過去
「ねぇ。あんたさ、何で夏祭り嫌いなの?」
稽古後、高村家に泊まりに来ていた佳音は夏希の部屋にいた。夏希の突然の質問に、ローテーブルに課題を広げていた佳音はびくりと肩を跳ね上げる。
「何でって…………人混みが、嫌いだから。」
「ふぅん。」
自分の机に課題を広げながら、夏希は佳音を見下ろす。
「本当は?」
「は?」
佳音も夏希を見る。
「そりゃ、あんたうるさいの苦手だからそれもあるんだろうけど、1番の理由じゃないでしょ。」
夏希の指摘に、佳音は絶句する。絶句した表情のまま、顔を課題へと戻した。
「まぁ、言いたくないならいいけどさ。」
夏希も課題へと顔を戻し、続きを解き始めた。
「………………襲われそうになった。中2の時に。」
佳音はぽつりと呟いた。夏希は再び佳音を見る。
「幼馴染みが一緒にいて、助けてくれたけど…………そいつがナイフで切りつけられて──。」
「死んだ?」
「死んでない!」
佳音は思わず叫んだ。佳音の剣幕に、夏希は「ごめんっ」と謝った。
「冗談だよ!」
「冗談でも言うなっ!!」
佳音は呼吸を荒げ、泣きそうな表情で夏希を見た。瞬間、佳音は我に返る。
「………………ごめん。」
「いや、こっちこそ。」
すいませんでした、と夏希は敬語で謝る。
「中2っていうと、あんたがうちに来た頃だね。もしかして、それが原因?」
佳音は俯き無反応だが、夏希にはそれが無言の肯定だと分かった。
「なるほどねぇ。だから段位とかに興味ないわけだ。」
夏希は納得したように頬杖をつく。
「いつだったか、『幼馴染みも空手やってる』とか言わなかったっけ?教えてもらえば良かったじゃん。」
佳音はペンを動かす手を止める。
「…………無理だ。」
「は?」
佳音の呟きに、夏希は「何で?」と聞き返す。
「あいつは、私の事嫌いだからな。嫌いな奴のお守りをしなきゃならない上に、そんなのを庇って怪我したんだ。これ以上迷惑はかけられない。」
佳音は自嘲気味に笑い、カラン、と放るようにペンを置いた。
「寝よう。課題は明日で良いや。」
佳音は明るく言うと課題を片づけ、エナメルバッグの中に入れる。1階の和室に布団が敷いてあるため、バッグを持って部屋を出る。
「おやすみー。」
夏希もそれ以上聞かず、「おやすみ」とだけ返した。
──夏祭りの喧騒が聞こえる。
佳音はいつの間にか、屋台が立ち並ぶ夏祭りの真っ只中にいた。目の前には──。
「どうすんだよ?」
あからさまに不機嫌な滝の姿。現在よりも少し背が低く、感情を露骨に出している。
「…………どう、って。どうしよう……。」
「俺が聞いてんだけど。」
滝は、優柔不断な佳音の態度に舌打ちをすると「帰りてぇ」とごちた。
(1人でも大丈夫なんだけど…………多分。)
滝がごちるのも無理はない。こんな所を同級生に見られたら、確実に恋人同士だと思われるだろう。
「……帰ろうか。」
佳音はにこりと笑うと、滝は冷たい目で何も言わずに背を向けた。少し歩くと、同級生の男子グループが屋台の隣で屯している。滝は嬉しそうに笑顔を浮かべると「行ってくる」と彼らの輪の中に入っていった。
(…………飲み物でも買うかな。)
佳音は近くの屋台でジュースを2本買った。
(嫌だったら来なきゃ良いのに。直之さんも心配してくれるのは有難いけど、嫌がってる息子を無理矢理付き添わせる事ないし。事件なんて早々起こるものじゃない──……?)
佳音はわずかに首をかしげる。さっきから中年くらいの男が佳音の近くをうろついているのだ。
(……まさかな。)
佳音は訝しげに思ったが、彼も飲み物を買いたいんだろうと何気なく場所を空けた。一旦は佳音の隣に来て飲み物を見たが、男はまた佳音の近くをうろつきだす。佳音は気味が悪くなり、滝に告げずそっと屋台を離れた。男も付いてくる。それでも佳音は、まだ「進行方向が同じなのだろう」と思い、男を警戒しても、あからさまに逃げる様子は見せなかった。
屋台の1番端は、綿あめだ。子供の頃はキャラクターの袋が欲しくて、直之さんにせがんだ記憶がある。あの頃は、滝とも仲良く遊んでいた。
(あの頃と、何が変わったんだろう……。)
綿あめの袋を見て懐かしむ。懐かしみつつ、未だに男を警戒していた。再び、男は佳音の右隣に並ぶ。佳音が大きく下がろうとした瞬間、男は佳音の右腕を強く掴んだ。
「!?──ぇ!?」
動揺してどうしたら良いのか分からない佳音は、そのまま男に街頭の少ない道に引っ張られていく。
「ちょっと、あの──え、ちょっと!?」
重心を後ろに乗せたり、男の腕を振りほどこうとするが、男はお構いなしに進んでいく。いよいよ佳音は怖くなってきた。
「待って、あのっやだ──!」
涙目になっている佳音の後ろから走ってくるような足音が聞こえてきた。
「っ何してんだよ!!」
滝は男の腕を掴む。男は横目で滝を見るなり、体を反転させたと同時に佳音を自分の方へ引き寄せ──。
「っ!!」
隠し持っていたカッターナイフを振りかざし、滝の左肘を切りつけた。
