虚無
今日から新学期が始まる。
憂鬱な気分でエントランスの壁に凭れていた滝は、携帯をいじりながらいつも通り佳音を待っていた。
「──あぁ。」
不意に滝は呟く。
(もう、あいつ来ないんだったな。)
滝は携帯をポケットに入れ、学校へと歩き出した。
(──案外、何とも思わねぇもんだな。)
やっと自由になれるたのに、特段『嬉しい』とも思わない。無論、『寂しい』などと思うはずもない。
晴れ渡る空を見上げたり、住宅街をぼんやりと眺めたりしながら歩いていた滝は、ふと足を止め、今通り過ぎた電柱を振り返る。何か落書きがしてあるわけでも、他と変わった所があるわけでもない。ただ、1ヶ月半ほど前に佳音が頭をぶつけた電柱だ。
たった1ヶ月半前の出来事なのに、滝は遠い昔を思い出すように電柱を見つめた。
──あの時の佳音は、普段の無表情を通り越して通夜の参列者のように暗い顔をしてとぼとぼと歩いていた。そんな佳音から少しでも離れるように、滝は大股で先を歩く。
朝から苛々していた。佳音の、顔を合わせた瞬間の怯えたような表情、煮え切らない態度、今朝の謝罪と夕べの台詞──。
『気丈に振る舞っている女の子を放って早く帰りたいのか?』
今朝の謝罪は、恐らく夕べの台詞に対してのものなのだろう。だが、佳音が理由を明確にしない為、未だに推測でしかない。
あの台詞には、正直、怒っていないと言えば嘘になる。が、佳音の言動などいちいち気にしていたら埒が明かない。何より、苛立ちの最大の理由は、佳音は、ああいう挑発的な台詞を吐いた後は大抵自滅して、物事が一回り大きくなる。それを危惧したのだ。
(何も起きんじゃねぇぞっ……!起きたらマジで殴るからな!!)
滝は内心祈っていた。祈りというより、最早恫喝だ。
そして、『理由』と言うほどではないが、いつも心に引っかかる事がある。佳音が挑発的な台詞を吐く時に見せるあの穏やかな笑みだ。滝は、あの微笑みが嫌いだ。だが、何故嫌いなのか、その見当がまるで付かない。
本当は、このまま佳音を置いてさっさと登校したいのだが、それで何かあって(直之に後々尋ねられて)も困る。
苛々していて、いつの間にか後ろの足音がかなり遠のいている事に気づかなかった。滝は面倒臭そうにため息を吐き、視線だけを後ろへやった。辛うじて視界に入る程度に佳音を見ると、10mほど離れている。滝は歩くスピードを緩めた。歩いたまま「昨日」と後ろへ言葉を投げかける。
「吹雪、ちゃんと送ってくれただろ?」
返事がない。
(今度は無視か……!)
滝は1つ舌打ちをし、睨むように佳音を見た。
「聞いてんのか──おいっ前!!」
ふらふらと力なく歩いていた佳音は、自身の進行方向が右に寄っている事、その先に電柱が立っている事にも気づかず虚無的な目で顔を上げた。
「は──ぃぎゃ!?」
激突した。右の額を抑えながら数歩後退る。
(うわぁ……。)
滝はそれを痛々しげに見ながら「大丈夫か?」と声をかけた──。
電柱を眺めていた滝は、気を取り直して学校へと向かう。
(どうせ学校に行けばあいつはいる。嫌でも1度くらい目に入るだろ。)
「おはよー。おーい、滝-?」
席についてから、頬杖をついてずっと廊下の方を見ている滝の視界に入るように、吹雪は滝を横からのぞき込んだ。
滝はようやく気づいたように、頬杖から顔を上げて吹雪を見る。
「ぇ……あぁ、おはよ。」
「どうしたの?ぼんやりして。」
吹雪は不思議そうに滝を見下ろす。
「いや…………別に。」
滝の歯切れの悪い返事に、吹雪は疑問符を浮かべる。その時、始業のチャイムが鳴った。それと同時に、探していた人影が一瞬だけ廊下を走っていくのを滝は捉え、「あ」と小さく声を上げる。1テンポ遅れて、滝の視線の先を追った吹雪にそれは見えなかった。
(今来やがった、あいつ!)
