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お礼

 月曜日、7時50分。

 滝はいつも通り、電子書籍を読みながら佳音が来るのを待っていた。

「遅ぇ……。」

 待ち合わせの時間から10分は経っている。滝は眉間に深く皺を寄せた。

(今日、あの漫画発売日だったな。携帯で読んでるけど、夜買いに行くか……。でも内容分かってるし……。)

 滝が物思いにふけていると、視界の隅でエレベーターの扉が開いた。佳音がいつも通りの無表情で歩いてくる。佳音は滝の姿を認識すると、歩いてくる姿勢のままその場で硬直した。無意識だがわずかに、爪先だけがついている右足へ重心をかけてしまう。

「……おはよ。」

「おす。」

「すまん、寝坊した。」

「そうか。」

 滝はじっと佳音を見つめる。佳音は暗い顔で俯く。

「……先日は、すいませんでした。」

「何が?」

「あんな早い時間に、SNS送って……。」

「別に。」

 しどろもどろに話す佳音に素っ気ない返事をして、再び画面に視線を戻す。

(謝ってほしいのはそっちじゃねぇよ。)

 滝は佳音のずれた謝罪に内心苛立ち、携帯をポケットにしまう。

「行くか。」

「はい。」

(敬語やめろ……!)

 滝は唸るような声音でそう言いたかったが、代わりに盛大なため息をついた。2人は無言で歩き出す。佳音が3歩下がってついていく状態だ。

 しばらく歩いて、滝がぽつりと話しかけた。

「…………風邪、ひいたのか?」

「……あぁ。でもすぐに治った。」

「そうか…………。よかったな。」

「あぁ…………。」

 しばらくの沈黙の後、再び滝が話しかけた。

「…………空手、やってるんだってな。」

 佳音は肩を跳ね上げる。目で「どうして知っている」と訴えていた。

「…………あぁ。…………誰から聞いた?」

「お前の親父さんから。あと吹雪。」

 滝の冷たい視線を受けて、佳音は少し青ざめている。

「そう、か。」

 声が少し震えていた。

「…………段位とか、持ってるのか?」

「いや……持ってない。そういうものの為にやってるわけじゃない。」

 佳音は、滝と目を合わせない。ずっと俯いて、地面に話しかけているようだ。滝はそれにさらに苛立つ。

(喋ってんの俺だろうが!せめて目見て喋れ!!)

 すぐさま襟首を掴んでそう怒鳴りたい。だが佳音が怯えている(その前に女子である)のも分かっているため、手をあげるわけにもいかない。滝はポケットの中で拳を握りしめ、爪を立てた。

「…………そうか。」

 滝はぽつりと言う。

 それ以降、2人の間に会話は無かった。



「あ……。」

「あ?」

 滝は、後方で小さく声をもらした佳音へ気怠げな視線を向けた。佳音の視線の先を追うと、コンビニの前で吹雪が同じ学校の女子と話しているのが見える。

 滝はわずかに目を見開く。

「…………あ。」

 金曜日の夜、痴漢に遭っていたほのかが、吹雪に対して何度も頭を下げていた。吹雪は少し困ったように笑い、手を横に振っている。

「矢倉さん……。」

 佳音は呟く。

 その声が聞こえたのか、吹雪は佳音たちに目を向けた。いつもの朗らかな笑顔で2人に手を振る。ほのかも2人に気がついた。と、ほのかが吹雪に頭を下げ、小走りでこちらに向かってくる。ほのかは2人の前で止まると横に流した前髪を手で軽く整えた。

