第5話 流氷のカーチェイス
「いい選曲です。リズムに乗ればハンドリングの精度が上がります」
莉紗の選曲にエマは真顔で頷くと、凍結した港湾道路をマイペースに駆け抜け始めた。
ドォン!
後方で乾いた音が響き、軽ハイトワゴンのサイドミラーが粉砕された。銃撃だ。
「撃ってきたぞ! エマ、蛇行運転だ! 弾に当たる!」
「否定します。この路面状況で不用意な蛇行を行えば、遠心力で横転します。それに、ここは制限速度50キロの道路です。速度超過で警察に捕まれば、私の免許に傷がつきます」
「命より免許かよ! マフィアに撃たれるのと免停、どっちが重いんだ!」
「免停です」
エマは即答し、あくまで法定速度+α(誤差の範囲)を維持しながら、巧みなライン取りでコーナーへ突っ込んだ。
直角に近いカーブ。後続のSUVは減速を余儀なくされるが、エマは違った。
コーナー手前の雪だまりにわざと左のタイヤを引っかけ、車体を強制的に傾けると、スキーのエッジを効かせる要領で、氷の上を滑るように曲がりきったのだ。
「『溝落とし』!? 某豆腐屋の走り屋か!」
「物理法則を利用しただけです」
軽ハイトワゴンは物理法則のギリギリを攻めながら、迷路のようなコンテナヤードを疾走する。
だが、直線に出るとやはりパワーの差が出る。SUVがじりじりと距離を詰めてきた。
――というかSUVも法定速度守ってないか? まさかな……
そんなことを理久が考えているのもつかの間。
『リク兄、後ろの車、バンパーに衝角が付いてるよ。ぶつけられたら軽自動車なんて空き缶みたいに潰れちゃう!』
莉紗の実況が絶望を煽る。
SUVが背後に迫り、車体をぶつけようと幅寄せしてきた。
「エマ! 横! 来るぞ!」
「問題ありません。……先生、後方撹乱を行います。コンソールのスイッチを」
「スイッチ!? まさか、このクルマには『撒き菱』や『オイル』が出る改造が!? レンタカーなのに!?」
理久は期待に目を輝かせ、エマが指差したスイッチを見た。
そこには、見慣れた扇形のマークが描かれていた。「リア・ウォッシャー液」のスイッチだ。
「ただのウォッシャー液じゃねーか!」
「今の外気温はマイナス10度。そして我々は時速50キロで走行中。……計算通りなら、武器になります。押してください!」
「くそっ、ええい!」
理久がスイッチを連打する。
リアウィンドウのノズルから、青いウォッシャー液がピュッ、ピュッと頼りなく噴射された。
それは風に流され、背後に迫っていたSUVのフロントガラスに直撃した。
瞬間。
極寒の冷気を受けた液体はワイパーが動くよりも早く、ガラスの表面で急速冷凍され、白い氷の膜となって張り付いた。
「うおっ!?」
視界を完全に奪われたSUVの運転手が慌ててハンドルを切る。
氷上の急ハンドルは自殺行為だ。
SUVは制御を失ってスピンし、道路脇に積まれた除雪された雪山へと、豪快に突っ込んだ。ドスーン! という音と共に、一台目が雪に埋もれて脱落する。
「かがくの ちからって すげー!」
理久は思わず叫んだ。
「確認。一台無力化……ですが、もう一台が来ます。あれはボス、ドミトリの車両です」
バックミラーには、さらに殺気立ったドミトリのSUVが、パッシングを繰り返しながら迫っていた。窓から身を乗り出した部下が、マシンガンを構えているのが見える。
「エマ、次は!? ウォッシャー液はもう出ないぞ!」
「残弾ゼロですか。では、最終手段です……先生、『アルキメデスの原理』と『流氷の浮力』計算はできますか?」
「りゅうひょう? 今そんな理科の授業をしてる場合か!」
「重要です……あのSUVは防弾仕様。装甲板を追加しているため、車重は優に2.5トンを超えます。対して、我らが軽ハイトワゴンは大人二人を乗せても1トンほど」
エマはハンドルを切り、港の奥――船を陸に揚げるためのスロープ(斜路)へと向かった。
その先にあるのは、暗い海面ではない。
白く、ゴツゴツとした巨大な氷の塊がびっしりと押し寄せ、海を埋め尽くしている場所。
流氷だ。
オホーツク海から南下し、この港の湾奥に吹き溜まった白い悪魔たちが、月明かりの下で不気味に輝いている。
「おい待て! 流氷だぞ!? あんな不安定な物の上を走れるわけがない!」
「計算上、現在の流氷密度は90%以上。互いに押し合い、密集して『陸地化』しています。軽量なこのクルマなら、氷から氷へと渡り歩くことが可能です。ですが……」
エマはニヤリと笑い、躊躇なくスロープを駆け下りた。
ガタン!
