第2話「庭園での別れ」
三日後の朝、ベルモント家に一通の手紙が届いた。
「ジュリアン様宛のお手紙です。アレクシス・ウィンターボーン様からでございます」
執事が兄に手紙を渡すのを、ルイティルは少し緊張しながら見守った。
あの出会いから三日間、彼のことが頭から離れずにいたのだ。
ジュリアンが手紙を読み終えると、ルイティルに向き直った。
「アレクシス様から、ノーバラ領の件で追加の相談があるそうだ。
それと、君にも隣国情勢について詳しく聞きたいことがあるとのことだよ」
「わたくしにですか?」
「ああ。君のザルドニア語の知識と、あちらの文化への理解が役立つそうだ。
来週の午後なら時間が取れるが、君はどうだい?」
「もちろん、お役に立てるなら喜んで」
ルイティルの声は、自分でも驚くほど弾んでいた。
そして約束の日。アレクシスがベルモント家を訪れた。
応接の間でジュリアンと三人で打ち合わせを終えた後、ルイティルは彼を庭園に案内した。
午後の柔らかな陽射しが、薔薇の花壇を美しく照らしている。
「素晴らしいお庭ですね」
アレクシスは感嘆の声を上げた。
「ありがとうございます。この薔薇はヴェドミナ種で、隣国から取り寄せた苗から育てました。
香りがとても上品で、母がお気に入りなんです」
「ヴェドミナ種……確か、隣国の王宮庭園でも栽培されている品種ですね」
「ご存知なんですか?」
ルイティルは驚いた。この薔薇の品種について詳しく知っている人は、そう多くない。
「ええ、以前……」
アレクシスは言いかけて、わずかに言葉を濁した。
「以前、書物で読んだことがあります。王宮庭園の記録書に詳しく記載されていました」
「まあ、アレクシス様は本当に博識でいらっしゃるのですね。
ところで、どのような分野の書物をお読みになるのですか?」
二人は庭園の小径を歩きながら、自然に会話を続けた。
アレクシスの知識は驚くほど幅広く、歴史から芸術、政治経済まで何でも詳しかった。
「ザルドニアの古典文学もお好きなのですね。わたくしも『翠玉の詩集』が大好きで」
「あの詩集の中では、どの詩がお気に入りですか?」
「『星降る夜の調べ』という詩が……」
「『遥かなる空に散りばめられし星々よ』で始まる詩ですね」
アレクシスが詠み始めると、ルイティルも嬉しそうに続けた。
「『君が瞳に宿る光と同じく、私の瞳にも輝き続けよ』……」
二人で詩の一節を詠み終えると、なぜか気恥ずかしい沈黙が流れた。
「その詩は、本当に美しい詩ですね」
アレクシスの声は優しく、どこか懐かしげだった。
ルイティルは彼の横顔を見つめる。整った鼻筋、穏やかな口元——なぜだろう、とても安心する。
「あの……アレクシス様」
「はい」
「お聞きしたいことがあるのですが……」
ルイティルは勇気を出して尋ねた。
「もしかして、以前どこかでお会いしたことはありませんか?
どうしても、お顔に見覚えがあるような気がして」
アレクシスの表情が、一瞬強ばった。
緑の瞳に、困惑と何かを隠そうとする意志が混じる。
「それは……どちらでお会いしたと思われますか?」
「二年前のお披露目の夜会の時だったかもしれません。あの時は大勢の方がいらして、お話しできませんでしたが……」
その瞬間、アレクシスの瞳に深い感情が宿った。
まるで遠い記憶を手繰り寄せるように、彼はルイティルを見つめる。
「お披露目……そうでしたね」
彼の声が、かすかに震えた。
「あの時のルイティル様は、とても美しく聡明でいらした」
「え?」
ルイティルは驚いた。まるで実際に見ていたような言い方だった。
「あ、いえ……そのような評判をお聞きしたことがあります」
アレクシスは慌てたように言い繕う。
しかし、ルイティルの好奇心は止まらなくなった。
「アレクシス様、あの時図書室で迷子になった令嬢がいて、親切な近衛兵の方が道を教えてくださったという話があるのですが……」
その瞬間、アレクシスの顔が青ざめた。
まるで血の気が引いたように、唇まで白くなる。
「それは……私は……」
「もしかして、あの時の——」
「申し訳ありません!」
アレクシスが突然後ずさりした。
手が震え、額に汗が浮かんでいる。
「急用を思い出しました。失礼いたします!」
「アレクシス様?」
ルイティルが呼び止める間もなく、彼は足早に立ち去ってしまった。
残されたルイティルは、庭園で一人立ち尽くした。
なぜあんなに慌てたのだろう。まるで何か恐ろしいものから逃げるように——。
「ルイティル?」
振り返ると、ジュリアンが心配そうに歩いてきた。
「あれ?アレクシス様はもうお帰りになったのかい?」
「はい……急に用事を思い出されたとかで」
ルイティルは俯いた。
「お兄様、わたくし何か困らせるようなことを言ってしまったかもしれません……」
「そんなことはないよ。君はいつも通り、興味深いお話をしていただけだろう?」
ジュリアンは優しく妹の肩に手を置いた。
「きっと本当に急用があったんだ。気にしすぎないようにね」
でも、ルイティルの心に引っかかった不安は消えなかった。
それから二週間が過ぎた。
アレクシスからの手紙は一通も来ない。
心配になったルイティルが様子を尋ねる手紙を送っても、返事はなかった。
代わりに訪れるようになったのは、年配のウィンターボーン家の使いだった。
「アレクシス様はお元気でしょうか?」
ジュリアンが尋ねると、使いの者は曖昧に答えた。
「少し体調を崩しまして。しばらく療養が必要かと」
でも、ルイティルには分かっていた。手紙が届かないのは、体調のせいではない。避けられているのだ。
なぜだろう。
あの時、何がそんなに彼を動揺させたのだろう。
そして何より——なぜ自分は、こんなにも不安なのだろう。
夜、一人で自室にいる時、ルイティルは混乱していた。
二年前、お披露目の夜会で出会った近衛兵への憧れ。
あの時の彼は、大人びた青年だった。
『年上の女性の方が好み』という噂を聞いて、いつか年上になりたいと願った。
でも今のアレクシスは、お兄様と同世代に見える。
全く違う人なのに——なぜこんなに心が騒ぐのだろう。
自分はいったい、誰に想いを寄せているのだろう?
あの時の青年への憧れなのか、今のアレクシスという人への想いなのか。
ルイティルは窓辺に座り、星空を見上げた。
会えない日が続くほど、彼のことばかり考えてしまう。
この気持ちは何なのだろう。
なぜこんなに、彼に会いたいと思うのだろう。
答えの見つからない想いを抱えたまま、ルイティルの夜は更けていった。