「あのっ…………先日は、ありがとうございました……。」

 佳音は首をかしげる。

「あ、別に。怪我なかったか?矢倉。」

「はい。あ、すみません。彼女と一緒のところ……。」

「違います。」

 即答したのは佳音だった。申し訳なさげなほのかに、いつも通りの無表情で首を横に振る。滝はぐっと何かを堪えたような表情で佳音を見た。吹雪は呆れたようにため息をつく。

 ほのかは目を丸くして「そうなんですか?」と問いかける。

「いつも一緒にいるので、てっきりお付き合いしているものだと……。」

「いや、ただの幼馴染みだから。家の方向と登校時間が一緒なだけで。」

 今度は滝が即答する。

「そ、そうですか……。」

 ほのかは少し困惑したような表情で2人を見る。即答するスピードにもだが、一番は2人の「心外だ」とでも言いたげな表情にだ。

 吹雪は1人歩き出す。後ろを振り返り、まだ立ち尽くしている3人に声をかけた。

「行かないの?滝、俺達1時間目体育でしょ?」

 吹雪は携帯の画面を確認して「今8時05分だよ?」と告げた。

 滝は「えっ!」と声をあげて走り出そうとする。だが、佳音とほのかに視線をやると動きを止めた。

 頭の上に疑問符を浮かべるほのかに対し、「早く行け」と追い払うように手をひらひらさせる佳音。

「…………悪い。」

 そう呟くと滝は走り出す。

「競走しよう!負けた方が何か奢り!」

「ふざけんな!」

 全力で走っていく滝と吹雪を、佳音とほのかは無言で見送る。

(こっちこそ、すまない。)

 佳音は今朝、わざと遅く家を出たことを心の中で謝る。

「……騒がしいな。」

 佳音はぽつりと呟いた。

「そうですね。私達も、行きましょうか。」

 ほのかは佳音に微笑みかける。佳音はほのかをわずかに凝視した後、「はい」と小さく返した。

(矢倉さん、やっぱり美人だな……。私がこんな人と並んでいいのか。)

 真珠のように艶のある白い肌、大きいけど穏やかな目、横で1つに結ばれた艶のあるストレートの黒髪。ふいに佳音は自分の髪の毛先を触る。毎日梳いてはいるが、艶もなく若干広がった髪だ。

(シャンプー変えようかな……。)

 自分の髪を見つめる佳音を、ほのかは不思議そうに見た。

「どうしました?」

「いや、矢倉さん、綺麗な髪だなーと、思って……。」

 佳音は途切れ途切れに言う。それを聞いたほのかは恥ずかしそうに「ありがとうございます」と微笑んだ。



 ひんやりとした空気だが陽が出ていて、紺色のジャージが日の光を吸い込んで暖かい。教室のベランダでその暖かさにまどろんでいた和樹は、一緒に登校してくる佳音とほのかを見つけて目を見開いた。

「珍しい組み合わせだな。」

 その呟きに、隣にいた友人も携帯の画面から視線を移す。

「お前はどっち派?」

 友人がにやついた表情で尋ねてきた。

「何が?」

 和樹が聞き返すと、友人は佳音たちを指さす。

「清純派な矢倉さんか、ミステリアスな桧山さんか。」

 友人はベランダの手すりに頬杖をつき、尚もにやついている。

「彼女いる俺に聞くか?」

 和樹は呆れたように友人を見る。和樹は由香里を思い浮かべ、「まぁ、清純派かな」と素っ気なく答えた。

「何?何の話?」

 さらにジャージに着替えてきた友人が2人程集まり、ベランダでほのか派か佳音派かの談議が始まる。

「矢倉さんだって!癒し系で礼儀正しくて、口調も落ち着いててさ!大和撫子って感じ!桧山さんって笑わねぇし素っ気ねぇもん。『他人は必要ない』みたいな?はっきり言って怖ぇ!」

「まぁ確かに一匹狼っぽいけど、それがまた弱いところ見たときのギャップ?みたいなのが良いんじゃん。自分を押し殺して耐えてたのかなーって感じがしてさ。もしかしたら誰もいないところで1人で泣いてたりして。それで泣いてるとこ偶然見かけるんだけどそれを指摘したら『泣いてない』って否定して……。でも頭撫でたりしたら意外と縋って『泣いてたこと誰にも言わないで』って言われて……。」

