3.王太子
翌日、アズリアは窓辺に置かれた椅子に腰掛け、オニキス城の庭を眺めていた。
オニキス公爵領へ到着してから、まだ一日も経っていない。昨夜はルキフェルの心配もあって、夜食を済ませて、早々に休むことになった。
ルキフェルの心配通り疲れていたのだろう。アズリアは夢を見ることもなく深く眠った。そのおかげか今朝は頭痛もなく、身体の調子も悪くない。
けれど、気がかりなことが一つあった。
(……王太子が、来るんだよね?)
王太子ミハエル・ディアマンテ。ゲーム『聖女リリアと光の福音』のメインヒーローだ。黄金色の髪に、青空のような瞳。王族らしい気品と、誰に対しても穏やかな人物だという、ゲーム内での印象を思い出す。もっとも、彼女が知っているのは、あくまでゲームの中のミハエルのことだけれど。
(……ゲームの設定とは違うことばかり起きているんだよね)
婚約破棄からオニキス公爵領への逃亡まで、ゲーム通りであることの方が少ない。
(……この先は、どうなるんだろう?)
そもそもゲームではアズリアが断罪され、リリアがヒーローと結ばれてエンディングだ。時系列通りなら、今はゲームのエンディング後で、アズリアがゲームのシナリオを知っていたからといって、あまり役に立ちそうにない。
(そもそも、なんで私は……この世界にいるの?)
ゲーム以外の記憶は朧げで、名前さえも思い出せない。それでも元は別の世界にいたという記憶は薄っすらとある。……ここが元々は自分の世界ではないという確信にも似た何かが、彼女の中に宿っていた。
(覚えていることはといえば『聖女リリアと光の福音』が好きでルキフェルが推しだったことくらい……今のところ、何の役にも立ちそうにないなぁ)
アズリアが、そんなことを考え少し落ち込んでいると、扉を叩く音がした。
「どうぞ」
「アズリア様、ルキフェル様がお呼びです」
「分かりました。すぐ行きます」
アズリアは立ち上がり扉へ向かう。
(ミハエルの来訪に関する話かな?)
胸に小さな不安を抱きながら、彼女は部屋を後にした。
————
公爵邸の応接室でルキフェルが待っていた。
黒い髪を後ろへ流し、いつもと変わらない表情でお茶を飲んでいる。
「……お呼びと聞きました」
「ああ、そちらへ座れ」
促されるまま、アズリアは彼の向かいに腰を下ろした。ルキフェルは彼女を一瞥すると、わずかに口の端を上げた。
「顔色は悪くないようだな」
「はい。昨日は、おかげで良く眠れましたから」
「そうか」
それだけ言って、彼は口を閉ざした。沈黙が応接室に居座った。ゲームでの彼も、必要以上に話す人物ではなかった。けれど、こうして実際に向かい合うと、どうにも沈黙が落ち着かない。
アズリアが何か話題を探そうとした時、部屋の外から足音が近づいてきて、扉が開かれる。
「……閣下。王太子殿下が到着されました」
「分かった。出迎えに向かおう」
「……いえ、それが」
口籠る従者の後ろから、鮮やかな黄金色の髪をした青年が姿を現した。嬉しそうに細められた青い瞳と、柔らかな笑みを浮かべた口元が印象的だった。
「お久しぶりです、ルキフェル叔父上」
穏やかで優しそうな声でミハエルがルキフェルを呼んだ。
(ミハエル王太子……)
アズリアは思わず背筋を伸ばした。ミハエルのことはゲームの中で何度も見たことがあるが、彼女がアズリアとなってからは初対面だ。
「突然の訪問を、お許しください。急ぎ確かめたいことがあって」
「……確かめたいこと、だと?」
「えぇ。でも、もう済みました。……僕の大切な恋人であるアズリアの居場所を確認できて、良かったです」
(……『僕の大切な恋人であるアズリア』?!)
アズリアは驚きのあまり、彼を見つめた。アズリアとミハエル、二つの青い瞳が交わる。ミハエルは、ただ愛おしそうに彼女を見ていた。
(悪役令嬢とメインヒーローが恋仲だった? ……だから彼は、あの夜会でリリアの側にいなかったのかな?)
この世界は彼女の知る大団円ルートに近いように思っていた。ヒロインの周りに攻略キャラたちが見守る中、場所は違えど大衆の前で悪役令嬢が婚約破棄される。大団円ルートとの違いは? と言われると、婚約破棄の場がエメラルディス公爵邸だったことと、ミハエルとルキフェルがヒロインの傍に居なかったことだ。
ミハエルの『大切な恋人』がアズリアだったなら、彼がヒロインの傍に居なかったことに納得がいく。……けれど恋仲だったと言われても、過去の記憶を持たない今のアズリアにはピンとこなかった。
ミハエルは小さく微笑みながらアズリアを見つめ続ける。親しい相手に向けるような、優しい笑みだった。けれどアズリアの中に違和感が芽生える。
「アズリア、僕と一緒に帰りましょう? 今度こそ君を守らせてください」
彼女がアズリアとなって、ミハエルに会うのは初めてだ。ゲームの中では何度も見てきた相手では、ある。けれど、実際に目の前にすると、その存在感は圧倒的で、アズリアは妙な緊張感も覚えた。
(……記憶がないことは言わない方がいいかな)
記憶がないことを隠した方がいいのか判断がつかないまま、彼女はミハエルを見た。
(……とはいえ、ここまでゲームとシナリオが違うんじゃ、隠しきれもしないか)
「……ミハエル王太子殿下に、ご挨拶申し上げます」
「随分と他人行儀だね、アズリア?」
「……実は……私には記憶がないのです」
ミハエルの双眸が、驚きに見開かれた。ルキフェルはというと、静かにミハエルとアズリアを見守っている。
沈黙の中、口を開いたのはミハエルだった。
「……記憶が、ない?」
「はい。……あの夜会での婚約破棄より前の記憶がありません」
「……そう」
ショックを受けたような様子のミハエルを見やりながら、今度はルキフェルが口を開いた。
「……このような状態なので、ラピラス侯爵令嬢には療養が必要と判断した」
まるで彼女にアズリアの記憶がないことなど、知っていたかのようにルキフェルが言う。その言葉にミハエルが真剣な様子で頷いた。
「……なるほど。この状況なら、叔父上の仰る通り、療養も必要でしょう。……けれど、それは王城でも良いのでは、ありませんか?」
「こんな状態の彼女を王城へ? それはお前にも都合が悪いのではないか?」
ルキフェルとミハエルが睨み合うように視線を交わした。先に折れたのはミハエルだった。
「……そうですね、このような状態の彼女の心労を増やすのは、僕の本意ではありません。ただし……」
ミハエルがアズリアを見て、柔らかな笑みを浮かべた。
「僕の愛しい人が叔父上と二人きりというような、彼女にとって外聞の悪いことも許せません。僕もオニキス城に滞在しても、よろしいでしょうか?」
「……好きにすると良い」
長い沈黙の末に、今度はルキフェルが頷く。こうしてルキフェルとミハエル、アズリアの奇妙なオニキス城での暮らしが始まったのだった。




