カミーユは髪を切ることにした
公爵令嬢カミーユ・シンクレアはうんざりしていた。以前から婚約者である王太子に好きな人がいるということは薄々分かっていた。
「そなたの声は鈴を転がしたように可愛い。その声でもっと私の名前を呼んで欲しい。」
「シャール様……。」
なんて会話をうっかり聞いてしまった途端、心の中の何かがプチン、と切れたのだ。
(悪かったな、低い声で。)
心の中で悪態をつく。低い声も、高い身長も自分が欲しいと思ったものではない。ただ、そう生まれついてしまっただけだ。そして、王太子の婚約者として申し分ない家柄も。
それでもカミーユは妃教育を怠けることはなかったし、王太子の望むようにしてきたつもりだった。
そもそもそれが間違いだったのだ。人の望むように生きても意味がない。どうせ一回きりの人生なのだ。
しかし、婚約破棄でもしてもらわないことには王宮から出られそうにない。自分から申し出れば、宰相である父の立場が悪くなるだろう。カミーユはしばらく悩んでいたが、ポンと手を打った。
「髪を切りましょう。」
この国では美しい長い髪の女性が魅力的だと言われている。それを切れば、どこかおかしくなったのかと追放されるに違いない。
カミーユは部屋に戻ると、ドレッサーの前で鋏を取り出す。
「カミーユ様!おやめくださいませ!」
侍女の制止も聞かず、髪を肩のところでまとめて持つと、ざっくりと切った。切った髪は束になったまま床に落ちる。切った部分がガタガタになっているのが気になった。
「髪を整えてちょうだい。」
侍女に鋏を渡す。
切ってしまった髪は元には戻らない。このままにはできないと、しぶしぶ侍女は髪を整え始めた。ちらちらと鏡のカミーユを見ている顔が、次第に紅潮してくる。
「まさか。まさかこんなことが。」
うわごとのように呟いた侍女が鋏を下ろす。鏡の前には男のような髪型をしたカミーユがいた。なかなか似合っている。
ただ、豪勢なドレスとは不釣り合いだ。
「乗馬服を出してちょうだい。」
カミーユの言葉にぼうっとカミーユを見ていた侍女ははっとすると頭を下げる。
「い、今すぐに御用意いたします!」
乗馬服を着たカミーユは、男に見えた。カミーユはそんな自分に満足していた。どれだけど着飾ろうとも、声が低いだの背が高いだの嫌味を言われてきたのだ。そうだ。いつも嫌味ばかり言ってきた皇太后にこの姿を見せてやろう。そうすれば、出て行けと言われるに違いない。
「皇太后のところにこれから行くと伝えておいて。」
「か、かしこまりました。」
皇太后の部屋へと歩いていく。もう、背を丸めて小さく見せる必要もない。乗馬ブーツで闊歩していると、不思議とすれ違う侍女が多い。全員がなぜかカミーユを見ては顔を赤くしている。
(ああ、なるほど。不釣り合いな格好をしているから怒っているのだな。)
これなら皇太后も自分を追い出してくれるだろう。そう思ったカミーユはふっと笑う。それを見た侍女が何人もへたりこんでいることに、カミーユは気づいていなかった。
「皇太后様。お時間を取っていただきありがとうございます。」
カーテシーをしようとカミーユは思ったが、スカートではないことに気づき、男性の礼を執る。いっそのこと、これからは男のように話してみよう。
「カ、カミーユなのかえ?」
皇太后は目がこぼれ出すかと思うほど、目を見開いている。その姿を見るだけで、カミーユは心のつかえがスッと取れ、思わず笑顔になる。
「ええ。カミーユですとも。どうです?この姿は。」
おどけた様子でカミーユが話す。皇太后はワナワナと震えている。きっと怒って、「王宮から出ていけ」と言われるのだろう。それを期待して待っていると、皇太后は近くの侍女を呼んだ。
「絵師を呼べ。今すぐじゃ!」
絵師を呼んでどうすると言うのだろう。皇太后は下からカミーユを見上げる。
「良いか。しばらくは病だと言うことにしてやろう。部屋から出るな。出ていいのは私のところへ来る時だけだ。わかったな?」
「へ?」
カミーユは淑女にあるまじき声を思わず出してしまった。
絵師の都合がつかず、明日も必ず来るように言われたカミーユは仕方なく部屋へと戻ってきた。
どうやら自分は失敗したらしい。こんな姿になってしまったから、逆に王宮から出してはいけないと思われたようだ。
仕方ない。王太子に直接嫌われる方法をさらに考えなければならない。カミーユは他に何かないかと考えた。
『女はお茶会でもして社交をしていればいいんだ。書類作業なんてできるわけがない。』
そんなことをシャールが言っていたのを思い出した。
「そうか。仕事をすればいいのか。」
病で部屋にこもっているのなら、仕事をしても問題はないだろう。そう思ったカミーユは宰相である父親を呼んだ。急ぎの用だと聞いて、慌ててやってきた父親は、カミーユを見て一瞬放心し、その後怒り出した。
「おおおおお、お前。なんなんだその格好は!」
ひょっとすると、このまま家に連れ帰ってくれるかもしれない。そう思ったカミーユは正直に話すことにした。
