雨かぜ
街中にいるカップルを見かけると、楽しそうに手を繋いだり、カフェで向かい合ってお茶を飲んでいたり。俺達のような特殊な関係ではないだろうから、当たり前といえば当たり前なんだけど。
その仄かに甘い雰囲気でも、初夏の湿った空気に上乗せされ、べたついた気持ち悪さに拍車をかけた。やわらかな夕陽が、腹立たしいほど純朴にその雰囲気を助長している。
「何か飲むか?」
羨ましそうに見えていたのか、2メートル程先を歩いている少女・桧山佳音は立ち止まり、無表情のまま首だけをこちらへめぐらせていた。学校指定のベストにブラウスの腕をまくり、ウェーブがかった焦げ茶色の髪はうっすらかいた汗で首筋に張りついている。
(暑いから何か飲みたいのはお前じゃねぇの?)
そう問い返したところで彼女は本音など言わない。自分の都合に他人を合わせる事を好まないのだ。
時には、こちらが嘘をつかなければならない。
(面倒くさい女……。)
佳音に倣い少年・九条滝も足を止め、深い紫色のくせっ毛をぽりぽりと掻く。
「いや、別に。」
「そうか。」
それだけ返すと佳音は再び歩き出す。
佳音の髪が、向かい風でふわりと揺れる。
滝はその後ろ姿をぼんやりと見つめ、佳音に聞こえないように息を吐き佳音の後をついていく。
佳音は、俺の幼馴染みであり、同級生であり、桧山グループの社長令嬢である。
この面倒くさい女を守ることが、俺の役目。
ふと、佳音が足を止めた。
左側のゲームセンターを凝視している。
滝はゲームセンターをちらりと見遣ると、佳音のそばまで歩み寄った。
「やってくか?例のアレ。」
「……先に帰っててくれ。すぐに追いつくから。」
「馬鹿言うな。俺が怒られる。」
「……そうか。」
そう呟くと、佳音は名残惜しそうな目でゆっくりと歩き始める。
滝は呆れたように盛大な溜息をついた。
(ゲームセンターの中には自動販売機と休憩スペースがあったはずだ。いい加減水分を摂らせないと、脱水症状で倒れられても困る。大体、幼馴染みなのにどうしてここまで気を遣われなきゃならないんだ。俺何かしたか?)
言いたいことを全て飲み込み、滝は佳音の首根っこを掴んだ。「にぎゃっ」という猫のつぶれたような声がした。
「おい、何をする。」
「用事に付き合ってもらうだけだ。」
佳音を引きずってゲームセンターへ入っていく。
掴まれていた首根っこの手を引き剥がし、彼女はぶすくれた表情をした。
「首根っこ掴むな。」
「悪いな、腕掴んだら蹴飛ばされそうな気がしたもんで。」
「じゃあ鞄でいいだろう。」
「ひったくりに間違われそうだな。」
ゲームセンターのがちゃがちゃした音にかき消されない程度の声量で、淡々と会話をしていく。
同じ高校の制服を着た連中が、UFOキャッチャーの前で興味深げにこちらを指さしているのが視界の隅に入った。ちょっと悔しそうな表情をした奴もいる。
羨ましいか?
