新生活
ぽつぽつと雨が降ってきた。
佳音は公園の長椅子に腰掛けたまま、身動ぎ1つせず雨にうたれている。俯き、未だに気味の悪い笑みを浮かべたままだ。
「──寒い。」
ずぶ濡れになり体が冷えてきた。このままでは風邪を引いてしまう。分かってはいるが、佳音はどうしても動く気分になれなかった。
先ほどの滝の言葉が、何度も脳内を巡る。
『いっそ俺の前から消えてもらった方が有難い。』
(『いっそ』……か。それも良いかもしれない。)
佳音は両手で顔を覆う。しばらくそのままでいると、どこか吹っ切れたように思いっきり顔を上げる。
(帰ろう。もう風邪なんか引けない。)
心の中で明るく呟き、ゆるゆると動き出した。
(このケーキ、貴子さんとか好きじゃなかったか?)
そんなずれた事を考えながら、緩慢な動きで紙袋を拾い上げる。
「……戻りました。」
足音もなくリビングに入った佳音は、ソファに座る秀一郎に消え入りそうな声で「伝えてきました」と報告する。
「そうか。……まぁ、明日から頑張れよ。」
(それだけか。)
佳音は無感情に思う。
ふと、サイドボードの上に飾られている写真が佳音の目に入る。黒髪を肩の辺りで切り揃えた女性が、グランドピアノを弾きながら微笑んでいる。
「……お母さんの……写真を1つ持っていっても──。」
「あぁ、構わない。」
佳音が言い終わらないうちに、秀一郎は答える。
佳音は、近くにあった母・由季の遺影を手に取る。
「1つ、聞いてもいいですか?」
「何だ?」
佳音は由季の写真を見たまま、問いかける。
「お母さんの事……本当に愛してます?」
「あぁ。愛している。」
「今でも?」
「今でも。」
当然のように答える秀一郎を、佳音はちらりと見る。
「…………そうですか。」
佳音はそれだけ答えると、写真を持ったまま自分の部屋へ音もなく向かう。
(嘘つき。)
それが本音だった。
去年の命日も、今年の命日も墓参りになんて行っていない。それどころか、話題の端にすら上っていないのだ。
(女を連れ込む時間はあって、妻に線香をあげる時間はない、か。笑えるな。)
佳音は蔑んだような笑みを浮かべながら部屋に入る。室内にほとんど物はなく、必要最低限の佳音の手荷物だけだ。
(17年間住んだこの部屋とも、お別れか。)
そう思うと少し寂しくなる。だが、明日から自由な空間を持てると思うと、そちらへの期待の方が大きかった。
寝間着に着替え、少し勢いよくベッドに潜り込む。しかし何故か、その直後に溢れ出たのは涙と嗚咽だった。
翌朝。
空が白み始めた時間帯に、佳音はマンションを出た。始発のバスに乗るためだ。本人も早すぎるとは思っているが、日中に出発して、滝に出くわす事は何としても避けたい。
佳音は寝間着や日用品の入った鞄を持ってバス停へ向かう。
その姿を、寝付けずにずっと携帯をいじっていた滝はカーテンの隙間から偶然目撃した。
(そこら辺で1人でくたばってろ!!)