「妄想が長い。」

 和樹が冷めた目でツッコむ。

「お前いつだったか『あの冷たい目で見下されたい』って言ってなかったか?」

「うるっせ!お前はどっち派なんだよ!」

「俺?うーん……桧山さん派かな。」

「やっぱりお前だって貶されたいんじゃねぇか!なんかっこう、ゾクゾクするだろ!?」

(こいつMだったのか。)

 和樹は、初めて知る友人の性癖に軽く引く。

「いや、俺はお前とは逆であのクールさをなんとかしたい。なんだ……攻略したくなる。」

(ゲーム感覚……。)

 和樹は顔を引きつらせる。見ると、他の2人も引いていた。

「最低だな、お前。」

「多分、難易度高いぞ。高すぎる。」

「そうか?」

 その会話に聞き耳を立てていた滝と吹雪は、2人揃って顔を片手で覆い、肩を震わせている。吹雪は笑いを堪え、滝は──。

「何にも知らねぇで……!!」

 怒りで奥歯を噛み締めていた。

(あいつを攻略したい!?やれるもんならやってみろ!難しすぎてこっちの心が折れるっつの!)

「佳音は、確実にサディストにはなれないよね。優しすぎるから。」

 吹雪は小声で話す。

「優しい……?……そうだな。着替えに行くか。」

 滝は怒りのこもった口調で言うと、ジャージを掴んでツカツカと教室を出ていった。吹雪もジャージを持って、ゆったりとした足取りで滝を追う。

(最近機嫌悪いなー。)

 ベランダから滝の様子を見ていた和樹は首をかしげる。友人3人はまだ話を続けていた。



「すみません。九条さんと白屋さんいらっしゃいますか?」

 昼休み、佳音は2年2組の教室を訪れた。意外な来訪者に、鉢合わせた男子は「ぅえっ!?」という変な声と共に1歩後退る。

 わずかに眉間に皺を寄せた佳音は、いつも通りの(だけど分かる人にしか分からないような悲しさを含んだ)声で「すみません」と謝る。

「用事があるの私じゃないので、すぐに退散します。」

「えっいや、違うから。びっくりしただけで……。」

「そうですか。」

(やっちゃった……。)

 吹雪は内心ため息をつく。はたからみるとさして気にしていないように見えるが、実際はだいぶ傷ついている。

(繊細なのに、隠すの上手いから。)

 滝と吹雪は同時に席を立ち、佳音の方へ歩いていく。

「どうしたの?」

 吹雪は和やかに問いかける。滝も無言で後ろをついてきた。

「私じゃなくて、矢倉さんが……。」

 佳音は廊下で待つほのかへ視線を移す。

「あ……すみません。どうしても、何かお礼がしたくて……。よろしければ今日の放課後、食事でもいかがかと……。」

「気にしないでいいよ。今朝も言ったでしょ。ね、滝?」

「あぁ。……とりあえず、もう少し人目を気にしなくていい場所で話がしてぇな。」

 滝は教室から覗く野次馬たちを見る。興味本位な者もいれば、半ば泣き出しそうな者もいる。

「じゃあ、私は帰る。」

 歩き出そうとした佳音を、ほのかは腕を掴んで止める。

「一緒にいてください……!」

「私、もう用済みだと思うんですけど。」

 自虐的な言い方をする佳音に、吹雪は「いてあげなよ」と苦笑する。

「……わかった。」

『今から呼ばれる生徒は、すぐに職員室・村岡のところまで来てください。2年2組・九条滝さん、白屋吹雪さん。2年4組・矢倉ほのかさん。繰り返します──。』

 佳音は教室に設置してあるスピーカーの方角を見る。スピーカーはまだ教員の野太い声を流し続ける。

「呼ばれたぞ。じゃあ、私はおいとまさせていただく。」

 佳音は再び歩き出そうと、ほのか達に背を向ける。

『続いて、保健委員の生徒は、職員室・加藤のところまで来てください。繰り返します──。』

「お前もな。」

 細く可愛らしい声に変わったスピーカーの方を見て、滝も言う。

「あれっ俺ダブった?」

 困ったように「どっち先に行こう?」と言う吹雪にほのかも困ったように笑う。

「とりあえず行くか。」

 滝は2人を見ながら、すたすた歩いていく佳音を指さす。

 ぽかんと口を開けるほのかに、間延びした声で「歩くの早いねー」と言う吹雪。滝は呆れたように佳音を見て、ため息をついた。

「お前の中に、『待つ』っていうもんは無ぇのか。」

「あるに決まってるだろう。…………けど。」

 佳音は立ち止まると、振り返って3人を見る。窓から入る日の光が、鮮やかに3人を映し出す。

(この距離だ。)