そう問いかけたくなるが、俺達は彼らが思っているような間柄ではない。
時々、表面上そういう関係になった方が楽なのではないかと考えてしまうこともあるが。
「聞こえているか?用事って何だ?」
一歩後ろを歩く佳音が少し声を強める。
「えっ……あぁ、ぼーっとしてた。」
しまった。連れてきたが理由を考えていない。
「……疲れたから、少し休憩、してかないか。」
滝はしどろもどろに答える。
佳音の視線がわずかに冷たくなる。
恐らく気を遣ったのを見抜かれたたのだろう。
滝は気まずそうに目をそらしたが、佳音は小さく溜息をついて「わかった」とだけ言った。
休憩スペースに3つある丸いテーブルは、どれも談笑をしている女子高生や携帯ゲームをしている子供が占領していて空きがなかった。
空いているのは、自動販売機から少し離れたところにある長椅子しかない。
「長椅子でいいか?」
佳音に問いかけると、こちらを見ずにこくりと頷いた。
飲みたいものがあったのだろう、自動販売機の右上をじっと見ている。
「何飲む?」
「……コーヒー。」
見てた方向と全然違う。
「本当は?」
「……イチゴミルク。」
佳音は視線を落とし、消え入りそうな声で答えた。
以前、クラスメイトが「桧山さんて甘いもの苦手そうだよね」と話していたことを思い出す。それが佳音の耳に入ったのだろう。
(別に、女子だろうが男子だろうがイチゴミルク飲んでいるのは変じゃねぇし、佳音が甘いもの好きなことも知ってる。そこまで他者からのイメージを守る必要ねぇだろ。)
クール、人形、一匹狼……。
高校に入学してから、佳音はそんな印象をもたれるようになった。
中学生の時は、穏やかで大人しい奴だったのに。
滝は自動販売機に小銭を入れ、イチゴミルクのボタンを押す。取り出し口から缶を拾い上げ、佳音に手渡す。
「ほらよ。」
「あ、お金……。」
「良いさ、120円くらい。」
「……ありがとうございます。」
佳音は両手で受け取り、ぼそりと礼を言う。
「何で敬語なんだ。」
距離を置いたような佳音の態度に、滝は軽い苛立ちを覚える。
「……別に、理由はない。」
「あーそうか。」
滝は1つ舌打ちをし、自分の分のブラックコーヒーを買う。
のろのろと、長椅子へと歩いていく。
「座れば?」
滝がそう佳音へ勧めると、佳音は「ん」と頷いた。
佳音は長椅子の左端に膝をそろえて座る。その上に自分の鞄を置く。イチゴミルクを両手で湯呑みのように持って静かに飲む。落ち着いた雰囲気も相まって、年寄りのようだ。
(高2……だよな?こいつ。)
訝しげな視線を向けた滝は、1人分のスペースをあけ鞄をそこへ下ろす。足を投げ出して長椅子の右側に座る。
会話もなければ、目も合わせない。
滝は背もたれに寄りかかり、ちびちびと飲む。
佳音はもう飲み終わったのか、指先で缶を弄んでいる。
「……空いた。」
佳音がぽつりと呟く。
何が、と訊こうとして佳音を横目で見た。佳音は右斜め前を見てわずかに目を輝かせていた。滝も佳音の視線の先を追う。
「……あぁ、そうだな。」
今しがた人がいなくなったばかりの2人用ガンシューティングアクションゲームを見つめ、滝は興味なさげに相槌を打った。
「やってくる。まだ休んでるか?」
「……あぁ、そうだな。」
滝は手持ちの缶コーヒーへと視線を戻し、それを飲み干す。
佳音は自動販売機の隣のゴミ箱に缶を捨てに行き、そのままシューティングゲームをやりにいく。
滝は実際に射撃をやっている。
以前2人でこのゲームをやったら、滝は100円でファイナルステージまでいった。しかし佳音は、セカンドステージでゲームオーバーした。それなのに意地を張ってファイナルステージまで進み、千円近くつぎ込んでしまったことがある。
