影の窓の向こうで
八月の午後のこと。
蝉の声が耳の奥を圧するほどに深く響く。窓の外ではアスファルトが陽炎に揺れ、風さえもぬるく重たい。
「こんな日は外に出ちゃだめよ」
母はそう言ったが、ミナトは外へ飛び出したい気持ちを抑えるのに必死だった。気ままに走りながら汗をかいて、風に吹かれたかった。
ところが気持ちは暑さに負けて、今日もミナトら部屋にこもっていた。机の上に広がる自由研究のノートは真っ白。扇風機はぐるぐる回り、埃っぽい匂いをかき混ぜているだけだった。
ふと足もとに目を落とすと、畳に伸びた自分の影がいつもと違って見えていた。
肩までの髪を揺らすシルエット。それはまるで女の子のよう。ミナトは短く刈りそろえられた後頭部を擦った。
その影は確かに、ミナトとは別の誰かの形をしていた。
息をのんで見つめると、影の中に淡い景色がにじんでいる。
白い壁と青いカーテン。清潔なシーツに簡素なベッド。
どこかの病室のようだった。
ベッドに腰掛けた少女が此方を見ていた。
やせた腕、肩にかかる黒髪。大きな瞳が真っすぐにミナトを見つめている。どうやらお互いの声は届かない。けれど彼女の唇が「こんにちは」と動いた。
ミナトも同じように口を動かした。
その時、胸の奥を潮風のような涼しさが吹き抜けるのをミナトは感じていた。怖さよりも不思議な安らぎがそこにはあった。
それからの日々、影は窓のように病室を毎日映した。
唇の動きから推察するに、その子を「ユイ」というらしかった。ユイは本を読んだり、机に花を飾ったり、窓の外を眺めたりしていた。声は聞こえない。それでも、影越しに彼女の暮らしのかけらが伝わってくるようだった。
ミナトは庭の向日葵を影に映した。ミナトの背丈より高く伸びた茎の上で、太陽のように眩しい花がこちらを見下ろしている。
ユイは影の中で手を口に当て、目を大きくした。唇が「すごい」と動いた気がした。
別の日には、川へ向かった。日は橙に傾いていたが、まだ外は熱に包まれている。
土手には草が伸びていて、アブラゼミの声が重なり合う。水面は夕陽を反射してきらきら光っていた。
ユイは窓のそばで顔を寄せてミナトの景色を見ていた。彼女の病室の窓からは海が小さくのぞいている。けれど、川の水音はきっと病室には届かないし、波のはじける音もミナトには聞こえない。
ミナトは川を見せながら、「これがぼくの夏だよ」と心の中でつぶやいた。
商店街にも足をのばした。
氷を砕くガリガリという音、綿あめの甘い匂い。赤い提灯が風に揺れている。お盆が近く、ミナトは五感で祭りを感じていた。
ユイの病室の机では、食事のトレイ上に小さなゼリーのカップが置かれていた。スプーンで少しすくって口に運ぶ姿を見たとき、ミナトは胸がつまった。
夜には、庭で線香花火をしてみた。
小さな火花がチリチリと散り、火薬の匂いが漂う。影の中のユイは胸の前で両手を合わせ、炎の粒を目で追っていた。
その横に置かれたノートには、小さな花の落書きがいくつも描かれていた。
ある日には突然の夕立があった。
ざあざあと降る雨を窓辺から影に映すと、ユイは驚いたように病室の窓へ額を寄せた。
影の中で、病室の窓ガラスに雨粒が当たり、透明な筋を残していた。ユイは指でその跡をなぞる。まるで二人が同じ雨を触っているみたいだった。
別の夕暮れには、近所の祭りに出かけた。
金魚すくいの水の冷たさ。焼きそばの香り。浴衣を着た人々のざわめき。
ユイの病室には、鉢植えの朝顔が映っていた。花はもうしおれかけている。それでも彼女は笑顔で、何度も「ありがとう」と口を動かしていた。
日々は過ぎ、夏は少しずつ終わりに近づいていく。
八月の終わりが近づいていた。
照りつける太陽はまだ衰えないのに、夕暮れの風はどこか涼しく、夜になると虫の声が混じるようになった。町全体が少しずつ秋に向かって歩き出している。
