憧れ
魔獣。
それは世界が出す澱のようなものだと言われていた。
色々な生物の出来損ないのような姿をした魔獣は、ある時、突然現れ、周囲の命を捕食し増殖する。
小さいうちに駆除するのが肝心。
蟻ほどの小ささであれば、魔獣はこどもが踏み潰してでも倒せる存在だ。
しかし、蟻ほどの小さな魔獣に気づける者はそうそういない。
結果、魔獣はあっと言う間に増え、手に負えなくなる。
森や山で人知れず増えた魔獣は、雲霞の如く押し寄せて、生きとしいけるものを食い尽くし、飲み込んでいく。
そう、今この瞬間のこの村のように。
ライアンは涙目になりながら、棒きれを振り回していた。
小さい背中で守るのは身重の母。
「来るな! あっち行けよ!」
ライアンは自分が元気いっぱいで強い男だと信じて疑っていなかった。
十歳になったばかりだの未熟な体だが、ゆくゆくは父のように、立派な石を切り出し、様々な建物を村に作るのだ。
ちょっと母に似すぎて、ちっともがっちりしていないし、小さいし、優しそうな顔立ちをしているけど、それだって大人になればオトコらしい苦み走った父のような漢になる予定なのだ。
弟か妹か知らないが、「お兄ちゃん、すごい!」と言う未来にあるだろう無垢な賞賛と、「さすが、ライアンね」と微笑んでくれる母を、ここで見捨てるなんて選択肢はありえなかった。
「ライアン! あなただけでも逃げて!」
母の悲痛な叫びを背に、ライアンは震える足にもう一度力を込めた。
目の前には、黒い霞が集まったかのような、どこか焦点が合わない影がぶれたような姿の魔獣。
それは狼の姿に似ていたが、深く開かれたアギトの奥まで漆黒の闇に覆われていた。
「お願いよ、ライアン! 逃げてちょうだい! ブライアンに愛している、と伝えて!」
「母さんは黙ってて! 父さんだって、必ず……」
棒きれを振り回し、父がいるはずの石切り場の方角を見るが、そこは遠目にも黒い霞に覆われ、ライアンは唇を噛み締めた。
「母さん、少しずつでもいいから動いて!
こいつら、棒でも振り回していれば、近づいてこないから!」
少しでも楽観的に告げ、母を振り返るが、ライアンはそこで絶望した。
母はお腹を抱きしめるようにして、苦痛に顔を歪めていた。
ライアンにとっては初めての弟妹だが、近所にいる伯母が産気づいた時に、今の母のようにうずくまり動けなくなっていたのを見たことがあった。あの時は、伯父や祖母をすぐさま呼び事なきを得たが……。
ライアンはどうしていいのかわからず、棒立ちになった。
両腕からも、両膝からも力が抜ける。
「ライアン!」
母の苦痛を超えた悲鳴が、ライアンを振り返らせた。
緩慢に動かした視界の向こうに、それ全体を覆う真っ黒い穴。
生き物を感じさせない、呼気一つないそれは、ライアンを飲み込むべく牙を尖らせていた。
「ひぃっ!」
思わず棒を抱きしめて尻餅をつく。
もう無理だった。
自分が食べられれば、次はお腹に赤ちゃんのいる母の番だ。
守れる、と思っていた。
守らなきゃ、と思っていた。
でも。
自分が先に食べられても、母は逃げることなんて出来ない。
ここで、ライアンは何も出来ないまま、大事な家族を守ることも出来ないまま、死ぬしかないのだ。
目をぎゅっとつぶると、眦から熱い塊がころりと頰を伝って落ちた。
その時だ。
「よくやった、坊主! お前は立派な騎士だ!」
目の前にあったはずの黒い穴はなくなり、そこにはどこから現れたのか真紅の影。
ライアンは瞬きをくり返した。
驚きのあまりに涙は引っ込み、棒を抱きしめている間に、真紅の影は勢いのままに、猛然と数歩を踏み出す。
真紅の影は、刀身に赤く光る文字を浮かび上がらせて、魔獣に襲いかかる。
深く突き刺された剣は、あっと言う間に魔獣の黒い体を霧散させた。
呆気にとられていると、真紅の影は、次々とライアンたちの周りに集っていた魔獣を屠っていく。
棒が当たっても、黒い靄が一瞬広がるだけだった魔獣が、剣を受けると水に落としたミルクのようににじんで消えた。圧倒的な力が、そこにはあった。