それ以来滝はシューティングゲームをやっていない。佳音は、100円でどこまでやれるかに挑戦しているようだ。見る限りでは、相変わらずセカンドステージでゲームオーバーしているが。
的中率が50%を超えた。佳音は少しだけテンションが上がったらしく、小さくガッツポーズをしている。
滝はそれを、つまらなそうに見つめる。
「……なんか、俺よりもゲームの方があいつと仲良くなってるみたいだ。」
滝はぼそりと呟く。
呟いた後で自分自身の発言に驚き、口元を手で押さえた。
「大丈夫か?」
佳音が腰に手を当てて滝を見る。
画面には、ファーストステージが終わり、セカンドステージまでの繋ぎのショートムービーが流れている。
「具合悪いなら先帰っていいぞ。」
佳音は相変わらずの無表情で、しかし先程のテンションが残っているような、わずかに弾んだ声音でそう言った。
(50%しかいってない癖に嬉しそうにしてんな。)
滝は心の中で佳音を貶す。
「別に悪くない。つーか、ライフ残り4つしかないし、すぐ終わるだろ。」
「やかましい。」
佳音の眠たげな目が、キッと鋭さを帯びる。
集中力が切れたのか、セカンドステージで佳音が残りのライフを全て失うのには1分かからなかった。
被弾が2回、ブーメラン状の武器による遠距離攻撃が1回、そして、斧による直接攻撃が1回。
何故かはわからないが、この日の、最後の斧による攻撃が滝にはとても印象深かった。
「……くそ。」
佳音は苦々しげに悪態をついて、拳銃を置く。
滝は携帯を取り出し、時間を確認する。現在16時37分。天気予報では、夕方から雨が降ると言っていた。傘も持っていないし、そろそろ帰りたい。
「そろそろ帰るか?」
「あぁ。」
滝のところへ戻ってきた佳音は、少しぶすくれたように返事をする。セカンドステージであっさりやられたことがよほど気に食わなかったんだろう。
(面倒くさい。こういうところだけガキなんだよな。)
滝は静かに溜息をついた。
「うっわ、降ってきやがった。」
ゲームセンターを出て少し歩いた頃、ぽつぽつと雨が降ってきた。
滝はげんなりしたように雨雲を見上げ、近くのコンビニまで走る。
そのわずかな間に、雨はスコールのように激しさを増した。
コンビニに着くが、隣を見ると佳音の姿がない。
「どこ行った……。」
滝は焦ったように辺りを見回す。
もしかしたら別のところで雨宿りしているのかもしれない。そうであってもらいたい。そう思った矢先、見覚えのある女子高生がずぶ濡れになりながら歩いてきた。
予想が的中してしまった。そのことに、滝は疲れたように額を押さえる。
「お前……走るとかしろよ。」
「走るのが面倒くさい。」
佳音はにべもなく答える。
滝は少しでも気にしたことが馬鹿馬鹿しくなり、入り口へと足を向ける。
「今、傘買ってくるから待ってろよな……。」
鞄からハンカチを取り出して顔を拭いている佳音に、少しだけ凄みをきかせて言った。
でないと、ふらふらとどこかへ行きかねない。
佳音は「ん」とだけ返事をする。
「やーん濡れちゃった-。」
佳音が向かい側から聞こえた声に視線をやると、着飾った男女が困ったように笑いながらカラオケ店で雨宿りをしている。
男性が、女性の頬をハンカチで優しく拭いている。
その光景に、佳音は自分の顔を拭くてを止めた。
不意に自分が虚しい者のように感じられた。
一瞬だけ、中学生の頃の記憶が佳音の脳裏をよぎる。
クラスメイトの男子に、落としたプリントを届けた時のこと。
それを記憶から削除するように、きつく目を閉じる。
「おい、大丈夫か?」
驚いて、肩を跳ね上げる。
透明なビニール傘とコンビニ袋を提げ、隣に並んだ滝をじろりと見る。
「具合悪いのか?」
ゲームセンターで同じような会話をしたような気がする。
いや、私はあの時、半ば追い払うような言い方をした。
同じではない。
「大丈夫だ。」