滝は恨めしげに佳音を睨む。
嫌なものでも見てしまったかのように、滝は壁を向いて横になる。が、眠れない。
(来週から学校か。課題はほとんど終わったし、残ってるのは数学が少しだけだからな。明日、というか今日で全部終わるだろ。つーか、亮介いつから学校だよ?バイトも部活もやってねぇのに、あれだけ終わってねぇのもすげぇな。いや、ぎりぎりまで残すのであれば、佳音も同じ──。)
佳音を思い出した瞬間、滝は無性に腹が立ち、壁を思いきっり蹴った。
「痛ってぇ……。」
来週から重荷が外れるはずなのに、こんなに苛立つのは何故だろう。その理由が分からない事にさらに苛立つという悪循環に、滝は陥っていた。
「……コンビニでも行くかな。」
携帯を弄る事にもいい加減飽きたし、外の空気でも吸って気分転換したい。
そう思い立ち、滝は洗面所へと向かう。顔を洗って鏡を見ると、映ったのは憔悴したような自分の表情だった。洗面台の淵に両手をつき、俯いて盛大なため息をつく。
(何してんだろうな、俺。)
顔の水滴が涙のように流れ落ちる。水滴が洗面台の中に落ちたのを見て我に返った滝は、気を取り直してタオルで顔を拭いた。
コンビニから帰ってきて、貴子から「あんた朝壁蹴ったでしょ!?」という怒号をもらうのは、1時間後の事だ。
「お邪魔するよー?生きてる?」
「生きてるさ、そりゃあ。」
からりとした暑さの中、扇風機の風と音のみの穏やかだった部屋に夏希のよく通る声が響く。夏希の台詞に「失礼な」と文句は言うが、声のトーンで茶化しだと分かっているため佳音も本気では怒っていない。
段ボールから衣類を出していた佳音は、夏希の持っていたお菓子の入ったコンビニ袋を見て手を止める。夏希はニッと笑ってそれを顔の高さまで持ち上げた。
「10時の休憩にしない?」
「もう20分は過ぎてるぞ。」
「細かい事気にしないの、長門。」
「ふざけんな、さり気に重い方持たせやがって。」
あとから入ってきた長門は、500mlペットボトルが6本程入ったコンビニ袋を手にしている。
(使われてるなぁ……。)
佳音はしんみりと思う。
「すまない、ありがとう。テーブル……。」
佳音はテーブルを出そうと腰を浮かす。
「あー良いって。段ボールの上に適当に置いとくから。」
「この部屋の主はお前じゃねぇだろ。」
長門がすかさずツッコミを入れる。
「あー、それで構わないなら、私は別に。」
「良いのかよ。」
「長門君は、それでも良いかな?」
「俺も別に、気にしないけど。」
佳音は段ボールの上に風呂敷をかけ、夏希と長門がそこに買ってきたものを広げる。
「どう?進んでる?」
「まぁ、少しずつ……。」
スポーツドリンクを口にしながら、佳音は他所に比べてそれほど多くないであろう段ボールへ目をやった。
「お母さんが『今日も夕飯うちで食べてって』だって。6時頃に迎えに来るから。」
「いや、申し訳ない──。」
「食べに来な?」
コンビニで会った時のように、夏希は笑顔に威圧感を込める。
「笑顔で脅すなよ。ま、今更遠慮なんかしなくて良いって。何回も泊まりに来てんだから。」
「まぁ、そうだけど……。」
佳音はまだ遠慮したように曖昧な返事をする。『親しき仲にも礼儀あり』とはいうが、佳音の場合、礼に過ぎて常に一線を引いているように捉えられてしまうのだ。
「そうやって、いつまでも遠慮なんかしてるから、相手は壁造られてると思っちゃうんだよ?」
夏希はポテトチップスを手にしながら、口を尖らせる。
「『夕飯食べに来い』と言いながら、ここ数日泊まらせてもらってる気がするんだが。」
そのお礼で今の自分に出来るとすれば、僅かばかりでも家事を手伝う事ぐらいだろう。佳音はその程度しか返せない事に申し訳なさと惨めさを感じる。
「どうせ、何もお礼出来てないとか思ってんでしょ。大丈夫だから。『いつも茶碗洗ってもらって助かる』ってお母さん言ってたよ。」
「あー言ってた。『子供2人が手伝わないから尚更』とも。」
コーヒーを飲みながら笑顔で小言を言っていたみつきを思い出し、夏希と長門はあはは、と乾いた笑みを浮かべた。
「……つーか、本当に引越してくるとはなー。」
カラカラと笑っていた長門は、笑顔を浮かべたまま部屋を見回し率直な感想を述べる。その言葉に、佳音はピクリと反応した。何を言われるのか警戒した表情で、長門をじろりと見る。
「あ、迷惑とか悪い意味じゃなくて。」
長門は片手を上げて「ごめんごめん」と軽く謝る。
「あとで、私の物も持ってきて良い?歯磨きとか。」
「あぁ、どうぞ。」
みつきが言っていた通り、どうやら夏希は佳音の部屋に入り浸る気のようだ。何気に「俺のも」と長門も加わる。
「先生とみつきさんに、怒られないようにな。」
佳音はため息をつきながら忠告する。だが、内心1人暮らしに僅かな不安と心細さを感じていた佳音は、2人の無邪気な申し入れに有り難さと安心感を感じていた。
季節外れだが、これから佳音の新しい生活が始まる。