優しいのは元からだよ
「え、なんだって?」
お兄ちゃんが電話口にそう言った。ほかの人と話している中では饒舌な方だな、なんてのんびり考えていた。
すっかりこの世界の生活に馴染んでいたあたしは、今や見知らぬものなどほとんどない。初めて電話を見たときは興奮したけれども、今ではアプリのゲームくらいでしか驚かない。猫を集めるゲーム面白い。
「まあ、構わないが……ちょっとな。いや、不都合なわけじゃなくて。少し待ってろ」
電話のマイクを押さえて、お兄ちゃんはあたしを見る。手に持っていたコップに向けていた視線を上げると、お兄ちゃんは言った。
「なあ、ちょっと知り合いがこっちに来たいって言ってるんだけど……」
「お友達?」
「いや、ちょっと前に勉強を教えてただけだ。久しぶりに会いたいらしいんだが」
お兄ちゃんが口を濁らせる。ああ、そうか、あたしに遠慮してるのかな。もう、あたしたちの間にそんなのいらないのに、失礼しちゃうなあ。
「リーアに会わせたいんだけど、いいか?」
「へ?」
その予想外の言葉に、あたしはびっくりして口をポカンと開けてしまった。
* * *
「先生! お久しぶりです!」
そう言って頭を下げたのは、少し背の高い男の子だ。お兄ちゃんよりちょっと高いくらいかな。とても礼儀正しい子だった。でも顔には幼さが残ってて、あたしよりも年下なのかな。
場所はファミレス、っていういろんなお料理を出すお店の前だ。往来の人たちはまるでバラバラの組み合わせの私たちを見てる。
それにしても先生って何のことだろう。お兄ちゃんは学生だったはずだけど。
「おう、久しぶりだな」
「そちらの方がもしかして?」
男の子は興味津々といった様子で私の方を見ている。ちょっと手を振って、お兄ちゃんの後ろに隠れる。
「自己紹介は後。とりあえず、中に入ろうぜ」
私たちが中に入ると店員さんに四人席に案内される。渡されたメニューを開くと、前に来た時もそうだったけどかなり迷って目が回ってしまう。
「リーア、紹介する。こいつは条坂礼。前に俺が家庭教師してたときの生徒だ」
「かていきょうし?」
「家まで行って勉強を教える仕事だ。帰国子女……違う国から来て、この国の言葉が上手く使えなくてな」
「言い方が酷いですよ〜」
レイくんはちょっとふくれっ面になる。悪い悪い、とお兄ちゃんはちょっと笑った。
「紹介に預かりました、条坂礼です。年齢は十四で、アメリカからこちらに引っ越したときに、先生……真城さんにお世話になりました。よろしくお願いします」
あたしはお兄ちゃんの方をチラッと見た。さあ、君の番だと、そう目で言っていた。
「リーア、です。お兄ちゃんの家でお世話になってます。よろしくお願いします」
「はい!」
元気のいい挨拶。レイくんはとてもいい子なんだろうなってことはよく伝わって来る。
「リーアさんはどちらの出身なんですか? 僕はアメリカの西海岸なんですけど」
「え、えっと」
アメリカの西海岸……ってどこらへんだったっけ。アメリカがあるのは右左のどっち? あれれ?
「リーアは北欧の出身でな。そっちの知り合いはいるか?」
困っていると、お兄ちゃんがすかさずら助けに入ってくれる。ところで北欧ってどこだろう。
「いませんね……先生、顔広いんですね。北欧の方にも知り合いがいるなんて。中国とかにもいるとは聞いてましたけど」
「ん、まあな。注文は決めたか?」
そう言って、お兄ちゃんはメニューを指差した。忘れてた、と思って慌ててメニューを見ると、レイくんも同じように慌てて決めてるみたいだった。
うん、迷った時はハンバーグにしよう。
注文をして、ドリンクバーから飲み物も取ってくる。今日はこうやってずっと喋るつもりらしい。レイくんはニコニコとした笑顔を浮かべている。
「でもびっくりしましたよ。リーアさんとはどういう関係なんですか?」
「どうって」
「お兄ちゃんだよ」
あたしは端的にそう言った。ただ、レイくんはそういったことを聞きたかったのではないみたいだ。
「二人が兄妹みたいな関係だっていうのは、見てればわかりますよ。そうじゃなくて、どういう縁で知り合ったのかなと」
「まあ、父親の関係だ。仕事で知り合った人でな、その息子なら娘も預けられると。……不用心だとは思うが」
ちょっとだけ笑って、お兄ちゃんは言った。その理由はちょっと無理があるんじゃないかな、とは思う。あたしの故郷では、それを「人質」とか「婚約」って言うのだ。
はっ、まさかあたしはお兄ちゃんの人質で婚約者なのでは!?