佳音はいつもの無表情で返す。
いつの間にか、ハンカチを胸元できつく握りしめていた。
呼吸が、少しだけ浅い。指先が、小さく震える。
そのことに妙に苛つき、ハンカチを乱暴に鞄に突っ込んだ。
「ほら。」
滝は佳音に傘を手渡す。買ってきた傘は、2本。
「……ありがとうございます。」
「金はいらないからな。」
滝は素っ気なく言い、傘を開く。佳音もそれに倣う。佳音がついていく形で、2人して歩き出す。
向かい側にいた男女は、女性の持っていた折りたたみ傘に2人で入り、反対方向へ歩いて行った。
佳音はそれを視界の端で捉える。
自分には似合わない光景だと分かってはいる。分かってはいるが……。
無意味だと分かっていても、少しだけ懇願するような目で佳音は前を歩く男の背中を見つめた。
「じゃあな。風邪ひくなよ。」
「あぁ。」
マンションのエントランスで2人は分かれる。
15階建てのマンションの、滝は1階、佳音は15階に住んでいる。
滝の後ろ姿を横目で見遣り、佳音はエレベーターへと歩いていく。乗客のいないエレベーターに静かに乗り込む。15階のボタンを押すのを少し躊躇うが、やっぱり押す。ドアが閉まり、エレベーターが上昇していく。佳音は体から空気が抜けそうなほど、大きな溜息をつく。
今日は、誰がいるんだろう……。
考えたところで仕方がない。手早く着替えて、タイミングが合わないように家を出よう。
佳音が考えを固めたところで15階に着いた。
エレベーターのドアが開く。
乗り込んだ時と同様に、静かに、しかし緊張した足取りで家へと向かう。
エレベーターを降りて、一番手前の部屋、1501号室が自宅だ。
「……ただいま。」
佳音は消え入りそうな声で呟く。
不法侵入者なのではないかと思うほど静かにドアを開け、静かに入り、静かに閉める。
玄関には、父親の高級な革靴の隣に、踵の高い高級そうな黒のピンヒールが並んでいる。
10㎝ぐらいはあるか。
ヒールの高さを目測しながら、佳音は自分のローファーを靴箱へ入れる。
忍者のように、静かに廊下を歩く。
そっと、リビングへと顔を出す。
リビングに、父親と女性の姿はない。だが、テーブルにコルク栓の抜かれたワインが1本と、ワイングラスが2つ置いてある。
佳音は顔を引きつらせ、つきそうになった盛大な溜息を飲み込む。自室へと足音を立てずに向かう。
佳音の部屋の手前には父親の私室がある。
佳音は聴覚をシャットアウトすることに神経を集中させながら、気配を殺して廊下を歩く。
父親の部屋の中から、女性の小さな声が聞こえた。
佳音は体を強張らせる。
聞こえた途端、早く自室に入りたいのに、足裏に根が生えたように動けなくなってしまった。
女性の快楽に溺れた声が、段々大きくなってくる。甘く生々しい声音が聞きたくないのに耳に入ってくる。
体の底からぞわぞわと嫌悪感が這い上がってきて、上手く動けない。
今すぐ自分を抱きしめたいが、耳も塞ぎたい。自室に駆け込みたい。だが、音を立ててはいけない。
佳音は、細くゆっくりと息を吐き、音を立てないよう慎重に足裏を廊下から引きはがすことに全神経を集中させる。
まずは、1歩。
同じようにして、2歩。
すぐにでもドアノブを掴みたくなる衝動を抑えて、3歩。
4歩目で、自室の前に立つ。
玄関の時と同様に、静かにドアを開け、中に入り、ドアを閉める。
音を立てないよう静かに座り、詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
この状況が、大体1週間に1回はある。
自分の家なのに、本当に不法侵入者になったような気分だ。
佳音は口を半開きにしたまま、ベッド脇のデジタル時計を見る。
現在17時01分。
空手の稽古は18時から20時まで。