滝はわずかに怒りを滲ませる。
「滝?」
吹雪はその怒りを感じ取るが、理由が分からない。その怒りも、吹雪が声をかけた事ですぐに引っ込んだ。
「いや、何でもない。」
「何も聞いてないよ?」
そうだっけ?と愛想笑いを浮かべる滝を、吹雪は訝しげに見る。明らかに様子がおかしい。
梢が教室に入ってきた事で、教室内で思い思いに過ごしていたクラスメイト達は自分の席に戻る。吹雪も、滝を横目で気にしながら自分の席に戻っていった。
「──引っ越し?」
気まずそうに唇を引き結んでいる佳音を、吹雪はぱちくりとした目で見つめる。吹雪も初耳だった。
吹雪と佳音は今、大通りの裏手にある小さな喫茶店で、4人掛けのソファ席に向かい合う形で座っている。放課後、「滝の異変について何か知らないか」と佳音にSNSで尋ねたところ、「知り合いに会わない所で話がしたい」という返事が返ってきた。
なんとなく察しがついた吹雪は、佳音の口数の少なさに久々に怒りを覚える。
「それ、いつ決めたの?」
吹雪は冷めた目で問いかける。低くなった吹雪の声のトーンに佳音は段々青ざめていく。
「…………7月……半ば、くらい……です。」
物静かに口調に反して、後ろに阿修羅が佇んでいそうな怒気を発する吹雪に、佳音は思わず敬語になる。
「そして言ったのが?」
「…………引っ越しの……前日、です。」
引っ越しの前日となると、8月上旬の事だ。
吹雪の怒気が強くなり、佳音も尚更萎縮する。しかし、吹雪はふっと気を緩めると、大きなため息をついた。
「そりゃあ滝だって怒るでしょ。普通、引っ越す直前じゃなくて決まった時に言わない?そういうの。」
吹雪はいつもの声のトーンに戻り、先程の怒気もすっかり無くなった。佳音が恐る恐る目線を上げると、吹雪は悠長にアイスティーを飲んでいる。
そうですね、と未だに敬語のまま同意する佳音を、吹雪は呆れたように見た。
「それだけ?」
「……ぁ……。」
言い淀む佳音に、吹雪はわずかに眉間に皺を寄せる。
「あとは?何?」
言いづらそうに視線を落とす佳音に、吹雪は刺すような口調で質問する。
「……澤木君の、事……なんだが……。」
「亮介?」
佳音はしどろもどろになりながら話し出す。吹雪は、この話題に亮介が出てきた事に驚いた。
「嘘を…………ついてまして……。」
「嘘?」
吹雪は佳音の言葉を反復する。佳音にとっては、こちらの方が深刻なのか、暗い表情で俯いたままだ。
「佳音?」
唇を引き結ぶ佳音に、吹雪は優しく声をかける。
「…………って。」
「ん?」
佳音の言葉が聞き取れず、吹雪は耳をかたむけてもう1度聞き返す。
「…………こ……『恋人がいる』って…………嘘を……。」
吹雪は背もたれに体重を預け盛大なため息をついた。佳音は最早泣き出しそうだ。が、自分が蒔いた種である。
「亮介は、まだそれを本当だと思っている……と。」
佳音は弱々しく頷く。
「どうして、そんな嘘ついたの?」
吹雪は怒りよりも、『佳音が珍しく嘘を吐いた』事に関心を持った。佳音は俯き、黙りこくったままだ。
「どうして?」
吹雪はもう怒っておらず、いつもの口調で尋ねる。佳音が細く息を吐いた。
「…………『いない方が幸せ』なんだと。」
「え?」
「中学の時、私が『いない方が幸せ』だって話してたんだ。滝と。それなのに、今になって『私といた方が楽だ』とかって言い始めて……。」
少し仕返しをしただけだった。だが、その『仕返し』が思った以上に自分の心に重くのしかかった。
引っ越しの前夜、滝が少しこぼしていた。『亮介は私を好きだった』と。亮介はもしかしたら、本当に自分と一緒にいたかったのかもしれない。だとしたら、自分は最低な形で彼の気持ちを踏みにじった。そればかりを考えてしまう。
「やっぱり、心苦しくて……。今更『嘘だった』と謝るか……付き合えない事に変わりはないから、黙っておくか……。」
「本当にそんな理由で謝れないの?」
間の抜けた声で「へ?」と顔を上げる佳音を吹雪は真剣に見た。
「俺から見ると、佳音が気にしてるのって『怒られる』か『怒られないか』って気がするんだけど。」
昔からね、と吹雪はストローでグラスの中をかき混ぜる。佳音も吹雪の言葉に真剣に耳を傾けていた。
「嘘をついているのが心苦しい。でも『怒られる』のは嫌だから黙っていたほうが良いかもしれない。だから迷ってるんじゃない?」
反論が出来ず、佳音は再び俯く。言われてみれば、滝が長門を『恋人』だと勘違いした時もそうだった。
『長門くんは彼氏じゃない。でも、これ以上怒らせるのは──。』
あの時佳音は、自分の保身を考えて弁明しようともしなかった。(確かに、吹雪の言う通りだな。)
もうやめよう、と佳音は静かに心を決める。元々『仕返し』というものが、佳音には似合わなかったのだ。
「いつか、謝らないとな……。」
佳音は決意を呟く。すると吹雪は「じゃ」といつもの朗らかさで携帯を取り出した。
「いつにする?」
「は?」
佳音は素っ頓狂な声を上げて吹雪を見る。吹雪は半ば楽しそうだ。
「日にち。いつ謝りに行く?」
「い、今決めなくても……。」
「そう言ってると、また先延ばしにするでしょ?」
楽しそうに笑いながら、吹雪はピンポイントで痛い所を突く。
「そんな事は──。」
ない、と言いかけた佳音だったが、すぐに考えるように黙り込んだ。吹雪の言う通り、自分に任せたら謝りに行くのはいつになるか分かったもんじゃない。
「んー……じゃあ今電話かけて、日にちを決めるのは?」
ついには強硬手段に出たか。
見た目の穏やかさに反してサディスティックな面を持つ吹雪を、佳音は諦めたように見た。
「佳音。連絡して。」
吹雪はにっこりと爽やかな笑みを浮かべる。その有無を言わせぬ笑顔に、佳音は携帯を取り出しながら「はい……」と小さく返事をした。
いやぁー先月は体調崩してまして……。皆さんもお気をつけください。