信頼
行きつけの割烹料亭の個室で、直之と秀一郎は黙々と箸を進めている。直之にとって、これほど味気なく感じる食事も久しぶりの事だ。
「佳音ちゃん、1人暮らしするんだってな?」
今、会社の側近ではなく、中学時代からの友人として目の前にいる直之は、静かに食事を続ける秀一郎にそれとなく、しかし厳しい目で本題をぶつけた。
「食事に誘った理由は、それか?」
秀一郎は直之を一瞥して、猪口に手を伸ばしながら平然と聞き返す。
「滝君から聞いたのか。」
直之は咀嚼しながら2・3度頷く。
「あぁ。」
秀一郎は日本酒を煽り、タイミング良く直之が秀一郎の猪口へ酒を注ぐ。
「本人からの希望だ。あいつは自分の事もちゃんと出来るから、別に問題ないだろう。信用してるんだよ。」
「こっちからは丸投げにしか見えないぞ。」
直之は鋭い口調で間髪入れずに反論する。
5年前の冬に、由季は病気で亡くなった。佳音が中学校に上がる少し前の事だ。それなのに秀一郎は家政婦も雇わず、いつも通り仕事をしていた。そのため、大人しい性格の佳音は家事諸々を1人でこなした。『出来る』ではなく『出来ざるを得なかった』のだ。
秀一郎は猪口を置くと、直之の台詞が聞こえなかったように「……まぁ」と話を続けた。
「必要な家具や欲しい物は全て買ってやったし、生活費も今まで通り払う。それに、時々遊びに行く友達の家の近くに引っ越したらしいから、寂しくもないだろう。お前が心配しすぎなんだよ。」
心配とは、恐らく滝をボディーガードにつけている事を言っているのだろう。もちろん、直之は滝に申し訳ないと思っている。本来ならば、滝が進学するべき高校はもう少しレベルの高い所のはずだったし、射撃部もあった。しかし、直之が佳音を気にかけているのを知ってか知らずか、滝は今の高校に進学する事を選んだ。理由を聞いたら不機嫌そうに「受かりそうだから」とこぼしただけだ。
「誘拐でもされたらどうする。佳音ちゃんだって、世間的に見れば立派な『お嬢様』だ。」
「そう見えないように、送り迎えもせず、家政婦も雇わず、無駄に俺の金に頼らないように小遣い制にしてるんじゃないか。それに──。」
「情報なんてどこから流れるか分からないぞ。」
直之はぴしゃりと釘を刺す。過去にリストラした社員だっているし、取引先とのトラブルだってあった。彼らの恨みを買って報復されないとも限らない。また、金目的の誘拐が無いとも言いきれない。
けど直之は、秀一郎に確信にも似た諦めのようなものを感じていた。
(まぁ……動じないんだろうなぁ、こいつは。)
「……お前は、親には向かないよな。」
「…………。」
そんなのとっくに分かってる、とでも言いたげに秀一郎は直之を一瞥して食事を続けた。
会社で、秀一郎に子供がいる事を知っているのは直之だけだ。秀一郎は会社から、5年前に妻を亡くした独り身だと思われている。恐らくそれも、トラブル防止の為だろう。
直之は悲しそうにふっと笑う。
「そういえば、会社で佳音ちゃんの話をした時減給処分にされかけたな。あの時のお前の形相すごかったぞ?般若みたいで。」
懐かしそうに話した直之だったが、急に真剣な面持ちになり秀一郎を見た。
「…………佳音ちゃんが卒業したら、自分の会社に入れるか?」
「何故入れる必要がある。まぁ、あいつが働きたいんだったら採用試験を受けて入ればいい。」
何食わぬ顔で言い放つ秀一郎を、直之は悲しそうな目で見た。
「──由季さんの事、愛してるか?」
秀一郎は咀嚼を止めると大きなため息をつき、箸を置いた。
「どいつもこいつも、何故その質問をするんだろうな。」
佳音にも言われたよ、と秀一郎は呆れたように首を竦める。
「そりゃあ、するだろう。お前が命日に休み取ってる記憶が俺にもない。」
直之は静かな口調で続けた。
「由季さんとお見合いで結婚したからか?随分と娘に無関心だな。」
「無関心じゃあないさ。ただ、子供は少し放っておくくらいが育つだろう。放任主義なんだよ。」
「お前のは『放任主義』じゃなくて『放置』だ。」
直之は静かな口調に怒気を滲ませる。滝と同じ怒り方だ。が、ふと直之は何かを思い出したように「すまん」と謝る。
「台詞を途中で遮ってしまったな。」
「ん?あー……。」
何の話だったか、と秀一郎は日本酒を煽りながら脳内で会話を巻き戻す。
「『佳音ちゃんをお嬢様に見えないようにするために、送り迎えも家政婦も雇わない』って話だ。『それに』って続けてただろう?」
「あぁ……。」
秀一郎は思い出したように納得をし、赤べこのように首を振る。
「あいつは、休みの日に由季に教えてもらったピアノを弾いていてな。きっと、由季と同じで『物』よりも『技術』に惚れ込むタイプなんだろう。金に執着していない。その点が1番有難い所だ。今回だって、家具の他に欲しがった物が電子ピアノとヘッドフォンだけだからな。」
「安上がりだな……。」
直之は佳音の無欲さにやるせなくなる。
服も家具も、佳音はブランドよりも実用性を重視する。何より、彼女自身ブランド物に興味がないのだ。ただ、知らない所でいつの間にか物事を始め、いつの間にかスキルを身につけている。
(お前に1番似たのは、その奔放さか……。)
他の親子よりも一緒にいる時間は少ないはずなのに、そういう所が遺伝なのだろう。
ふと、直之は首をかしげた。
「……というか、どこで弾いてるんだ?家にピアノなんてあったか?」
あんな娘の存在を消しているような家で、佳音がピアノなど弾くはずがない。その質問に、秀一郎は「あるにはある」と答えた。
「けど、家のピアノは使ってないな。」
顎に手を当て記憶を振り返る秀一郎に、そりゃあそうだろう、と直之は即座に思った。
「じゃあ、どこで?」
「由季が音大だった時の知り合いに、音楽教室をやっている人がいてな。そこで弾かせてもらってるって言ってたか。──確か、由季が入院していた病院の近くだったな。」
秀一郎はわずかに目を細める。
佳音が休日に何をしているのか、一応は知っているらしい。完全に無関心だと思っていた直之にとっては、ちょっとした驚きだった。
そして、自分の知らない所で佳音にも繋がりがあり、頼れる相手がちゃんといる。当たり前ではあるが、その事に直之は少し安堵した。だが、どうしても一抹の不安を拭いきれない。
(いつの間にか、いなくなっていそうな気がするんだよなぁ……。)
もちろん根拠などないし、直之の感覚的な不安にすぎない。そんな事を口にしたら、秀一郎はまた『心配しすぎ』と酒でも煽るだろう。しかし直之からしてみれば、誰かが気を配ってやらねば、佳音がいなくなった事に誰も気付かないような気がしてならないのだ。
(こいつが、もう少し親らしくしてくれればなぁ……。)
直之は、考えてもどうしようもない事を考えながら黙々と箸を進めた。
久々に登場しました、父親たち。秀一郎のは、本当に「信頼」と言えるんですかね……。