今から着替えて道場に行ったとしても、30分ほど時間があく。
でも、家にいたくない。
頭が少しくらくらして、『風邪ひくなよ』という滝の声が甦る。
(風邪なんかひくか。)
佳音は心の中で滝の台詞を一蹴する。のろのろとジャージに着替え、少し厚着をし、脱いだ制服をハンガーに掛ける。
道着と貴重品、学校の課題を黒いエナメルバックに入れ、音を立てないように静かに部屋を出る。
父親の部屋からは、談笑の声がわずかに聞こえた。
静かに、静かに廊下とリビングを通り、玄関までたどり着く。
靴箱から、スニーカーを取り出す。
それを手に持ったまま、そろりと家を出る。
玄関で履いて、万が一踏みしめる音が出てしまったら、これまでの苦労が水の泡だ。
玄関に残った雨水を踏んでしまい、わずかに靴下が濡れた。
靴下の生地が雨水を吸い込む感覚に、佳音は顔を顰める。
「…………あ。」
そっと玄関を閉じてスニーカーを下ろした瞬間に、透明なビニール傘のことを思い出した。
小雨になっていて個人的に傘は必要ないように感じられるが、あのビニール傘は出来れば他人に使われたくない。
佳音はドアノブに手をかける。
だが、地に足が着いていないような感覚に、佳音はドアを開けるのを躊躇う。
今の状態で、音を立てずに傘を取りに行く自信がない。
佳音は唇を軽く噛んでドアノブから手を離し、ゆっくりとエレベーターへと歩き出した。
雨が少し強くなってきた。
傘もないので、そのまま雨にうたれていると、隣にいたおばあさんが傘に入れてくれた。バスが来るまで世間話をする。
時刻表より数分遅れて、バスが来た。おばあさんに礼を言ってのろのろと乗り、バスカードを通して1番後ろの席に座る。
あまり人が乗っていないため、エナメルバックを自分の隣に置いて、席を2人分使う。
流れていく景色を、ぼんやりと眺める。
「次は『高柳』です。お降りのお客様はボタンを押して、お知らせ願います。」
バスのアナウンスで佳音は我に返る。
降車ボタンを見上げる。腕を伸ばそうとしたとき、ボタンが赤く光った。
(……腕を伸ばすことすら面倒くさいって、どんだけ面倒くさがりなんだ自分。)
佳音は心の中で自分自身に文句をつける。
エナメルバックを肩にかけ、ゆっくりと移動する。
バスカードを通し、バスを降りる。
雨は再び小雨になっていた。
「よっ。」
近くのコンビニに入ろうとしたところで、突然後頭部を小突かれた。
驚いて、くらくらする頭を思いっきり振り向かせる。
「……夏希。」
高村夏希。高校は違うが同い年で、彼女の父親が佳音の通う空手道場の師範をしている。
高い位置で括られた癖のない茶髪にはわずかに雨粒がついており、蛍光灯の光を反射してきらきらと輝いていた。いつも他人をからかう勝ち気な飴色の双眸が訝しげにこちらに向けられている。
「あんた大丈夫?バスにいたときから顔白いんだけど。」
ずけずけとした物言いが、取り繕うことを拒否しているようだった。
「……わかんない。でも、まだ動けるから多分大丈夫。」
「ふーん。」
夏希は佳音の額に手を当てる。
「うわ、熱。無理っしょ。お父さんにはあたしから言っとくから帰りな。……て、あの家じゃ無理か。」
夏希は「うーん」と頭をひねる。
佳音は意識が朦朧として、考えることすらままならない。
何を思いついたのか、夏希はセーラー服から携帯を取り出し電話をかけ始める。
「あ、お母さん?今、佳音と一緒に高柳のコンビニにいるんだけどさ、こいつ熱高いんだわ。家連れてっても大丈夫?」
どこか他人事のように聞いていた佳音は、わずかに首をかしげた。
『家連れてっても大丈夫?』
夏希が「じゃあねー」と電話を切って、朗らかな笑顔を佳音に向ける。
「大丈夫だって。あたしんちで休んでな。」
「いや、申し訳ない……。」
「休んでな?」
「……はい。」
夏希は笑顔に威圧感を込める。