 ふいに佳音は、左側にある手洗い場へと視線を移した。仄暗い廊下にいる、鏡の中の自分と目が合う。

(私には、暗がりの方がお似合いだ。そして、慣れた。)

 佳音は再び歩き出す。3人が歩き出したからだ。

「けど……何だ?」

 後ろから投げかけられる滝の質問に今度は視線だけを向ける。佳音は視線を落とし、ぽつりと呟いた。

「トイレ行きたい。」

「あぁ……悪い。引き止めて。」

 滝は納得したような、けれども気まずい表情で「行ってこい」と促した。



「やっぱりこの間のことだったねー。」

 職員室の前で待っていた滝とほのかに、吹雪は「お待たせ」と眉尻を下げて笑った。

「あれ、佳音は?」

 吹雪はきょろきょろと辺りを見回す。

「先に行ったんじゃね?」

 さして気にした様子もなく滝は言う。心配そうな表情のほのかを見て、滝は首をかしげた。

「どうした?」

「もしかして私、何か粗相を……?」

「いや、ああいう奴なんだよ。他人と群れるのを嫌うっつーか……。お前が何かしたってわけじゃあないはずたから。気にすんな。」

 滝はほのかに微笑みかける。ほのかはみるみるうちに赤くなっていった。

「はい……。あ、でも、良ければ食事に桧山さんも誘いたいんですけど……。」

「あー……じゃあ後で連絡しとく。」

 俯くほのかに、滝は後頭部をぽりぽり掻いて答える。

「吹雪は行くのか?」

「んー、行こうかな。でも、お金は払うよ。滝はどうするの?」

 ほのかは慌てて「お金はいりませんっ」と頭を横に振る。そんな彼女をよそに、滝は苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。

「あいつの返答次第だな。」

「来ると良いね。」

「連絡がな。」

「そっち!?」

「あいつサイレントマナーモードにしてるし、HR終わって5組行くといなくなってることあるんだよ。」

 滝は心底面倒臭いとでもいうように舌打ちをする。

「そういう時ってどうするの?」

「とりあえず下駄箱見て、帰ってなかったら捜す。大抵図書室か音楽室にいるから。」

「結構距離あるね。3階と1階じゃない。」

 同情するように笑い「お疲れさま」と言う吹雪。そんな2人の会話を、ほのかは不思議そうに聞いていた。

(桧山さんと九条さんは付き合っているわけじゃない。というより、友達ですらないとさえ感じる。なのに話の内容だと、捜してまで一緒にいなきゃいけない。どういうこと?)

