第二部:魔族の国へ
トーキョーを発つ日の朝はよく晴れていた。
俺の旅支度はごく簡単なものだった。数日分の着替えと保存食。そして様々な調査に使うための、俺が作り上げた道具一式―――植物や鉱物を観察するための拡大鏡、土壌の酸性度を測るための簡易的なリトマス試験紙、精密な地図を作成するための測量器具。俺の武器は、いつだってこれらの「知恵」の結晶だ。
「……本当に行ってしまうのですね」
リリアーナは心配そうな顔で、俺の旅支度を手伝ってくれていた。彼女は俺の胸に新しい星のお守りを付けてくれた。
「ああ。だが心配するな。これは戦争じゃない。病気の土地を治しに行くだけだ。それにゼオンもいる」
「分かっています。ですが……」
彼女は、俺の胸にそっと顔をうずめた。
「あなたのいないトーキョーは、太陽のない朝のようです。どうか一刻も早くお帰りを……」
「約束する」
俺は、彼女を、そして、眠っているアラタとハナの頬に別れのキスをすると、ゼオンが待つ街の外れの平原へと向かった。
黒竜の巨大な背に乗り、トーキョーの街がみるみる小さくなっていく。眼下には俺たちが築き上げた美しい街並みと、豊かに広がるニイガタの田園風景。この光景を守るためにも、俺は行かなければならないのだ。
竜の飛翔は、馬車などとは比較にならないほど速かった。
やがて眼下の風景は一変した。ニホン国の豊かな緑が途絶え、その先には、赤黒い岩と砂だけの荒涼とした大地が広がっていた。魔族の国。アストリア王国との長大な緩衝地帯となっている不毛の大地だ。
大気は乾燥し、微かに硫黄の匂いがする。空は青ではなく、どこか紫がかった奇妙な色をしていた。
「すごいな……」
俺は眼下の光景に、思わず声を漏らした。それは、ただ荒れ果てた土地ではなかった。大地の裂け目からは様々な色に輝く鉱脈が剥き出しになっており、森の代わりに巨大な水晶の柱が林のように立ち並んでいる。生命の気配は希薄だが、その代わりに莫大な魔力が、大地そのものから溢れ出しているのが肌で感じられた。
「美しいだろう?」
俺の感嘆を誇らしげにゼオンが言った。
「我ら魔族は、このマナに満ちた大地から生まれたのだ。我らの肉体も魔法も全てがこの大地の恵みよ」
やがて地平線の彼方に、巨大な黒い山が見えてきた。
「あれが俺たちの首都、ガルン=ハダルだ」
それは山ではなかった。一つの巨大な黒曜石の塊。その黒い鏡のような山肌を削り穿ち築き上げられた巨大な要塞都市。無数の塔が天を突き刺すようにそびえ立ち、その窓からは、青白い魔法の光が明滅している。あまりにも異質で禍々しく、そして息を呑むほどに美しい光景だった。
俺たちは、その巨大な要塞都市の頂上にある離着陸場へと降り立った。
都市の内部は、巨大な蟻の巣のように無数の通路が縦横に走っていた。壁には鉱脈から採掘されたのであろう光る苔や発光する水晶が埋め込まれ街全体を幻想的な光で照らしている。
だが、その美しい光景とは裏腹に、街に流れる空気は重く淀んでいた。
すれ違う魔族の民たちは、皆一様に痩せこけ、その顔には深い疲労と絶望の色が浮かんでいた。広場では、わずかな食料の配給を待つ、長い長い列ができていた。時折、列を巡って小競り合いが起き、それを屈強な兵士たちが容赦なく鎮圧している。
その兵士たちのまとう鎧には、見慣れない紋章が刻まれていた。
「……ガルナック一族の兵か」
ゼオンが苦々しげに呟いた。グロル将軍の私兵たちだ。彼らは配給の管理を任されているのをいいことに、民衆に対して横暴の限りを尽くしているようだった。その一方で彼ら自身は、腹が満ち足りているのか、その体躯は他の民とは比べ物にならないほど大きくたくましい。
この街は、静かな内乱状態にある。俺はそう直感した。
俺たちは都市の最深部、魔王の玉座の間へと通された。
そこにいたのはゼオンの言葉通り、まだ若者と呼んでもいいほどの若い魔族だった。ゼオンのような圧倒的な威圧感はない。どちらかといえば、学者肌の線の細い知的な男。彼が現在の魔王ヴァレリウス。