萎縮したように了承した佳音だが、正直、夏希の申し入れはありがたかった。
家にも帰りたくなかったし、病院の受付時間もとっくに過ぎている。頼れる友人も、夏希以外にいない。
熱に浮かされ、ふわふわとした足取りで佳音は夏希の後をついていった。
バス停から歩いて5分。
暗闇で見えづらくなっているが、菜の花色の外壁で2階建ての一軒家が高村家だ。
稽古が終わっても家に帰りたくない(大抵、女性が家に来ている)とき、たまにお邪魔させてもらっている。
「ただいま-。」
夏希がドアを開けるなり、ポメラニアンのナナがものすごい勢いで走ってきた。玄関の段差の前で、急ブレーキをかける。
夏希は千切れんばかりに尻尾をふるナナを抱き上げる。
「ナナーただいま-。」
「おかえり。佳音ちゃん、大丈夫?」
「お邪魔します……。」
エプロン姿の夏希の母、みつきが心配そうな表情で出てきた。
佳音はぼんやりした表情で、小さく頭を下げる。
夏希は靴を脱ぎ捨て、ナナをリビングへ入れてドアを閉める。
右側の磨りガラスのドアから、ナナのシルエットと甲高い鳴き声が聞こえる。
きっちり靴を揃えて置く佳音を、みつきは左側の和室へと案内した。既に布団が敷かれている。
「ご迷惑おかけします……。」
「いいのよ。今お水持ってくるから横になっててね。」
みつきは、ぱたぱたとリビングへ入っていく。
リビングのドアが開いた際、脱走して和室へ走ってこようとするナナを夏希が押し戻して、再びドアを閉める。
枕元に用意してあったティッシュ箱とゴミ箱の隣にエナメルバックを置いて、佳音は布団へと潜り込んだ。
夏希が和室へ顔を向け、布団に入った佳音を見る。
「じゃ、あたし着替えてくるから。ちゃんと寝てなよー。」
「おー……。」
軽く笑って2階へ上がっていく夏希に、佳音はか細い声で返事をする。
(私のせいで空手休むとかしないよな?だとしたら申し訳ない……。)
そんなことを考えていると、みつきが盆に水と体温計を持って戻ってきた。布団のそばに静かに両膝をついて盆を置く。
ガラス戸が閉められる瞬間、自分専用の器の前でおすわりしているナナの後ろ姿が見えた。おやつでも入っているのだろうか。
「お粥はもう少しで出来るんだけど、食べれそう?」
「……はい。」
佳音はゆっくりと頷く。
これが普通の家庭の受け答えなんだろうが、自分の家庭にはない言動で、どう返したらいいのか分からない。
「熱を測ってもらいたいんだけど、起きれる?」
「はい……。」
佳音はゆっくりと上体を起こす。みつきから体温計を受け取り、脇にはさむ。
そのままぼんやりとしていると、玄関のドアを開く音がした。
「ただいま-。」
「おかえり長門。」
「……お邪魔してます。」
「うん……あ。びっくりした。姉ちゃんが風邪ひいたのかと思った。」
夏希の1歳下の弟、長門。今年、地元で1番偏差値の高い高校に入学した。確か、高校の偏差値は70といっただろうか。顔かたちは母親似だが、小豆色の髪の毛は父親譲りだ。
長門はそのまま2階へと上がっていく。
「すぐにご飯出来るからねー。降りてきなさいよ-。」
みつきは四つん這いになって入り口から叫ぶ。
長門の「あーい」という気の抜けた返事が聞こえてくる。
返事と同じタイミングで、ピピッと体温計が鳴った。
「どうだった?」
みつきが心配そうににじり寄る。
「……38度3分、です。」
熱に浮かされたからなのか、高村家に溶け込みそうになってしまったからのか、敬語を忘れそうになった。
「高いわね。氷枕に替えましょうか。ちょっと待っててね。」
みつきはそう言い和室を出る。
閉められた引き戸を見つめ、佳音は再び布団へ潜り込んだ。満月のようなのっぺりとした蛍光灯をぼんやりと見つめる。
電球の色は自宅と同じくらいの明るさなのに、感じるぬくもりがまるで違うのはなぜだろうか。