「なんか……不思議な関係ですね。」

 滝と吹雪はほのかを見る。言葉の意味を察したのか、滝は首をすくめて笑った。

「だろ?……どうした、吹雪?」

 ふと、滝は視界の隅で考えこんでいる吹雪に目を遣った。

「滝はどうしたい?」

「は?」

「食事。滝自身は行きたいの?行きたくないの?行きたいんだったら、俺から佳音に連絡するよ。」

 素っ頓狂な声を出した滝は、真顔で提案する吹雪をまじまじと見る。

「何で、お前が連絡するんだ?」

「その方が来る確率は高いでしょ?」

 吹雪はいつものにこやかな笑みを浮かべる。滝は何か言いたげに口を開けるが、再び苦い表情を浮かべ口を閉ざした。ちらりとほのかを見る。

「…………行くかな。」

 嬉しそうに満面の笑みを見せるほのかに、滝は照れくさそうにそっぽを向く。

「わかった。」

 吹雪は頷くと、「あっ」と思い出したように声を上げる。

「そういえば今朝の競走、俺の勝ちだったよね!じゃあ滝の奢りで!」

「くっそ、今思い出すな!」

「あ、あのっ、姉がぜひうちの店にと言ってたんで、本当にお金は……!」

「うるさいから、もう少し声のボリューム落として。」

 段々と声が大きくなっていった3人に、職員室から出てきた梢は困り顔で注意した。



「あ、来た。」

 放課後、3人は昇降口で佳音が来るのを待っていた。吹雪の言葉に2人は世間話を止めて下駄箱の方を見る。

「本当に来た……。」

 滝は驚いたようにぽつりと言う。

「吹雪、何て言ったんだ?」

「別に、大したことじゃないよ?『矢倉さんが、佳音も食事に誘いたいって言ってた』って伝えただけ。」

「それだけ?」

「それだけ。」

 吹雪は、オウム返しをして頷いた。

「だったら、俺でも良かったんじゃねぇか?」

「いやーそこはね-。」

 吹雪は含みを持たせて声だけで笑う。

「すまない、待たせた。」

 ゆったりとした足取りで3人の元へ歩いてきた佳音は、頭の上に疑問符を乱舞させている滝を横目で見やる。

「すいません。私まで誘っていただいて……。」

 佳音はほのかへ視線を移すと、小さく頭を下げた。

「いえ、桧山さんにもお手数をおかけしましたので……。」

 ほのかは申し訳なさそうに笑い、手の平を横に振る。

「じゃあ、行きましょうか。」

 ほのかは嬉しそうに歩き出す。

「……おせっかいかもしれねぇけど、お前らさ。」

「はい?」

 ほのかと佳音は同時に滝を見る。

「敬語喋りづらくねぇか?つーか、同学年だろ。」

 滝は苦い表情をし、吹雪も苦笑いを浮かべている。佳音とほのかは顔を見合わせた。

「……まぁ、な。」

「そうだね。」

 佳音は無表情のままこくりと頷いた。ほのかも「ふふっ」と苦笑いを浮かべる。

「俺達にもタメ口で良いから。」

「はい!……あ。」

 しまった、という表情をするほのかに吹雪は軽く笑う。

(真逆だな。)

 佳音はつくづく思う。

(言葉遣いも、見た目も、印象も。)

