いいよね?
狭い部屋。あたしが普段使っている部屋の四分の一もなさそうな広さしかないけれども、目の前の男のひとはそこで暮らしているのだそう。
どうやらあたしは、道の真ん中で寝ていたらしい。それを見かねたこの人が、とりあえず自分の部屋へ運んだそうだ。
「お茶だけど……飲めるか?」
そう言って出された杯を見て、驚く。これはガラスだ。しかも、見たことないほど透き通っている。庶民の家にはまずないだろうものであることはあたしでもわかる。どうしてこんなものをこの人は持っているのだろう。
ひどく喉が渇いていたあたしは、その杯を受け取る。お茶は、あたしが知ってるお茶よりも深い色をしている。それを少し口に含むと、いままで飲んできた何にも似てない味がして、びっくりする。けれども飲みやすくて、はしたないと思いながらも一気に飲み干してしまった。
ぷはぁ、と息を吐き出すと、男の人は少し笑っていた。顔が一気に熱くなったのがわかる。
「口に合ったみたいでよかった」
そう言うと、男の人はまたお茶を注いでくれた。見たことのない容器にお茶が入っていた。ポッドにじゃないことに驚く。この人は何者なんだろうか。
あたしはお茶をまた少しだけ飲んで、一息つく。
「その、お兄ちゃん?」
お兄ちゃんと名乗った本人はそう呼ばれて、少し固まった。その顔がちょっと面白くて、笑ってしまう。
「あー、さっきは悪い。俺の名前は真城光って言うんだ、苗字がシンジョウ、名前がヒカルな」
丁寧に名乗ってくれる。小さな声で「シンジョウヒカル」と何度か唱える。けれども、どうしてか腑に落ちない。
「ええっと……ごめんなさい、お兄ちゃんの印象が強くて」
「う……いや、いいんだ。俺が悪かった。好きに呼んでくれ」
照れ臭そうな苦笑いを浮かべて、お兄ちゃんはそう言った。許可をもらったからには容赦なく呼んでいくつもりだ。
「君の名前はなんて言うんだ?」
「はい、私の名前は……」
そこまで言って、気づいた。ここには誰もいない。あたしの知っている人は、あたしを王女にする人は誰もいない。だったら、この瞬間だけでも、あたしは……。
「リーア、って名前」
立場を捨てても、いいよね?
お姫様じゃなくたって、いいよね?
あたしの気持ちは、お兄ちゃんにはわからないだろう。でもいいの。ううん、わからない方がいいの。これはあたしのわがまま。
お兄ちゃんの口が動く。
「そうか。……リーア?」
その響きが。あたしにはとても鮮烈で。思った以上に低い声が耳に響いて。
自然と頬が緩んだのだった。
「はい! お兄ちゃん!」
そう呼ぶと照れくさそうに、お兄ちゃんは首を掻いたのだった。
* * *
ここはどこなのだろう、という疑問は消えなかった。
お兄ちゃんに「どこから来たのか」って聞かれて、自分の国の名前を出したけれども、お兄ちゃんは知らないと言った。本当に不思議な、この世界すべてが載っているという地図帳を広げて見せてもらったけど、どこにもあたしの国はなかった。それどころか、あたしの知っている国もなかった。
写真という、本物をそのまま写した絵もたくさん見せてくれた。最初はその絵に驚いてばかりだったけど、冷静に見ていく。でも、そのどこにもあたしの知っている景色がない。似ている、と言えばヨーロッパというとこのりあるらしい大きなお城くらいだ。
そもそもここには、あたしの知らないものが多すぎる。どれもこれもが不思議で仕方ない。お兄ちゃんは自分のことを「普通の人」と言っていたけれど、普通の人がこんなにガラスや金属の製品を持っているものなのだろうか。ドレスは邪魔なので貸してもらった服に着替えたけど、この肌触りは自分が着てきた服でもいい部類に入る。部屋にある品々を見ても、簡素だけどしっかりとしたものが多い。これが普通、基準なのだとしたら、あたしの国なんてちっぽけだ……。
ここは違う世界なんだって、どうしてかわからないけど確信した。それに、あたしの国に伝わるおとぎ話に、違う世界から来たという話がある。あたしの大好きな話。その話が、あたしに現実を突きつけてくることになるなんて。
「そんな顔をするな」
泣きそうになっていたのだろうか。お兄ちゃんがそう言ってくれた。
「でも、でも……ここ、あたしの世界じゃないんだよ?」
「そう言われてもにわかには信じられねえけど……」
お兄ちゃんは表情をあまり変えないけれど、あたしのために何かを必死に考えているのは、なんとなくわかった。
「諦めるのは早いんじゃないか。来たからには、帰り道があるもんだ」
「そうかな?」
「そうだよ」
変な確信を持って、お兄ちゃんが言った。その言葉はあたしを頷かせるだけの威力があった。
でもそれまで、あたしはどうすればいいんだろう。いまのあたしには何もない。王女という立場もないのだ。頭の中の選択肢には、お兄ちゃんの世話になることしかない。会ったばかりで頼ってしまっていいのかとも思うけど、この場で知っている人はこの人しかいないのだ。
じっとお兄ちゃんを見ると、お兄ちゃんはため息をついて、首を掻いた。