自宅は、ぬくもりとはほど遠い、小さな失敗も許されないような緊張感がある。蛍光灯の光にすら監視されているような、鋭さを感じてしまう。
対して高村家は、緩やかな空気が流れており、この家の外壁と同じ温もりを感じる。黄色のよく似合う家庭だと思う。
高村家の温かさに緩んで瞼を閉じかけたとき、佳音の携帯が鳴った。
のろのろと這いずって、エナメルバックから携帯を取り出す。
着信は『九条滝』。
名前を見た瞬間に頭から血の気が引いた。携帯を持つ手に力が入り、心拍数が一気に上がる。
雨宿りのときに甦った中学時代の記憶が、再び脳裏をよぎる。
「…………しっ……んでほしいんじゃないの。構うな。」
佳音は唸るような低音で呟く。
10回ほど呼び出し音が鳴り、切れた。あえて電話に出なかった罪悪感はあるが、佳音は電話が切れたことに安堵する。
重い気分で携帯を見つめていると、コンコン、と軽快なノックの音が部屋に響いた。
「入るよ-。」
氷枕を小脇に抱え、盆にお粥と薬を持ってきた夏希が朗らかな声でドアを開ける。
「ちょっと。病人が携帯いじってて良いの?」
夏希は呆れたように佳音を見た。今の佳音は、布団から上半身を出して両肘をつき、携帯の画面を見ている状態だ。携帯をいじっていると勘違いされても仕方がない。
「いや、電話がきただけ……。」
佳音は急いで首を横に振る。
「分かってるよ。お粥、枕元に置いとくからねー。あと氷枕に替えてくから。」
「……ありがとう。」
夏希はカラカラと笑いながら片膝をつき、お粥の入った土鍋と薬を盆ごと置いて、枕を差し替えていく。
佳音はちらりと、湯気の上がるお粥を見た。
「もう少ししてから、食べても良い?」
夏希もお粥へと視線を注ぎ、納得したように頷く。
「あんた猫舌だもんね。どうぞ。」
夏希は先程と同じように笑いながら席を立った。
「ごゆっくりー。」
夏希はひらひらと手を振り、部屋を出て行く。
佳音はそれを見送ると、携帯を握りしめたまま氷枕へ頭を沈めた。
佳音は再び、ぼんやりと蛍光灯を見つめる。わずかに泣きそうな表情で目を瞑った。
「出ねぇ……。」
滝は切った携帯の画面を見つめ、舌打ちをする。
苛立たしげに、ソファで缶ビールを煽る父・直之に問いかけた。
「なぁ父さん、なんでそんなにあいつの事気にすんの?」
直之はきょとんとした表情で滝を見る。
「別にあいつが体調崩そうが何しようが俺には関係ねぇし。つーか、昼間あいつがずぶ濡れになったのも自己責任じゃねぇか。何で俺らが気にしねぇといけねぇんだよ。あいつの家にも父親いるだろ。」
「秀一郎に人を育てることは出来ないよ。」
直之は静かに溜め息をついた。
「会社の社長なのに?」
滝は尚も口を尖らせる。
「ああ。あいつはカリスマ性はあっても教育者にはなれない。仕事じゃやり手だけど、プライベートだととんでもなく目移りが多いんだ。」
直之は缶ビールを飲み干す。
「きっと、娘の看病より自分の快楽を優先する。それに、佳音ちゃんだって自分の意思を言うタイプじゃないだろう?」
「言わなすぎて苛つくんだけど。」
鋭い口調で言う滝に、直之は苦笑する。
「……で、佳音ちゃん大丈夫だったか?」
滝は直之から視線を逸らして少し間を置くと、ぼそりと呟いた。
「……出なかった。」
「電話に?」
「そう。」
滝の顔には『面倒な事に巻き込まれたくない』と、ありありと書いてある。
直之はそんな滝の態度を見て、申し訳なさそうに顔の前で手を立てた。
「悪いんだけど、もう1回電話かけて、出なかったら様子見に行ってきてくれないか?」
滝はげんなりしたように直之を見る。
「…………わかった。」
滝は渋々電話をかけ直す。
またしても、出ない。
(シカトしてんじゃねぇだろうなっ!?あいつ!!)