踊るようにステップを踏み、真紅の影だと思っていた真紅のインバネス・コートを翻し、それよりも赤い髪を靡かせ、ライアンはその全てに目を奪われる。
「すごい……」
一言絞り出している間に、真紅の人物は、細剣を二度振り、刀身にまとわりつくように残っていた黒い霧を振り払うと、硬質な音を立てて鞘に収めた。
「母さんを守り切ったな、坊主。よくやった」
真っ赤な口角を上げて、革の手袋に覆われた手で、ライアンの柔らかな茶色い髪をガシガシと撫でてくれる。
ライアンは呆然とその人物を見上げた。
真紅のインバネス・コートと、それに負けず真っ赤な髪は燃え立つ炎のようにあちこちはねている。
コートの脇には深いスリットがあり、そこから先ほど納めたばかりの剣の柄が見えていた。
漆黒のブーツは、地面にわずかに残っていた魔獣のかけらを容赦なく踏みにじる。
それなのに、顔は穏やかに笑い、ライアンをいたわってくれていた。
つり目がちで切れ長の碧眼は、満足げに細められ、でもライアンの頭を撫でるその手は少し乱暴で……。
「おい、エミリア! そっちはどうだ!」
「片づいた! ただ、こちらの女性が怪我をしているかもしれない!」
「ち、違います! か、母さんは生まれそうなんです!」
近づいてきた男性に、エミリアと呼ばれた真紅の女性が叫び返す。
その内容に驚いて、ライアンはエミリアにしがみつくように言い募った。
「は? 生まれる? ……妊婦か!?」
エミリアは碧眼をこぼれそうなほど大きく見開くと、まじまじとライアンの母を見下ろし、その腹が膨らんでいることを確かめ、ぎょっと後ずさる。
「あの、助けてください! もうすぐ生まれるんです!」
「あ、いや……そ、そうだな、助けないと……。あ、でも…………」
何故か怖じ気付いているようなエミリアに、ライアンは焦れた。
腰にすがるように抱きつき、泣きそうになりながら見上げる。
「エミリアさん、お願いします! 母さんを助けて!」
「も、もちろんだ! クロード! こちらに妊婦がいる! 出産準備を!」
エミリアは腰につるしていた剣を鞘ごと外してライアンに渡すと、脂汗を流して唸っている母の背と膝の裏に両腕を差し入れ、すっくと持ち上げた。
父でも最近の母を持ち上げることはできなかったのに!
すごい。
本当にすごい。
ライアンは放り投げた棒の代わりに、エミリアの剣を胸に抱き、あふれ出る賞賛の気持ちに胸を震わせた。
そんなライアンを従え、エミリアは無事だった家屋を足で蹴り開け、誰のものとも知れないベッドに母を横たえる。
そこに、先ほどクロードと呼ばれた男が、司祭衣を身にまとった女性を連れてきた。
女性司祭の指示に従い、お湯を用意したり、あちこちの家から乾いた清潔そうな布を集めたりしている間に、村は徐々に落ち着きを取り戻していった。
そして、うつらうつらと船をこいでいるところに、元気な赤ん坊の泣き声が響きわたり、ライアンは自分の大事な家族が増えたことを夢の中で知った。
夢の中なのに幸せな気持ちになってへらへらと笑っていると、それほど大きくない、でも父のように堅い手が頬を撫でる。
「よく、頑張ったな」
ライアンが重い瞼を開けようと努力している間に、エミリアの温かな気配が遠ざかる。
ライアンの目が開いたのは、太陽が中点に達した頃。
村を守ってくれたのは国の第二騎士団で、彼らがすでに村を去ったことを、ライアンは剣を抱きしめながら知ったのであった。
あれから五年。
ライアンは、父と同じ石切職人になることをきっぱりと諦め、王都で騎士団の門戸を叩いた。
村の領主様に推薦状も書いてもらっている。
騎士になるには様々な勉強も必要だとわかったので、領主様のお手伝いをしながら読み書きと礼儀作法も学んだ。
剣術については、引退して村に居着いた傭兵に手ほどきをお願いして、しっかりと鍛えたつもり。
もちろん、国中のあちこちに派遣され、対魔獣の最前線に投入される騎士達にかなう腕前とは到底言えない。
しかし、十五歳にしては、そこそこの腕前になったと自負しているし、何より、年齢的にまだまだ伸び代もあるはずだ。
領主様に騎士団への入団許可をもらってもらい、手元に残された細剣を腰にさし、固唾を飲み込んで団長室のドアをノックする。