 4人は歩き出す。が、はたと佳音が足を止める。

「どうした?」

 滝はいきなり立ち止まった佳音に、わずかに眉間に皺を寄せて問いかける。佳音の表情はいつになく真剣なものだった。

「矢倉さん。今日だけで良いから、私の苗字『小暮沢こぐれさわ』にしといてくれないか?」

「え?何で?」

 突然、奇妙な事を言い出す佳音を、ほのかは疑問符を浮かべて見つめた。

「頼む。」

「良いけど……。なんか忘れそうだから、『佳音さん』で良いかな?」

「あぁ。ありがとう。」

 佳音は安心したように表情を緩める。

「自分の苗字、嫌いなの?」

「いや、そうでは………………トラブル防止のため?」

 顎に手を当て、疑問系で返す佳音に、ほのかは再び「え?」と問い返した。



 4人が通う櫻岡さくらおか高校からバスで約20分。

 大通りの裏手からさらに少し離れた場所にある赤レンガ調の店がカフェ「casinaカスィーナ」だ。

 ほのかが木製のドアを押す。店内はアイボリーの土壁に所々赤レンガが埋め込まれており、テーブルと椅子も全て木製で揃えられている。10席足らずの小さな店だ。

「お姉ちゃん、来たよー。」

 ほのかは厨房の入り口まで歩み寄ると、顔だけを覗かせた。すると、厨房の左手前のドアから白いYシャツに茶色のエプロンを腰に巻いた女性が出てくる。

「あ……。」

 滝はその女性に見覚えがあった。木曜日の夜、佳音の家から出てきた女性だ。女性はほのかに気づくと、軽い笑みを浮かべ「いらっしゃい」と声をかけた。

「連れてきてくれた?あなたの恩人。」

「恩人達ね。あの人達だよ。」

 ほのかははにかみながら手の平を翳して入り口を指す。

「……あら!」

 女性は滝に気付いたようで、驚いた声を出す。

「どうも。」

 滝は軽く頭を下げた。

 女性は嬉しそうに滝達に歩み寄ると、丁寧にお辞儀をした。

「こんにちは。姉の初美はつみと申します。先日は、妹を助けていただきまして本当にありがとうございました。ささやかではございますが、ぜひお礼に当店の料理を召し上がっていってください。こちらのお席へどうぞ。」

 初美は奥のテーブルへと案内する。

 後ろを付いていきながら、滝は内心驚いた。初めて見たときは性格が悪く、冷淡な印象を受けたからだ。

(仕事中だからか?それとも一昨日は疲れてたか何かか?)