軽ハイトワゴンが流氷の上に乗り上げる。タイヤが氷塊を噛み、車体が激しく揺れるが、エマはオフロード走行のような巧みなハンドルさばきで、グラグラと揺れる氷の上を突き進んでいく。
「うわあああああ! 揺れる! 沈む! 莉紗、遺書を頼む! 宛名は……『潤い』だ! あのマフィアが言ってた『潤い』でいい! くそっ、意味わかんねぇ!」
『了解! 意味不明だけど記録したよ!』
理久が恐る恐る振り返る。
ドミトリのSUVもまた、勢いに乗ってスロープを降り、流氷帯へと突入していた。
ドミトリが窓から身を乗り出し、真っ赤な顔で叫んでいる。
「待てぇぇ! 逃がさんぞ、私の潤いぃぃぃ!」
SUVが加速しようとした、その時だった。
ズブブ……ッ。
不吉な音が、流氷の隙間から響いた。
「え?」
ドミトリの動きが止まる。
SUVの重すぎる車重が災いした。タイヤが乗った巨大な氷塊が、その重みに耐えきれず、ゆっくりと傾き始めたのだ。さらに、周囲の氷も重さに押されて沈み込み、海水が溢れ出してくる。
「先生。密集した流氷は、軽い衝撃なら分散して支え合いますが……一点に過重な負荷がかかれば、液状化のようにバランスを崩します」
エマが冷静に解説するのと同時だった。
ゴォォォッ!
SUVの前輪が乗っていた氷がひっくり返り、車体が前のめりに海面へ突っ込んだ。
「ぬおぉっ!?」
続いて後輪も沈み、SUVの巨体は流氷を掻き分けるようにして、冷たい海の中へとズブズブと没していった。
幸い、港湾内のため水深は浅いが、車体の半分以上が海水と氷のシャーベットに浸かり、エンジンがジュウウウと蒸気を上げて停止した。
「ぶるるるる! 寒い! 流氷風呂は勘弁してくれ!」
ドミトリたちが窓から這い出してくるのが見えた。流氷にしがみつき、ガタガタと震えている。命に別状はないが、これ以上の追跡は不可能だ。物理的に。
「……勝った……のか?」
理久は魂が抜けたような顔でシートに沈み込んだ。
スピーカーからは、運動会の終わりを告げるような、のどかなエンディング曲が流れ始めている。
「ええ。質量の勝利です」
エマは満足げに頷き、ハンドルを操作して、対岸のコンクリート護岸へと車を這い上がらせた。
軽量な軽ハイトワゴンは、流氷の海を軽やかに渡りきったのだ。
「先生、顔色が青いです。乗り物酔いですか?」
「……違う。命の危険と、流氷が軋む音によるストレス性胃腸炎だ」
理久は懐の「ユニット」が入ったアタッシュケースを強く抱きしめた。
命懸けのカーチェイス。死ぬ思いで手に入れた、この希望の箱。
これさえあれば、莉紗を救える。
「帰ろう、エマ。……東京へ」
軽ハイトワゴンは、マフィアたちが震える流氷の港を後にし、闇夜へと消えていった。
この時の理久は、まだ知らなかった。
自分が命懸けで守り抜いたその箱の中身について、ドミトリが叫んでいた「潤い」という言葉が、物理的な意味そのままであるという、残酷な真実を。