「……よく、お越しくださいました、賢者ケンタ殿。そしてゼオン様、ご無事のご帰還、何よりです」
彼は、玉座から立ち上がると深々と頭を下げた。その声には疲労の色が滲んでいた。
「ヴァレリウス、頭を上げろ。お前は今の魔王だ。そう易々と他種族に頭を下げるな」
ゼオンが厳しい声で言う。
「ですが……!」
「ケンタは、客人であり、俺の友人だ。だが、それとこれとは話が別だ。お前は一国の王として、堂々としていろ。でなければ配下の者たちが不安になるだけだ」
ゼオンの言葉は単なる叱責ではなく、若き後継者への精一杯の激励のようにも聞こえた。
その時だった。玉座の間の巨大な扉が乱暴に開かれ、一人の巨大な魔族が入ってきた。
身の丈は三メートルはあろうか。鍛え上げられた鋼のような肉体。顔には無数の古い傷跡。背中には身の丈ほどもある巨大な戦斧を背負っている。その全身から発せられる暴力的なまでの威圧感は、ゼオンとはまた質の違う純粋な破壊の衝動に満ちていた。
「――これは、これは。ゼオン様。何のご帰還ですかな? とうに隠居されたものと思っておりましたが」
その声は、岩が擦れ合うかのように、低くしゃがれていた。グロル将軍。ガルナック一族の長。
彼は俺の姿を認めると、侮蔑にその分厚い唇を歪めた。
「……そして、その貧弱な人間が、噂の『賢者』とやらですかな? なんとまあ豆粒のような。ヴァレリウス様も酔狂なことだ。このような人間の子供の戯言に耳を貸されるとは」
「グロル! 控えよ! ケンタ殿は、我が招いた客人である!」
ヴァレリウスが声を荒げる。だが、グロルはせせら笑うだけだった。
「客人ですと? 陛下。この飢饉は大地の神の怒りですぞ。人間と和平ぞうを結び、我ら魔族の誇り高き戦いの魂を忘れ去った、その惰弱さに対する天罰なのです! それを、この人間は『病気』だの、『土が悪い』だの戯言を並べていると聞く! 神罰を人間の小細工でどうこうできるとでもお思いか!」
「黙れ、グロル」
ゼオンの、静かな、しかし、絶対的な王の威厳をまとった声が響き渡った。
「貴様の言いたいことは分かった。だが、貴様のやり方では民は救えん。ただ無駄な血が流れるだけだ。……ならば試させてみればよかろう。この男の『知恵』とやらを」
俺は一歩前に出た。そして枯れた作物のサンプルをグロルの前に差し出した。
「これは呪いではない。見ての通り根に灰色のカビが寄生している。そして葉が黄色く変色しているのは、土の中のある種の養分が足りていない証拠だ。これは神罰ではない。ただの生物学と化学の問題だ。そして、その問題には必ず解き方がある」
俺はヴァレリウスに向き直った。
「魔王陛下。どうか私に実験のための一区画の土地と百名の人員をお貸しいただきたい。一月……いいや、三週間で、この土地が呪われてなどいないことを、私が証明してみせます」
「……ふざけたことを!」
激昂したグロルが、俺に掴みかかろうとしたその時。彼の巨体と俺の間に、ゼオンが音もなく割り込んだ。
「――それ以上近づくな、グロル。この男は俺の友人だ。この男に指一本でも触れてみろ。その時は貴様の一族ごと、この大地から消し去ることになるぞ」
ゼオンの体から、青い雷のような闘気が迸った。それはかつての魔王が持つ圧倒的な力の片鱗。グロルは、その威圧感に一瞬たじろいだ。
「……よかろう」
沈黙を破ったのはヴァレリウスだった。
「賢者ケンタ殿。あなたの提案を受け入れよう。三週間後、もしあなたの言葉が真実であると証明されたなら、私は全権をあなたに委ねる。だが、もしそれが、戯言であったならば……その時はグロル将軍の言う通り、我らは剣を取ることになるだろう」
それは、この国の、そして、大陸全体の未来を賭けた壮大な実験の始まりだった。
明日も19時に更新します!
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