 あまりの態度の変わりように滝は思考をぐるぐるまわす。

「美人姉妹だねー。」

 吹雪は初美を見て、隣を歩く佳音に呑気に言う。

「そうだな。」

「矢倉さん……ほのかちゃんも髪の毛巻いたら、あんな感じになるのかな。」

「どうだろうな。」

 吹雪の言葉に返答しつつ、ちらりと前を歩く滝を見る。

 4人は、1番奥の4人掛けのテーブルに案内され、テーブルを囲むように席に着く。

「好きなもの作るから、メニュー見て選んでて。」

「ありがとう。」

 初美はほのかにメニュー表を渡すと、厨房へと姿を消した。

「何にする?」

 ほのかは嬉しそうにテーブルの真ん中にメニュー表を置く。

「パスタがメインなんだな……。ボロネーゼが人気なのか?」

 滝は壁に掛かってる小さな黒板に目を移す。人気の料理ベスト3が書かれていた。

「前に雑誌で、そのボロネーゼを取り上げられたことあるんだよ。」

 ほのかは正面に座る滝に満面の笑みを向けた。

「お姉ちゃんは調理の専門学校卒業して、1年くらいイタリアに留学してたの。」

「裕福なんだな。」

「お前が言うか。」

「あ?」

「悪い。」

 佳音の鋭い声と眼光に、滝はしまったと言わんばかりに自分の口を手で押さえる。

「?……うちは一般家庭だよ。お姉ちゃんがバイトして、自分で留学費用を貯めたの。」

「すごいねー。何のバイトしてたの?」

 吹雪は興味本位に聞く。ほのかが表情を曇らせた。

「……キャバ嬢。」

 ほのかは俯いて、小さく答える。

「あー……なんか、ごめん。」

 吹雪は気まずそうに謝る。と、おもむろに滝が口を開いた。

「別に良いんじゃねぇの?本人が選んでやったんだろ?」

 ほのかがわずかに顔を上げる。が、再び視線を落とす。

「でも……。」

「そうそう、良いのよ。あなたが気にしなくても。それに、私はキャバ嬢やってて良かったと思うわ。」

 突然頭上から降ってきた声に、ほのかは肩を跳ね上げる。

 初美がトレンチにお冷やを4つ持ってきた。

「びっくりした……。よく3人とも驚かなかったね。」

「そこから出てくるの見えたから。」

 右側に座る吹雪は、厨房を指さす。左側に座る佳音もこくりと頷いた。

「歩いてくるの見えたしな。」

「メニュー決まったら、呼んでちょうだいね。」

「うん……。」

 初美はお冷やを置きながら微笑んで、再び厨房脇の部屋へと入っていく。ほのかは、腑に落ちない表情で初美の後ろ姿を見届けた。

「さて、そろそろ決めようか。あっ、カルボナーラ!」

 吹雪は前のめりになってメニュー表を覗き込む。佳音と滝もそれに倣う。

「悪い。先に言っとく。こいつ、本当に遠慮ねぇから……おい?」

 滝は呆れたように頬杖をついて吹雪を指さし、ほのかに視線を移す。

「どうした?矢倉?」

 未だにドアの方を見つめていたほのかは、弾かれたように再び肩を跳ね上げる。

「はい!?……ごめん、何だっけ?」

「吹雪は遠慮しないって話。」

 佳音は無感情に言う。ちらりと、滝と佳音はほのかが見つめていたドアを見た。

「んじゃ、俺ボロネーゼにするかな。」

「滝、ちょっとちょうだい。」

「はいはい。佳音はどうする?」

 エサを待つ犬のように目を輝かせる吹雪をよそに、滝は佳音へと視線を投げかけた。

「……ティラミス?」

「いや飯食えよ。」

 佳音はわずかに滝を睨みつける。滝はそれを気にした様子もなく言葉を続ける。

「少し痩せたんじゃねぇか?それ以上細くなってどうするんだよ。」

 佳音はムッと口を尖らせる。

「筋肉がついたと言ってくれ。」

「その細腕のどこに筋肉があるんだよ。大体お前、休みだと1日2食しか食わねぇだろ。風邪の時ちゃんと食ったか?」

「………………うん。」

 佳音は顔を背ける。

 食べたといえば食べた。食べてないといえば食べてない。金曜日、朝食・昼食は高村家でご馳走になったが、夜は自宅で、薬を飲むための最低限の食事──卵豆腐1個程度──しか摂っていない。さらに土日は、滝の指摘した通り1日2食しか食べていない。元々佳音は食への関心が薄いのだ。

「食ってねぇな……。」

 佳音の態度と間を置いた返答に、滝は片手で額を覆ってため息をつく。

 ほのかは滝を見てくすりと笑う。

「心配性なんだね。」

「そう、心配性なんだよ。」

 吹雪もからかうように笑う。

「違う。こいつがしっかりしてねぇだけだ。」

 滝は佳音を指さして2人に不機嫌な視線を向ける。

「失礼な。」

 佳音はぶすくれた表情でそう言った。

「人間1食ぐらい食わなくても生きていける。」

「その生活を続けてぶっ倒れたのはどこのどいつだよ。」

 佳音の開き直ったような態度に滝は若干苛立つ。酷い時は1日1食しか摂らない時もあったのだ。

「次倒れたら入院コースだろうな。」

 他人事のように言う佳音に、滝はひとつ舌打ちをする。そうなった時の面倒を恐らくこちらが見なければならない。

「倒れないように気をつければ良いんでしょ?ね、佳音。」

「そうだな。」

 佳音はにべもなく言う。滝は「出来んのかよ」と小さくごちた。

「とりあえず頼もうよ。俺決まった。ほのかちゃんはメニュー決まった?」

「う、うん。」

「ごめんね、いつものことだから。」

 吹雪は少し悲しそうな表情で謝る。

「いえ、じゃあ……あ、お姉ちゃん。」

 ほのかは手を上げて、厨房でスタッフと話していた初美を呼ぶ。初美はそれに気付くと、スタッフをに軽く断りをいれこちらに近づいてきた。

「決まったかしら?」

 初美は伝票とペンを取り出すと、4人に笑いかける。

「うん…………あ、えっと、ボロネーゼ……2つで良いの?」

「あぁ、頼む。」

「俺、フレッシュモッツァレラ&トマトパスタで。」

「カルボナーラじゃないのか?」

「いいでしょ別に。」

「すんません。」

 吹雪の珍しく鋭い声に滝は即座に謝る。初美はオーダーをとりながらくすりと笑った。

「で、あとは?」

 吹雪は佳音を見る。

「カルボナーラ、お願いします。」

「あれ、良いの?」

「取り分ける皿1つください。」

「そういう事かよ。」

 滝は呆れたように頬杖をついて佳音を見る。

(ま、良いか。食うんだったら……。)