「シャール様は、鈴を転がしたような声をお持ちの女性が好みなのです。かといって私から婚約破棄は言い出せません。ですから、髪を切ったら追い出してくれないかと思ったのです。でも皇太后様に王宮から出るなって言われてしまって……。」
「皇太后様に引き止められた、だと?」
カミーユの言葉に、父親は顔を赤くしたり青くしたりと忙しい。
「部屋から出ないように皇太后様に言われております。そこで、このままここにいるのも申し訳ないので、お父様の仕事を少し手伝わせてはいただけませんか?シャール様は私に仕事を任せてはくださいませんので。」
カミーユをじっと見て、父親は肩を落とす。
「お前は学園にいた時から優秀だったからな。まさかこうなるとは思わなかったが。分かった。できそうな仕事から回してみよう。」
「お父様、ありがとうございます。」
やはり父は自分のことを理解してくれているのだ。そう思ったカミーユが微笑むと、父親は複雑な顔をした。
「息子だったら……。いや、今さらだな。お前の生きたいように生きなさい。」
次の日から、カミーユの毎日は激変した。午前中は父の仕事を手伝い、午後は皇太后のところでお茶をする。時折王太子から連絡があったが全て無視をした。さっさと愛想を尽かしてくれればいいのに。
そんな毎日が続いたある日。今日もカミーユは皇太后の部屋でお茶を飲んでいた。皇太后と親しい伯爵夫人も一緒だ。カミーユを見て、なるほどと深く頷いていたのが気になった。
「カミーユ様は、歌を歌われないのですか?」
思いついたように伯爵夫人が聞いてくる。カミーユは首を傾げた。
「声が低いので、あまり歌に自信はないのですが。」
「ぜひ、ぜひ歌っていただけませんか?」
妃教育の時には「人前では歌わない方が良いでしょう。」と言われていたのだが、そこまで言われては、断りづらい。
「では、少しだけ。」
最近流行りだという恋歌を少しだけ歌う。その途端、伯爵夫人が自分の顔を扇子で隠した。やはり自分の声は人に聞かせられないもののようだ。
「お耳汚しでございました。」
落ち込んだカミーユが謝ると、伯爵夫人は何度も首を横に振る。
「素晴らしい歌でございました。他の人には聞かせたくないと思うほどに。」
そこにバタンと扉を開けて入って来た者がいた。シャール王太子だ。
「祖母上!最近毎日のように男を呼び寄せていると聞きました。どういうことなのか説明していただきたい。」
そう言うとカミーユを睨みつける。どうやら自分の婚約者だとは気づいていないようだ。とうとう、王宮を出られる日が来たのだ。
皇太后が冷ややかに言う。
「お前にとやかく言われる覚えはない。聞いた話だと婚約者でもない女に高価な贈り物をしているそうだな。」
それを聞いたシャールがふてぶてしく笑う。
「それはカミーユが悪い。あの女ときたら、私には連絡を寄越さず、毎日部屋に男を連れ込んでいる。ほら、この男ですよ。風紀を乱すような奴らは、さっさと王宮から追い出すべきではありませんか。」
自分の部屋を出入りしているのだから当たり前である。そもそも風紀を乱しているのは誰だ。
でもちょうど良い。カミーユは立ち上がった。
「カミーユ・シンクレアを王宮から追放するということでよろしいですか?」
「ああ。」
「では、こちらにサインを。」
カミーユは前から準備してあった誓約書を渡す。婚約を破棄し、カミーユを二度と王宮に立ち入らせないと書いてあるものだ。
「随分準備がいいんだな? ああお前、あの女が好きなのか。お前もいなくなるなら一石二鳥だな。」
「待てシャール!それにサインをしてはならぬ!」
皇太后の制止も逆にシャールの手を速めさせるだけだった。
「ほら。」
渡された誓約書を見て、カミーユは笑った。
これで解放されるのだ。
「ではこれで失礼致します。荷物は後ほど家の者に取りに来させますので。シャール様。あの女性とお幸せに。」
「え?」
その時のシャールの顔をカミーユは一生忘れないだろう。
ドアを開けたところに、いつか見た鈴の音の声の女性が立っていた。カミーユは彼女にも笑顔を向ける。何しろ自分を解放してくれたのだ。
「ありがとう。君が女神に見えるよ。」
小さく彼女に囁くと、彼女はなぜか惚けた顔になって壁にもたれかかってしまった。
そしてカミーユはさっさと王宮を出たのだった。
数日後。カミーユの前には山のように積み重ねられた手紙が載ったお盆があった。
「これ全部お茶会の招待状です。皇太后からも来ていますよ。」
カミーユは侍女の持ってきた手紙の山を開けようともせず肩をすくめる。
「婚約破棄された傷物を見ても楽しくないでしょうに。それよりも、仕事を片付けないとね。」
実家に戻ったカミーユに、父は領地の経営を補佐するようにと仕事を割り振ってくれたのだった。かの伯爵夫人からは、報酬つきで、サロンで演奏をしてくれないかと頼まれている。かつての自分ではなく、今の格好で来て欲しいというのだ。きっとカミーユがさらし者にならないよう、気遣ってくれたのだろう。
「私の周りは優しい人ばかりね。そう思わない?」
「違うと思うけど……。」
小さくそう呟く侍女の声は、カミーユには届かなかった。
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