「……それまではここに置いてやるよ」
「いいの!?」
「大きな声を出すな。隣に……」
お兄ちゃんがそう言うと、ドタバタと足音が扉の向こうから聞こえた。その音に、お兄ちゃんが「しまった」と呟く。
そして響くのは、興奮気味な男の人の声。
「おいおい、女の子連れ込んだのかよ! おい!」
「うるせえな……」
立ち上がったお兄ちゃんは扉へと向かう。あたしはそれをぼうっと見てた。
がしゃりと音をたてて、お兄ちゃんは扉を開ける。風が吹き込んできた。
「おい、近所迷惑だ」
「いるんだろ女の子!」
「……女好きめ」
「いや、君が女の子連れ込むなんて滅多にないことやん。気になるでしょ」
そう言って中を覗き込む人が、お兄ちゃんの肩越しに見えた。お兄ちゃんだって小さくはないのにその肩越しに顔が見えるのだから、背がとても高いのだろう。
私の顔を見たその人は、すごく驚いた顔をして、お兄ちゃんを問い詰める。
「ちょ、おま、外人ってレベル高すぎでしょ!?」
「何のレベルだよ」
そしてお兄ちゃんを押しのけて、その人はあたしの前まで迫ってくる。
「僕、ここの隣に住んでる真嶋倒矢と言います! 職業はフリーター!」
「それは職業って言うのか」とお兄ちゃんが小さな声で呟く。それも意に介さないように、トウヤと名乗ったその人は続けた。
「お嬢さん、お名前は?」
「え、ええと、リーア、です」
「おお……」
何に関心したのか、トウヤは唸った。お兄ちゃんはいよいよ諦めたようで、もう一つ杯を用意して、お茶を注いでいた。
あたしは戸惑いっぱなしで、まずこの人がどういう人なのかわからない不安があった。
「ね、ねえお兄ちゃん、この人って……」
「お兄ちゃんだって!?」
素っ頓狂な声をトウヤはあげた。あたしはそれにびっくりして、少し跳ねる。
「新城、こんな美少女に『お兄ちゃん』って呼ばせるなんて、いよいよ性癖極めてきたな」
「……そんな性癖はねえよ」
「いいぞもっとやれ」
「推すんじゃねえ!」
お兄ちゃんが怒鳴り返す。そんなことも気にせずに、トウヤはあたしにさらに話しかける。
「できれば僕のこともお兄ちゃんと」
「ごめんなさい」
「なん……だと……」
あたしが答えると、トウヤはうなだれて落ち込んでいた。それを見ているお兄ちゃんの笑顔がなんだか黒い。
「うう、ちくしょう、うちの妹も金髪美少女が良かった」
「よく言うよ、シスコン」
二人はそんな風に、会話をする。友達なのだろうか。お隣さん、という感覚はわからないけど、住む家が近いと仲良くなるものなのだろうということはわかる。
自分が少し場違いな気がして、気まずくなった。
「まあ、リーアは今日からここにしばらくいることになった。何かあったら頼るから、そのときはよろしく」
お兄ちゃんはそうやって、あたしのことを紹介した。そのことで、不安がどこかえと行ってしまったのがわかる。
トウヤは言うと、目を見開いてお兄ちゃんをじっと見つめる。そしてチラリとあたしを見ると、またお兄ちゃんに視線を戻した。
「……事情は聞かないけど。きちんとそのときは頼れよ」
「ああ、頼りにしてる」
そう言うと、ようやくお兄ちゃんも座った。クッションを一つ、トウヤに投げて寄越していた。トウヤは「サンキュ」と言って受け取った。サンキュ、というのは、感謝の言葉なのだろう。
「それにしてもこのお姫様は、ずいぶん日本語が上手いね」
お姫様という言葉に、あたしはびくりと反応した。それに気づいてないのか、お兄ちゃんがあたしの代わりに答える。
「ん……まあ昔住んでたらしくてな」
あ、気づいてないんじゃない。嘘を考えるのに必死なんだ。
異世界から来た、というのがさっきたくさんの地図や資料を見た結果だった。あたしの国に伝わる昔話も、お兄ちゃんに話した。お兄ちゃんも渋々だけど信じてくれた。
でも、この人が信じてくれるとは限らない……って考えたけど、お兄ちゃんはきっと巻き込みたくないだけなんだろうな。この人はたぶん、そういう人。
それにしても、確かにどうしてこの国の言葉を話すことができるんだろう。
「ほうほう、なるほどね。今度うちの妹にも紹介してやろう。喜ぶぞ、あいつ」
「それもいいな」
気づかないうちに、話が進んでいた。そうやらトウヤが妹を紹介してくれるらしい。
「それで、その……二人は友達なの?」
あたしが言うと、お兄ちゃんは間髪入れずに言った。
「隣に住んでて、一時期バイト……仕事を一緒にしてて、月に何回か一緒に飯を食うくらいだ」
「素直に友達って言って!? 泣きそう!」
トウヤが泣きそうな声で言った。それを見てあたしはいよいよ、笑いを堪えられなくなった。
「く、ふふっ」
「お、姫が笑った」
トウヤが言った。確かに、笑ったのはこっちに来てから初めてだ。まさか自分も、こんなに早く、笑えるようになるとは思わなかった。
「ああ……よかった」
そう言ったお兄ちゃんの不器用に笑った顔を、あたしはきっと忘れられないだろうなって、思った。