第6話 潤いを与えてくれるもの
東京、世田谷区。
閑静な住宅街の一角に、古びた看板を掲げた『真田脳神経外科クリニック』がある。
表向きは、大学病院に勤務する理久が、亡き父から引き継いだ休診中の診療所だ。だがその実態は、彼らのアジトであり、莉紗の「本体」が眠る城である。
北海道から空路と陸路を乗り継ぎ、這うような思いで帰還した理久は、診療所の奥にある診察室のドアを開けた。
「……着いた。やっと、帰ってきたぞ」
診察室の中は、空調が効いたサーバールーム特有の空気と、電子機器のファンが回る低周波音に満ちていた。
部屋の中央には、液体で満たされたカプセル――生命維持装置が鎮座している。その中で、無数のケーブルに繋がれた少女、莉紗が静かに眠っていた。
痩せ細った体。白磁のような肌。だが、モニター上の彼女の脳波は活発に波打ち、デジタル世界で生きていることを示している。
「おかえり、リク兄、エマ。お土産は?」
部屋のメインモニターに、猫耳フード姿のアバターが表示され、待ちきれない様子で飛び跳ねた。
「ああ、持ってきたぞ。これがお前の新しい体……その第一歩だ」
理久は震える手でアタッシュケースをデスクに置いた。
北海道での死闘。マフィアとの交渉。流氷の上のカーチェイス。全ての苦労が、この銀色の箱に詰まっている。
「エマ、解析の準備を」
「了解。セキュリティ・バイパス、接続」
エマが手際よくケーブルを準備する。彼女は北海道での激戦の後だというのに、髪一本乱れておらず、すでに「仕事後のティータイム」モードに入っていた。
理久はアタッシュケースを開けた。あの円筒形のユニットが姿を現す。
こうして改めて見ると、神々しささえ感じるフォルムだ。
「よし、接続するぞ……頼む、動いてくれよ」
理久は祈るように、ユニットの端子に解析ケーブルを差し込んだ。
モニターにコンソール画面が立ち上がり、高速で文字列が流れていく。
解析システムが、新しいハードウェアを認識しようと試みる。
『デバイス セットアップ中……ドライバーを検索しています……』
理久とエマ、そして画面の中の莉紗が、息を呑んでプログレスバーを見つめる。
緑色のバーが右端まで到達した。
その瞬間。
聞きなれた不吉なシステム警告音(タ・ダン!)が鳴り響き、黄色いビックリマークのアイコンが表示された。
【このハードウェアを認識できません】
【コンピューターはこのハードウェアを識別できません。有効なハードウェア識別番号がありません (コード 9)】
「……え? コード9?」
理久の思考が停止した。
『あ……やっぱり……』
莉紗が落胆した声を上げた。
エマは眉をひそめ、キーボードを叩いてプロパティ詳細を表示させた。
「……不明なデバイスとして認識はしています。デバイスインスタンスパスから、ハードウェアIDも判明しました。その製品名は……」
エマが読み上げた文字列が、モニターに大きくポップアップ表示される。
【デバイス名: Uruoi-Mist Pro (Model 2018)】
【カテゴリ: 家電製品 / 加湿器】
【状態: ドライバーが見つかりません(汎用PnPモニターとして使用可能)】
「……うるおい、ミスト……プロ?」
理久が呆然と復唱する。
脳裏に、北海道の倉庫でのドミトリの熱弁が蘇る。
「このユニットがもたらす恩恵……それはまさに*『潤い』*だ!」
「乾ききった我々の生活を救う、救世主だ!」
「逃がさんぞ、私の潤いぃぃぃ!」
「…………あ」
理久の手から力が抜け、膝から崩れ落ちた。
「……あいつ、比喩で言ってたんじゃない……本当に『肌の潤い』の話をしてたのか……?」
「先生、詳細スペックが出ました」
エマが無慈悲なトーンで追撃する。
「超音波式加湿ユニット。タンク容量500ml。アロマオイル対応。七色のLEDライト搭載……なお、内部にカルキの付着が見られます。かなり使い込まれた中古品です」
「中古品かよ!!」
理久の絶叫が防音室に響き渡った。
「俺は……俺は……っ! マフィアのボスが愛用してる中古の加湿器を奪うために、北海道まで行って、銃撃戦をして、流氷の上を走ったのか!? 命を懸けて!? コード9が出るような型落ちの加湿器のために!?」
理久はユニットを鷲掴みにした。よく見れば、幾何学模様だと思っていた側面のデザインは、単なる「給水メモリ」だった。
「ふざけるな! 三倍の価値ってなんだよ! 確かに加湿は大事だけど! 乾燥はお肌の大敵だけど!」
『リク兄、落ち着いて! 投げるなら私のポッドじゃない方にして!』
「うあああああ!」
理久はユニットをソファに向かって投げつけた。ユニットはポヨンと跳ね返り、虚しく転がった。




