初恋
ある日の夕暮れ。
佳音の姿は、剣道場を兼ね備えた平屋建ての一軒家にあった。
防具は着けていないが、木刀を構え、吹雪と向かい合っている。
「ヤー!」
吹雪が寸止めで正面を打ち、佳音は左足から少し後ろに下がる。
「トー!」
佳音は右足から踏み出し、こちらも寸止めで吹雪の正面を打つ。
吹雪は一歩引き、佳音は剣先を吹雪の顔の中心に近づける。
吹雪はさらに一歩下がる。佳音は左足を一歩踏み出しながら、木刀を頭上に構える。
吹雪が二歩引くと、佳音は腕を下ろし、2人は剣先を合わせた──。
「佳音、太刀筋は良いね。」
剣道の稽古を終え、吹雪は和やかに褒める。
「そうか?なら、良かった……。」
しばらくの間剣道をやっていなかった佳音は、その言葉に胸をなで下ろす。
「ただ、ちょっと忘れてるのか、視線が彷徨う時があったね。」
防具をしまいながら、吹雪はくすりと笑う。佳音は申し訳なさそうに「すみません……」と謝った。
「大丈夫だよ──そういえば。」
吹雪は思い出したように話題を変える。
「先週、佳音の事見たよ。しかも彼氏と歩いている所。」
「そうか。まぁ……形だけだが。」
佳音は男装をしている為、カップルというよりは男同士にしか見えない。
佳音は愁いを含んだ声音で「『彼氏』か……」と呟いた。
「…………どうでも良いな……。」
吹雪はその言葉に、チクリと胸が痛んだ。
(綺麗なのになぁ……。)
もう吹雪は、佳音を恋愛対象とは見れないけれど、十分魅力があるとは思っている。
どうしてこんな事になったのかは、佳音は吹雪にも話してくれない。
吹雪は「佳音」と優しく名前を呼んだ。
「──昔、俺が佳音を好きだった事、気付いてた?」
「は?」
「気付いてなかったか……。」
「すまない……。」
吹雪は苦笑する。
「好きだったんだよ、子供の頃。」
小学校3年生の頃。
滝と佳音は、吹雪の祖父が教えている剣道教室に、何度か遊びに来ていた。
「やってみるかい?」
吹雪の祖父は優しい表情でそう言い、滝と佳音に剣道を教えてていた。
その間、生徒は試合をやっていて、吹雪は1度も負けなかった。
稽古が終わり、皆が剣道場を後にする。佳音は廊下で吹雪の隣に並び、きらきらした目で吹雪を見る。
「吹雪君すごいね!1回も負けてない!」
そんな佳音を、吹雪は冷めた目で一瞥した。
「……すごくなんかないよ。」
「そいつは、先生の孫だからな。家でも練習出来るんだろ。」
滝と一緒に前を歩く生徒達の1人が、嫌味ったらしく口を挟んだ。
「そうなの?」
「……まぁ……。」
吹雪は無表情に答える。
「良いよなぁー。そりゃあ強くなるって。」
(好きでやってる訳じゃない……。)
吹雪は歩きながら、嫌味を言う子供を睨む。
「ねぇ。剣道って、どうやるの?」
「は?」
佳音の突拍子もない質問に、吹雪は眉間に皺を寄せる。
「やりたいの?」
「やってみたいけど、戦うのは怖いし……。」
「じゃあ、型だけやれば?」
「型?」
「防具をつけないやつ。」
「あ、最後にやってた?」
「うん。」
「こうやってよね!」
佳音は竹刀を振る真似をする。
「違う。足はこう──。」
吹雪が手直しを加えると、バランスが取れず佳音はぐらつく。
「体幹弱いね……。」
吹雪は呆れ気味に呟いた。
後日。
稽古日ではないが、佳音が「竹刀を振ってみたい」と言うので、吹雪は剣道場に佳音を招いた。
「もう少し足の幅開いて。開く幅は拳一個分──。」