滝は心の中で怒鳴り、携帯の画面を睨みつけた。
滝は直之をちらりと見る。目が合うと、直之が眉尻を下げて笑った。
「じゃ、頼む。」
「……りょーかい。」
滝はソファから腰を上げる。
台詞も動作も面倒くさそうだ。
「あ、ついでにコンビニで牛乳買ってきて!」
という母・貴子の声に乱暴に「はぁーい!」と返事をした。
ピンポーン──。
桧山家のチャイムを鳴らすが、誰も出てこない。
もう1度チャイムを鳴らす。やはり誰も出てこない。
(留守か?)
滝が帰ろうとエレベーターへ足を向けたとき、玄関のドアが開いた。
出てきたのは、白いスーツを着た妖艶な女性だった。
滝は思わず凝視してしまう。
(大人の色気っていうのかな……。)
ぼんやりとそう思っていると、女性が怪訝そうに問いかけた。
「あの…………何か?」
「あ、いえ。桧山さん、いらっしゃいますか?」
はっとして滝が言うと、女性の後ろから見目の良い初老の男が現れた。
「おや、滝君。どうしたんだ?」
男・桧山秀一郎は上半身裸で首にタオルをかけている。
秀一郎は未だ怪訝そうにしている女性に軽い紹介をした。
「ああ、友人の息子なんだ。」
「そうなの。」
女性は警戒心を解いたように、けれども興味なさげに言った。
(性格悪そう……。)
「ごちそうさま。ワイン美味しかったわ。今度お店でサービスするわね。」
「ああ。楽しみにしてるよ。気をつけてね。」
女性はヒールの音を立てて帰っていく。2人はそれを見送ると、目を合わせた。
秀一郎は滝に、玄関に入るように促す。滝はそれに従い、後ろ手でドアを閉めた。
「あの……佳音、いますか?」
滝はおずおずと切り出す。
秀一郎の目がスッと冷たくなる。
「いや、まだ帰っていないみたいだよ。」
滝は目を丸くする。
「悪いんだけど、女性の前では娘がいることを隠しているんだ。せめて、木曜日は来ないでもらえないかな?」
滝は絶句する。佳音が帰っていない事にもだが、1番は秀一郎の台詞にだ。
『秀一郎に人を育てることは出来ないよ。』
先程の直之の言葉が蘇る。
「じゃあ、あいつが今どこにいるか、知りませんか?」
「さぁね。空手の稽古にでも行ってるんじゃないか?」
「そんなのいつの間に!」
滝も空手をやっているが、道場で佳音の姿を見たことはない。
「確か3年くらい前かな?他校の友人が、親子揃ってやっているらしくてね。父親が師範だと言っていたよ。」
「3年……。」
滝は隠し事をされていたような気分になり、拳を握りしめる。
「もう、良いかな?」
秀一郎は寒そうに自分を抱きしめ、体を震わせている。
「あ、はい。ありがとうございました。」
滝は軽く頭を下げてドアを開ける。雨は再び土砂降りになっていた。
ふと、靴箱に立てかけてある透明なビニール傘が目に入る。
「お邪魔しました。」
滝はもう1度軽く頭を下げ、ドアを閉める。秀一郎が小さく手を振っていた。
(どこかでぶっ倒れてねぇといいけどな。)
滝は歩きながら、雨空を見つめる。
佳音が帰ってきていない。そんな報告を直之にしなければいけないことに、気が滅入った。
「あ、牛乳。」
この雨の中コンビニまで出歩かなければいけない。その事がさらに気を滅入らせた。