 初美は何かに気づいたように滝を見る。そしてお冷やを飲みながら滝を見つめるほのかへと視線を移した。

「かしこまりました。」

 初美は伝票に視線を戻すと、オーダーを確認する。

「食後に飲み物持ってくるから、決めておいてね。」

 そう言うと初美は背を向け、厨房へと戻っていった。



「ごちそうさまでした!美味しかったです!」

 店の入り口で、吹雪は満足そうな笑顔を初美へと向けた。

「本当に良いんすか?いくらか金払いますよ。」

「良いのよ!これはお礼なんだから!」

 財布から金を出そうとしてる滝の手に、初美は自分の手を被せて制する。

「いつかまた食べに来てね。何かサービスするから。」

 初美は笑顔で4人を見回す。柔らかな西陽が彼女に、どことなく人懐っこい印象を与えていた。

(そういや一昨日もそんな事言ってたな。)

「今度は、ちゃんと払いますんで。請求してください。」

「律儀ね、あなた。じゃあそうするわ。」

 初美は腰に手を当て、諦めたように笑う。

「ごちそうさまです。ありがとうございました。」

 佳音はぺこりと頭を下げる。

「今度はティラミス食べに来てね。」

「……はい。」

 初美はふわりと笑う。佳音は、あの会話を聞かれていたことが気恥ずかしく、少し顔を赤らめ俯いた。

「お姉ちゃん。たまには家に帰ってきたら?近くなんだし。」

 ほのかはため息をついて初美を見る。初美は体の前で腕を組むと唇を尖らせそっぽを向いてしまった。

「気が向いたらね。ほら、門限7時でしょ。バス乗り遅れるわよ。」

「んー……。じゃあまた来るね。」

 ほのかは渋々、初美に背を向ける。

「待ってるわ-。」

 笑顔でひらひらと手を振る初美に、ほのかは悲しそうな表情で手を振り返す。歩き出し、建物の角を曲がる時、ほのかはもう1度振り返った。初美はまだ店の前からこちらを見送っていた。

「門限なんてあるんだな。」

 現実では、どこかの寮にしかないものだと思っていた滝は軽く驚いた。

「そうなの。お父さんが過保護っていうのかな。ちょっと、そういうきらいがあって。」

 ほのかは乾いた笑いをする。

「友達と出かけては、どこに行ってきたんだー誰と行ってきたんだーって。優しいんだけど、それがちょっとね……。」

「良い父親だと思う。」

 辟易したようにため息をつくほのかに、佳音はぽつりと呟いた。ほのかは「え?」と聞き返す。

「構われないよりは、だいぶ……。」

 声が小さくなっていく佳音を3人は見つめる。後ろにいた滝は気づかれないようにため息をつくが、ふと左側の本屋が目に入ると「あ」と何かを思い出したような声をあげた。

「矢倉、まだ時間あるか?」

「え?うん。あるけど……。」

「ちょっと、本屋寄っても良いか?」

「良いよー。私も欲しい本あったんだ!」

 ほのかはぱっと表情を明るくすると、ぱたぱたと店内へ入っていった。滝も歩いてついていく。

(言わない方が良かったのだろうか。)

 入り口に並んでいる新刊を手に取りながら、佳音は口に出した事を後悔した。若干重い空気になってしまったのは分かっている。だが、その空気を壊すようにわざとおどけたり明るく振る舞うのはどうしても性に合わないのだ。

(生きにくい、んだろうな。私の性格は。)

 吹雪は何も言わずに隣にいる。同じように新刊を手に取り、最初のページを開いている。

「……わざと、か?」

 か細い声で佳音は問いかける。吹雪はきょとんとした表情で佳音を見た。

「何が?」

「『本屋に用がある』っていうの……。」

「いや、学校で『漫画の発売日だ』って言ってたから、わざとじゃないと思うよ。」

「……そうか。」

 佳音は安堵したように息を吐く。

(また気を遣わせたと思ったのかな。)

「気にしすぎなんじゃない?」

 吹雪は本に視線を戻すと、ふっと軽く笑った。佳音は吹雪を見上げた。が、すぐに視線を落とす。

(ありがとう。)

口元には、優しく小さな笑みを浮かべていた。



『casina』はイタリア語で『小さな家』という意味らしいです。

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