。うまく行かないのが当たり前になっていた。

 ここまで延々と失敗し続ける国は、世界的にも珍しい。

 

 間違いなく、世界の経済史に唯一無二の長期的大失敗と記録される。それほどのことなのだ。

 

 幾度も繰り返し、もう効果がないとわかっている低金利政策に何故か固執する。

 一方、不況の際には減税や積極的な財政出動を行うべきなのに、増税に踏み切り、公共事業はやめろ、無駄遣いをなくせと叫ぶ。官も民間も金を使うなと言っているのだ。

 まったく筋が通らない。

 

「ほう、無駄遣いは悪いことじゃないかね? 特に役人の無駄遣いは」


「違います。まず、昨今やり玉に挙がっている医療費や福祉、公共事業は、そもそも無駄ではありません。政府が国民に与えてしかるべき役務、義務のはずです。増税したなら、これらはむしろ増えるべきでしょう。値上げされたのに、受けれるサービスは減ってしまった、ではたまりません。現在もなお、日本円、国債の信用は世界一高いのです。通貨増刷による財源確保は充分に――」


 軽く首肯しつつ、壇海は耳を傾けている。

 だがその実、彼の心には何一つ響いていないだろう。

 わかっていても笛美は話を続けるしかなかった。


「――結果、OEDC加盟の36ヶ国の中で、ほとんど唯一、実質的な経済成長が停止しています。本来、経済は自然に成長するものです。停止はすなわち、マイナスと同義です。今はまだ、国民は親の代の財産や貯蓄、信用を食い潰して、どうにか生活を維持している。しかし、このままでは――」


「ふむ。どうなるね、このままだと」


 壇海は参観日に孫娘の発表を見守るような表情だった。

 笛美は老人の目を睨みつけ、断言した。


「国民の大半が貧困へ転がり落ちます。購買力に応じて物価も大幅に下がり、国内市場は縮小する。もうインフレどころじゃありません。停滞は終わり、はっきりしたマイナス成長へ切り替わる。日本の経済規模は大幅に落ちてしまいます。下手すれば、現在の7割、6割程度まで縮小しかねない」


 いつしか笛美は真剣に説得を試みていた。

 壇海や英賀も、かつては青雲の志を抱き、政界へ挑んだ青年だったはずだ。

 日本は破滅へ向う道を静かにひた走っている。

 このままでは国民の大半が手ひどい経済的ダメージを喰らうだろう。

 状況を正しく認識すれば、壇海も動くかも知れないと、期待した。


「なるほど、それが君の心配事か。なかなか、よく勉強していると見える」


「先生――僭越ながら一刻も早く、手を打つべきかと。わたくしの懸念が的外れなら、それにこしたことはありません。しかし、もし実現してしまったら……」


「おいおい、君。馬鹿を言うもんじゃないよ。もちろん、実現するとも。()()()()()だからね」


 ぽかんとした表情で、笛美は固まった。

 いきなり頬を張られたような気分だった。


「せ、先生。それは、どういう……」


 意味がわからない。

 壇海や笛美は名家の出だ。そう簡単に生活が困窮することはない。

 

 しかし、日本経済が沈んでしまえば、乗っている者は一蓮托生ではないか。

 

 現在の政策は数多の政治家や財界の大物達に支持されている。

 言い換えれば、大勢の実力者が賛成しているのだ。

 

 だから異論があっても、時計の針のように粛々と進められている。

 彼らが揃って国の衰退を願っているとでも言うのだろうか。


「わからんかね。本来は桐朋さんの役目だろうが、僕が教えてあげよう。君、バブル経済は知っているかね?」


「はい。知識の上では、ですが」


 バブルは笛美がまだ幼子の頃の話である。

 実感はないが、どのようなものだったかは理解しているつもりだった。


「あれはね……日本史上、もっとも醜い時代だ。唾棄すべき、二度とあってはならない時代だ」


 笛美は驚いた。

 様々な問題を内包していたが、中高年層はバブルを懐かしむ者が少なくない。

 経済的に潤っていたからだ。将来に夢を持てたからだ。

 

 しかし、壇海の顔は苦渋に染まっていた。

 この老人は心からバブルを嫌悪しているらしい。


「わたくしはそこまでは思いませんが……理由をお伺いしても?」


 実際のところ、『素晴らしい時代』なぞ、過去の記憶の中にしか存在しない。

 現実はそう単純ではない。良し悪しあるものなのだ。

 

 実体経済と乖離したマネーゲームに溺れたバブル時代に、手放しの高評価をつけられるはずもない。

 

 しかし、清濁併せ飲むのが政治家だ。

 壇海ほどの大立役者が完全否定するには、それなりのわけがあるはずだった。


「やはり、わからないかね」壇海はいっそ悲し気に首を振って、「あの時期……いや、戦後の復興期から日本経済は大きく膨張した。戦前を軽々と上回り、成長し続けたのだ」


 ますますわからない話だった。

 みんなそれを目指したのではないか。エコノミックアニマルと諸外国に揶揄されながらも、日本は経済成長への道を疾走した。

 

 むろん、環境破壊など重大な弊害は出てしまった。

 しかし経済成長そのものを否定するのは、おかしいはずだ。

 

 だが、壇海の反応は激烈なものだった。


「おかしくなどない! 君は経済成長を善と捉えているだろう。だがね、よく考えてみたまえ。それは一体、誰の為の成長なんだね?」

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