吹雪は、『初心者へ教える事』への面倒臭さを感じていた。
吹雪や他の生徒は既に基礎が出来ているし、普段は師範である祖父が教えている為、吹雪は自分の稽古に集中している。
(俺も、最初はこうだったっけな……。)
楽しそうな佳音を見て、不格好ながらも無邪気に剣道をしていた昔を思い出し、吹雪は目を細める。
「何をしている。」
嗄れた声が後方から聞こえ、吹雪は肩を跳ね上げる。
恐る恐る振り返ると、祖父・宗助が買い物袋を提げ、訝しげに入り口の所に立っていた。
「ぁ……こんにちは。えっと──。」
「『剣道やってみたい』って言うから……少し、教えてた……。」
表情が強張る吹雪とは反対に、宗助はふっと表情を緩ませ「なんだ」と呟いた。
「だったら、稽古日に来てもらえば良いだろう。」
「ごめんなさい。どうしても、ピアノ教室と重なって……。」
もう帰ります、と佳音は慌てて剣道場を去ろうとする。
「やっていって構わないよ。吹雪、見本になるよう、隣で一緒に竹刀を振ってあげなさい。」
「…………分かった。」
吹雪は零しそうになった文句を飲み込む。
(楽しかったのに……教えるの……。)
それからは、いつも通り宗助が教えた。
「ありがとうございました!」
玄関で、佳音はきらきらした目で宗助と吹雪に礼を言う。
「また、いらっしゃい。」
「はい!お邪魔しました!」
佳音が引き戸を閉めてから、宗助は「吹雪」と静かに呼んだ。
「剣道場を使うんだったら、事前にちゃんと言いなさい。びっくりするだろう。」
「ごめんなさい……。」
「それに、大会が近いんだ。友達の頼みを聞くのは良いが、他人に教えている暇はないはずだろう。」
吹雪は、気付かれないようにゆっくりと奥歯を噛みしめる。
「……はい……。」
「さぁ、夕飯まで稽古するぞ。今年は優勝出来ると良いな。」
お前なら出来る、と言うと宗助は剣道場へと歩いていった。吹雪もあとをついていく。
(……どうでも良いよ。『優勝』なんて……。)
吹雪は、ピアノを習っているのに楽しそうにしている佳音が、心底羨ましかった。
(毎日、やってないのかな……。)
だから心に余裕があるのだろうか。
「──え?ピアノ?」
昼休み。珍しく声をかけてきた吹雪に、佳音は目をぱちくりさせた。
「毎日弾いてるよ?1時間くらい。昨日も、家に帰ってから練習してた。」
佳音はピアノを弾くジェスチャーをしながら、笑顔で事もなげに言う。
「……つらくないの?」
「つらくないよ。発表会前だと練習は少し厳しくなるけど、終わるとお母さんが『頑張ったね』って褒めてくれるの。それで、ケーキ買ってくれる!」
「どんな結果でも?」
「うん。どんな結果でも。」
佳音は不思議そうな表情で、吹雪の言葉を繰り返す。
「へぇ……そっか……。」
吹雪は虚しい気持ちで相槌を打つ。
宗助は、大会が終わると『何故ああやった』『こう教えただろう』と指摘ばかりだ。
(いいな……褒められるんだ……。)
「そういえば。この間の大会、どうだったの?」
吹雪は、表情を強張らせる。
「…………準優勝。」
「へぇ!おめでとう!」
佳音は「すごいね!」と目を輝かせた。
そのリアクションに、吹雪は唖然とする。
「…………は?」
「え?」
「だって『準優勝』だよ?1位じゃないんだよ?」
「私『準優勝』なんて獲った事ないよ?『入賞』はあるけど。2位でもすごいじゃん!」
(『すごい』のか……?)