なんて考えてたらお兄ちゃんに肘で突かれた。おバカな考えが顔に出てたかな。
「あ、そうなんですか。すごいですね!」
それでいいんだ……。
「そんなこんなで、面倒見て、お兄ちゃんやってるってわけだ」
「先生、他のみんなにも、お兄さんのように思われてるんじゃないですか」
「そうかな。わからないけど」
肩を竦めるお兄ちゃん。
思えば、お兄ちゃんの昔の話を聞くのって珍しいような気がする。お兄ちゃんの知り合いは、いままでそんなに会ったことない。
そんなこんなで、食事を済ませる。それからはただグダグダと、あたしたちの日常や、レイくんの近況を話し合ってた。
「ちょっと手洗い行ってくる」
そう言ってお兄ちゃんは立ち上がった。二人きりになったテーブル。ちょっとだけ気まずい雰囲気。
「先生、ちょっと変わったな」
「え?」
「なんか、優しく笑うようになった」
それは、なんとなくわかう気がする。お兄ちゃんはあたしと会ったばかりのときより、ずっと優しく笑うようになった。人と目を合わせると、自然と笑うようにもなったし、言葉も丸くなった気がする。
「でも、優しいのは元からだよ」
そう言うと、レイくんはちょっと驚いた顔をして、でも「そうだね」って言った。
「リーアさんのおかげかな」
「あたしの?」
そんなことはないと思う。あたしは何もしてないんだもん。お兄ちゃんが変わったなら、それはお兄ちゃんの選択だろう。
でも、ちょっとだけ気になる。お兄ちゃんはどうして、いままでそんなに明るくなかったのだろう。どうして明るくなったのだろう。
それはどうしてか、知りたいなって思ってしまった。
「わわ、そんな顔しないでください! ほら、この猫の画像でも見て!」
レイくんはそう言うと、スマートフォンで猫の画像を見せてきた。その必死な姿がちょっと面白くて、少しだけ笑ってしまった。
「おい、なにリーア泣かせてるんだ」
そこにお兄ちゃんが帰ってくる。
「泣かせてませんよ!」
「冗談だ。真に受けるなよ」
口元でだけ笑って、お兄ちゃんは座った。
そして、お兄ちゃんはレイくんのスマートフォンの画面を見る。
「猫か」
その言葉に、ちょっとだけ違うニュアンスがあったような気がしたけど、あたしはそれを聞く勇気はなかった。
* * *
そろそろレイくんが帰らないといけない時間らしい。お店を出て、駅までレイくんのお見送りをする。
「またお会いしましょう、先生、リーアさん」
レイくんは笑顔でそう言った。ああ、とお兄ちゃんは頷く。
「今度は猫カフェとかどうですか? もふもふしながらお茶会とか!」
「そ、そんなものがあるの!?」
猫と戯れながらのお茶会。いまあたしに尻尾があったら左右に振ってたところだろう。
「にゃんにゃん、ってしながら!」
「にゃんにゃん! お兄ちゃんもほら!」
「え、俺も!? にゃ、にゃんにゃん」
恥ずかしがって、言ってから顔を赤くするお兄ちゃん。それが面白くって、レイくんと顔を見合わせて笑ってしまった。
バイバイ、と手を振って別れる。レイくんの背中が電車に吸い込まれていったのを見届けて、帰ろうかとお兄ちゃんは言った。
「ねえ、どうしてレイくんと会わせたかったの?」
「そうだな」
お兄ちゃんはちょっと考える。
「リーアは、俺の古い知り合いを知らないだろ。だから、知ってほしかった、かな。俺もわからねえや」
それは照れ隠しなんだろう。あたしはにんまり笑って、お兄ちゃんの腕に飛びつく。慌てふためくお兄ちゃんは、それでも振りほどいたりはしなかった。