目の前で起きた出来事に、佳音は頭が真っ白になる。男が再び歩き出した事で我に返り、怒り任せに思いきり足を踏んだ。男は痛みで前屈みになり、佳音はするりとそこを抜け出す。男は、同級生の男子達や近くにいた人が呼んだ警察官に現行犯逮捕された──。
(──夢。)
佳音は障子越しの陽の光で目を覚ました。
(あの時の──中2の時の出来事だったな。)
懐かしい、と佳音は覚醒しきらない頭で思う。懐かしいが、決して優しい気持ちになる思い出ではない。
虚無的な面持ちのまま、佳音はむくりと起き上がり、携帯を確認する。
現在、7時50分。
(もう少し、寝れるかな。)
佳音が布団に潜り込もうとした時、夏希の「ただいま-」と玄関を開ける音と、ナナの元気な声と足音が聞こえてきた。
(…………もう寝れない。)
佳音は再び布団から起き上がる。そして今度こそ布団から出て、ゆるゆると着替え始めた。
リビングのドアを開けると、夏希が立ったままグラスに牛乳を注いでいた。ナナも欲しいのか、前足立ちで夏希の脛を引っ掻いている。
「おはよう、佳音。」
夏希がにこやかに振り向く。それに対し、夢に加えて昨日怒鳴ってしまったことを引きずっている佳音は申し訳なさそうに「おはよう」と挨拶を返した。
「朝から何気落ちした表情してんのー?もしかして、昨日怒鳴った事まだ引きずってる?」
夏希はカラカラと笑いとばす。それを見て佳音は、怒ってない事への安堵と自分が気にしすぎた事への呆れで静かに息を吐いた。
「佳音ちゃんおはよう。夏希、朝ご飯運んで。」
みつきが杓文字を持って、ひょっこりと顔を出す。
「おはようございます。これ持っていきますね。」
「あら、ありがとう。」
佳音はみつきがよそったご飯をテーブルに運ぶ。と、牛乳を一気飲みした夏希が小気味良い音を立ててグラスを置いた。
「そろそろ長門も起こさないとね。ナナ、おいで。」
夏希は犬用のおやつを数個握り、リビングを出る。ナナも夏希(の持っているおやつ)を追う。1人と1匹は階段を上っていく。やがてその音が聞こえなくなったかと思えば──。
ガタガタッ!!ゴンッ!!
明らかに慌てたような音が2階から聞こえた。
(あぁ、やったな。)
朝からご愁傷様、と佳音は心の中で手を合わせる。みつきがあからさまに大きなため息をついた。
少ししてから、ナナが階段を下りるカシャカシャという爪の音と人の足音、そしてリビングにナナと笑いをこらえる夏希が入ってきた。
「……どーもね。」
みつきはじとりと夏希を見る。ナナは無邪気に、再び夏希の脛を引っ掻いている。
「あれ、そういえば先生は?」
ふと思い出した疑問を、佳音は口にする。
「あぁ、お父さんなら今日仕事だよ。7時頃には出てった。」
未だに声が震えている夏希に、佳音は納得したように「あぁ」と頷く。すると、階段を下りる軽快な音が聞こえてきた。が、その音はリビングには向かっていないようだ。
「痛って……。おはよ-。」
「おはようございます。ご愁傷様。」
後頭部を押さえる長門に、佳音はつい心の声が漏れてしまう。どうやら顔を洗ってきたらしく、髪の毛先がわずかに濡れている。
「大丈夫?こぶになってない?」
みつきがテーブルにつきながら心配そうに長門を見る。長門も、まだ後頭部を押さえながら椅子を引き「大丈夫」と答えた。
「今度から鍵かけて寝るかな……。」
「じゃあピッキングの練習しとくわ。」
「ふざけんな。」
にやりと笑う夏希に、長門は声を低めて言う。
「最悪。朝っぱらからナナに顔舐められて起きるとか……。」
「そんで思いっきり頭から床に落ちるっていうね。」
佳音とみつきは、可哀想な目で長門を見た。
「夏希、ナナを使うのはやめなさい。そして普通に起こしなさい。」
次やったら怒るわよ、とみつきは凄みを効かせる。足元ではナナが、利用されたとも知らずに目を輝かせてこちらを見ていた。
「──そういえばさ。」
食事も半ばまで進んだ時、長門が思い出したように口を開いた。
「昨日の夜、佳音怒鳴ってたような気がするんだけど、気のせい?」
佳音は思わず動きを止める。そして、目だけを夏希に向けた。長門が、佳音の視線を追って夏希を見る。
「あー、気のせいじゃないね。あれは私がふざけすぎた。ごめんね?」
「いや、別に……。」
佳音は口ごもりながら、視線を食事へ戻す。
「怒鳴るなんて珍しいわね。何の話してたの?」
みつきは何気なく尋ねる。が、佳音としてはあまり広まってほしくない話題だ。
「いやー、佳音の知り合いで怪我した奴がいるらしくてね。私がふざけて『死んだ?』って聞いたら『死んでない』って怒鳴られた。ナイフで切っちゃったんだって。あれ、包丁だっけ?」
「…………あ、あぁ。」
夏希は笑いながら話すが、話を聞いていた長門とみつきはげんなりした表情で夏希を見た。
「デリカシー0か、お前。佳音、1度こいつ殴っていいからな。」
「いや、殴りはしない……。」
「優しいな。」
今度は佳音が、長門とみつきに可哀想な目で見られた。
おやつは2階であげました(笑)