母は「よく頑張ったね」と宥めてくれたが、宗助からは「よくやった」という形だけの褒め言葉を貰ったあと、相変わらず「ここがなってない」という指摘だけを受けた。
吹雪は、初めて受けた純粋な賞賛に目頭が熱くなってきて、うつむいて「ありがとう……」と涙声で呟いた。
それから吹雪は、少しずつだが、佳音の前でだけ心から笑うようになった。
「……すまない。全く覚えていない……。」
吹雪は苦笑しながら、「そうだろうね」と頷いた。
「…………いや、言っちゃ悪いが『優勝以外ダメ』って、厳しすぎるだろう……。」
吹雪はいつも通り「だよねー」と笑い飛ばす。
「母さんも『すごいじゃない』っては言ってくれてたけど、『本心』っていうより『おじいちゃんを落ち着かせる』っていう感じだったからさ。強く言える人じゃないし。」
「へぇ……。」
「あの頃は、嫌いなものばっかりだったな。剣道も嫌いだったし、おじいちゃんも嫌いだったし、妬んでくる剣道教室の生徒も嫌いだったし。…………滝の事も、嫌いだったし。」
「へぇ──……ん!?」
最後の台詞に、佳音は衝撃を受ける。
「そうだったのか?」
「そうだったんだよ。今は、ちゃんと友人として見てるけど。」
目で「何故」と尋ねている佳音に、吹雪は頭の中で言葉を整理する。
「んー……。佳音が、いつも滝を見てたから。それが、一番の理由かな。」
「えっ……。」
佳音は、顔を赤らめる。
「滝の話する時、楽しそうだったしね。『こりゃ無理だなー』って、思ったよ。正直、腹いせに何度か滝に面打ちしたかった。」
「やめてくれ……。」
理不尽だ、と佳音は顔を赤らめたまま視線を逸らす。
「あはは。……さて、夕飯食べてってよ。母さんも話したがってたし。」
久々に来たから嬉しそうにしてたよ、と吹雪は夕食を促す。
「……じゃあ、お言葉に甘えて。」
すまない、と佳音は申し訳なさそうに軽く頭を下げる。
「じゃあ、俺は部屋で着替えてくるから。」
そう言って、吹雪は剣道場をあとにした。
ふと、吹雪は宗助の病室での台詞を思い出す。
「…………すまなかったな。無理に剣道をやらせて。いつもいつも……『私の孫だから』だ『優勝』だ何だと重圧を背負わせて、お前が楽しんでやっているかなど、考えもしなかった。」
当時は「今更何を」と恨めしく思った。今も、心の中にしこりとして残り「気にしないで」と笑い飛ばすのは難しい。
だが、剣道は今や特技となっていて、母校の剣道部顧問に頼まれてたまに教えに行ったり、顧問の手合わせの相手をしたり、それなりに楽しくやっている。
(まぁ……気兼ねなくやれば、良いものだよ。)
宗助への報告のごとく、吹雪は内心呟いた。
「お邪魔しました。」
佳音は、玄関で丁寧にお辞儀をして、吹雪と母・よし子を見る。
「また、遊びにおいで。」
「はい、ありがとうございます。」
淑やかに微笑むよし子を見て、佳音は『親子だな』と思う。
「本当に大丈夫?送って行くよ?」
「大丈夫だ。寄りたい所もあるし。」
そっか、と尚も心配そうに見る吹雪に「おやすみなさい」と微笑み、佳音は白屋家をあとにする。
もうすっかり夜の帳に包まれ、家の灯りと街灯の明るさが際立つ。
佳音はふと、足を止めた。
(誰か……ついてきてる……?)
佳音は振り返ろうと、僅かに首を動かす。
(…………気のせいだろう……。)
こんなのを狙うはずがない、と佳音は再び歩き出した。
(美人だったらまだしも、こんなクソガキみたいな奴をストーカーする物好きなんて……。)
いるはずがない、と佳音は気丈に歩みを進める。
だが、どうしても気になってしまい、その日佳音はカプセルホテルに泊まった。




