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実行

 木曜日になった。

 夜の帳が降り始め、オレンジ色の光が部屋の半ばまで射し込んでいた廃ビルは、闇が濃くなり薄気味悪さを増していく。

 約束の時間まで、あと5分ほどだ。

 ほのかは柱の影に身を隠し、じっと息を潜めていた。

(『宮沼しほさん』って、どんな人なんだろう)

 メッセージでしかやり取りをした事がなく、顔も、声すらも知らない。

 でも、『勘違い』をしている事は確かだった。

 誤解を解かなければ、と考えていると、ザリ、ザリと慎重に歩く足音が聞こえてきた。

 そっと覗くと、警戒したように周囲を見回す佳音の後ろ姿が見える。

(佳音ちゃん……)

 ほのかの心境は複雑だった。

 滝の心が佳音に傾いている『妬み』と、友人を罠にはめている『罪悪感』。

 いたたまれずにほのかが佳音から目を離すと、佳音の後ろからパーカーのフードを目深に被った長い黒髪の女性がそっと近づいてきていた。

(あの人が『宮沼さん』……?)

 マスクをしているので、顔ははっきりとは分からない。

 しかし、ほのかはしほに違和感を覚えた。

(何だろう……肩幅……?それに、どこかで見たような……)

 ほのかは近づいてくるしほを凝視し、その陰湿なのにぎらついた目を見て思い出した。

「──佳音ちゃんっ!後ろ!」

「え……矢倉さん?」

 ほのかが叫んだ瞬間、しほが後ろ手に隠した木刀を振り上げて走ってきた。

 佳音は咄嗟に後ろに下がり、振り下ろされた木刀をぎりぎりかわす。

「何で……話をするだけだろう……」

 佳音はわけが分からず、ほのかとしほを交互に見る。

 しほが尚も佳音に攻撃しようとしたため、ほのかは飛び出して後ろから鞄でしほを殴りつけた。

 倒れこんだしほの背中に乗ってさらに2・3発叩き、背中から降りる。

「佳音ちゃんこっち!この人、上原君!」

 ほのかは佳音を出入り口へ促すが、佳音は『上原』という名前を瞬間、カッターナイフで襲われた時の事や、匿名の手紙をポストに入れられた時の事がフラッシュバックして硬直してしまった。

 しほ──の格好をした雄太を『あり得ない』と言いたげな目で見下ろす。

「……何で……何で……そこまで……」

「佳音ちゃん早くっ!」

 鞄で殴られただけでは気絶まではせず、雄太はむくりと起き上がった。

 長髪のカツラが、ずるりと落ちる。

 雄太は、ポケットから折り畳みナイフを取り出した。

「全部、桧山さんのせいなんですよ」

「何が──」

「僕が花から責められたのも、僕が高校を辞めたのも、宮沼さんが死んだのも……全部、桧山さんのせいだ!」

「は……?宮沼さんが死んだ……?」

「桧山さんが黒沢君を奪わなければ、宮沼さんが死ぬ事はなかった!」

「いや、奪ってない……ちゃんと」

「『具合が悪い』っていうのだって悪阻なんだろ!?黒沢君との子供を妊娠してるのに、九条君に手を出すなんて!」

「何の話だ!」

「人の彼氏ばっかり奪いやがって!クズ女!」

「いい加減にしてよ!佳音ちゃんは病気なの!だから具合が悪いの!」

「……矢倉さん……何で知って……」

 佳音は、教えていない情報をほのかが把握している事に驚く。

 ほのかは、ばつが悪そうに俯いた。



 しほが『佳音に罰を与える事』を告げた時、ほのかは一人で阻止するつもりだった。

 佳音に何事も起こらず、説得でもして滝から離れてくれればそれで良い。

 だが、『佳音を陥れる罪悪感』と、『失敗した時に佳音と自分に危害が及ぶのではないか』という不安感が先立ってしまい、体が震える。

 しかし、この事を伝えてしまったら滝は『ほのかの代わりに行く』と言い出すかもしれない。

 ほのかは、携帯の連絡先から『九条滝』を見つけ出す。

 助けてほしい。

 けど、滝を巻き込みたくない。

 『巻き込みたくない』という言葉に、ほのかははっとした。

 高校生の時、佳音が『引っ越す事』を一人で決めて滝と喧嘩した時だ。

 ファミリーレストランで『どうして相談せずに決めたのか』と、佳音に問いかけた。

『あいつは、馬鹿みたいに真面目に直之さんからの頼まれ事をやってきた。もう私に関わらせないでやってくれ』

(あの時の佳音ちゃんも、こんな気持ちだったのかな……)

 滝は、ほのかの小さな頼み事でも嫌な顔せずにやってくれる。

 自分が『甘えすぎなのではないか』と思うくらいに。

 佳音の苦悩の断片に本当の意味で触れられた気がして、ほのかは滝への通話ボタンを押す事を躊躇う。

 滝の行動を見越した上で話すなど『利用している』以外の何者でもないのだから。

 でも──。

(佳音ちゃん……ごめんね……私、佳音ちゃんみたいに強くはない……私には……)

 抱えきれない──。

 ほのかぎゅっと目を瞑り、滝への通話ボタンを押した。

(ごめんね……滝君……)

 自分の甘さに絶望していると、5コールほどで電話が繋がった。

『もしもし?』

「滝君……?ごめんね、『距離を置こう』って言ったのは私なのに電話かけちゃって……」

『別にいいさ。……それより、大丈夫か?声暗いぞ……?』

 わがままで距離を置いたにも関わらず、滝はほのかの心配をしてくれる。

 滝の優しさに泣きそうになりながら、ほのかは「大丈夫……」と涙声で呟いた。

「滝君……今日、会える……?」

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