夏の終り、秋の始まりにつれ、ミナトの影は日に日に色を失っていった。
床に落ちる黒は浅くなり、影の奥に映るユイの病室は、ところどころ霞がかかったように途切れて見える。机の上の花はぼやけ、ユイの輪郭も輪郭線だけが揺れていた。
「大丈夫かな」
ミナトは影に声をかけた。もちろん返事はない。それでも、ユイが微笑んで「大丈夫」と言ってくれるのを望んでいた。
その夜、ユイは影の中で机に向かっていた。
震える手で何かを書き、白い封筒を取り出す。封を閉じ、窓辺にそっと置く。
光に透けて「ミナトへ」と丸い字が浮かんだ。
ミナトは思わず手を伸ばした。床に指先を触れても、そこにあるのはただの黒い影だけ。
「待ってよ」
声は震えていた。ユイはベッドの上で少しだけ笑ったように見えた。そして、影は淡く揺れて、何も映さなくなった。
翌朝。
足もとにあったのは自分の影。
病室も、窓も、ユイの姿もどこにも映っていない。
胸の奥がからっぽになった。
ミナトは畳に座り込み、うつむくしかできないでいた。昨日までの夏が全部幻だったのかもしれないという思いが、じわじわと広がった。
けれど、封筒のことだけは確かに覚えている。
あの封筒はきっとどこかにある。
ユイが置いてくれた、本当の場所に。
ミナトは居ても立ってもいられず、自転車をこいだ。
昼の熱気はまだ衰えず、風さえもぬるい。頬を打つ風の中に、自分の汗の匂いが混じる。ペダルを踏むたびに息が荒くなり、背中のシャツが肌に張りついた。
頭に焼きついているのは、影の中で見た景色。白い壁、青いカーテン、机とベッド。そして窓辺に置かれた封筒。
その場所はきっと、実際にある。
坂を上がると、市立病院の建物が見えてきた。大きなガラスの自動ドアが陽を反射してまぶしい。駐車場には車が並び、救急車のサイレンが遠くで小さく響いていた。
自転車を押して庭へ回ると、そこにあった。影で見たのと同じ百日紅の木とベンチ。赤紫の花が散って、コンクリートには小さな影を落としている。
ミナトは息を止めるようにして、ベンチの下をのぞき込んだ。
小石で押さえられた白い封筒が、そこにあった。
指先で拾い上げると、紙は少し湿っていて、ざらつきが伝わってくる。胸が高鳴り、震える手で封を切った。
『景色を見せてくれてありがとう。あなたのおかげで、楽しい夏を過ごすことができました。影は、本当の自分じゃないから、ときどき居場所を間違えるんだって。きっと、私とあなたの外に出たい気持ちが重なったから、影が入れ替わったんだと思います。だから、こうして外の景色を見ることができました。どこかで会えると信じています』
小さな字が並んでいた。光に透ける丸い筆跡は、影の中で何度も見たユイの手の動きと重なった。
「……本当だったんだ」
ミナトはつぶやいた。夢や幻じゃない。ユイはたしかに存在していて、自分に宛てて手紙を書いてくれた。
そのときだった。
顔を上げると、玄関前を歩く数人の子どもたちが目に入った。制服のシャツを汗で濡らし、笑い声をあげながら階段を降りていく。その中に、一人の少女がいた。
肩までの髪が光に透けて揺れ、白い肌に痩せた腕がのぞく。横顔の輪郭は、影の中で見たユイと同じだった。
ミナトは思わず立ち上がったが、声をかけるより早く、少女は友達と笑いながら自動ドアの向こうへ消えていった。
息を切らしながら玄関へ駆け寄ろうとしたとき、ふと足もとが目に入った。
夕暮れの光に伸びる自分の影。そのすぐ隣に、もうひとつの影が寄り添っている。肩までの髪を揺らす影が、確かに並んでいた。
振り返っても、そこには誰もいない。
けれど、胸の奥に確かな重みがあった。
影が導いた出会いは、たしかにここにあったのだ。
ポケットの中の封筒が、汗を吸い込んで重くなる。
その重みが、まだ続く夏の余熱のように、ミナトの胸をあたためていた。