「入れ」
聞こえてきた声に、胸がざわめく。
「は、……はい!」
裏返りつつも何とか声を絞り出す。
「大丈夫、団長は獣じゃないから。初対面で噛みついたりしないし、言葉が通じれば、ある程度はおとなしいですよ」
優男風の副団長が、ライアンの背中を押して、よくわからないことを言い出す。
緊張しすぎて言葉の意味を理解できなかったライアンは、小首を傾げて副団長を見上げたが、副団長は含み笑いをしただけで後はなにも説明せず、ライアンを団長室に押し込んだ。
「よく来たな、ライアン・フリード騎士見習い。
大変優秀な少年だと、ベイリス・ワイルダー殿から書状もいただいている。
だが、騎士団には全国から腕に覚えのあるものが集ってくる。
腐らず、だが焦らず、精進してほしい」
人差し指でつつけば倒そうな書類の山の向こうから、声が聞こえる。
ライアンは唖然として、開いた口がふさがらなかった。
「すでに知っているかもしれないが、私は第二騎士団団長エミリア・アールズという。
長い余生をすべて内股で過ごしたくなければ、女だからと言って舐めないことだ」
机の周りには、ワインやらシェリーやらの瓶が所狭しと並べられていて、辛うじて人一人歩ける道が大きな机の向こう側に続くように一本のびている。
「君には騎士見習いとして訓練に参加してもらうが、ワイルダー殿の報告書をみる限り、君には文章作成と計算の能力もあるらしいな。
それを生かして、私の補佐業務も行ってもらう。
身体能力の訓練以外は、ここが君の職場になると思ってもらってかまわない」
書類と幾本もの瓶の向こうに応接セットらしき長いす一脚と一人掛けソファ二脚、そして重厚なテーブルがあったが、奇っ怪なことに、ソファ二脚の上には脱ぎ散らした制服や女性用下着、何枚ものインバネス・コートが山をなし、テーブルの上には漆黒の鞘に納まった細剣と汚れたままの皿が何枚も置きっぱなしになっている。。
唯一すっきりした長いすには、枕と毛布が置いてあった。
「明日から、よろしく」
机の向こうから立ち上がった女性が、ゆっくりと瓶の間の細い道を歩いてくる。
ゴミに囲まれた状況にも関わらず、豊かな赤いくせっ毛を揺らし、溢れそうな胸元に深い渓谷を作り出し、笑みを含んで細められた碧眼を真っ直ぐライアンに向け、真っ赤な唇は愉快そうに弧を描き、エミリアはあのときのままに美しく、神々しかった。
ライアンはまぶしさの余りに目を細め、腰に下げていた剣の柄をぎゅっと握りしめた。
間近に迫ったエミリアは、かつてよりも低く小さく見えるが、それでもライアンよりもまだ大きい。
エミリアはライアンの目の前までくると、腰の鞘に目を留め、驚きに少し目を見開き、破顔一笑した。
「あのときの子供か! 随分と見違えたな」
その言葉一つで胸がいっぱいになる。
覚えていてくれた。
だが、同時に、エミリアから吐き出されたアルコール臭たっぷりの呼気がライアンの胸に満たされた。
頭がぐらりと揺れ、体が傾いでいく。
そういえば、鍛錬と勉強に手一杯で、酒を嗜んだことはなかった。
父もまったく飲まない。もしかして、酒が苦手だったのかもしれない。
視界の端で、瓶と食べ物のくずの間を走り回る小さな虫を見つける。
どうしようもないのだが、この部屋の床に倒れるのだけは死んでもごめんだ、とライアンは遠ざかる意識の中で呟いた。
「ライアン! 大丈夫か!」
憧れの女性が彼の名を呼ぶ。
頬にふわふわの温かい、弾力があるものが押しつけられていたが、吐き出されるアルコール密度も半端なく高くなる。
幸せなんだか、何なんだか、ちっともわからない。
ただ、願わくは、あのとき母を運んだように、颯爽とライアンを抱き上げて、この部屋から連れ出してほしい、万に一つも、寝転がすことはしないでほしい、と切実に願ったのであった。
例えそれが、男としてどんなに矜持を傷つけられる状況であったとしても。
ライアン、十五歳。
空想上の「女性」という存在に、永久の別れを告げた日を、彼は決して忘れない。
そして、現実の「エミリア」を徐々に受け入れていくのは、また別のお話。