第八章 第二の家
次に身を寄せたのは、父方の親戚筋だった。
迎えに来てくれたのは、やさしい笑顔の女性で、「うちに来てよかったら、いつまででもいていいからね」と穏やかに声をかけてくれた。
玄関に入ったときの空気は温かく、リビングには柑橘系の柔軟剤の匂いが漂っていた。
(ここなら……)
そんな淡い期待が、僕の胸にひとすじの光を灯した。
けれど、もうひとり。僕と同い年くらいの男の子が、廊下の奥から出てきたとき、その光はゆっくり曇っていった。
彼――秀司は、僕を見た瞬間、言葉にはしなかったが、眉をわずかにひそめた。その反応に、僕の中の何かがすっと冷えた。
「この部屋、今日からふたりで使ってね」
母親は明るくそう言った。
共有された空間にはベッドがふたつ。カーテンの柄も、机も、同じシリーズのものだった。
なのに、その空間に流れる空気は、明らかに均等ではなかった。
引っ越してきた最初の夜、僕は部屋のドアを開けて、軽く頭を下げた。
「……えっと、はじめまして。遠矢です。今日から、しばらくお世話になります」
その言葉に、ベッドに腰を下ろしていた同い年くらいの男の子は、ちらりとこちらを見た。
無言だった。無視とは少し違う。“見た”けれど、“受け取らなかった”。
ほんの数秒後、彼はイヤホンを耳に押し込み、スマホをいじり始めた。
それが、僕に向けられた最初の「反応」だった。
(……まあ、無理もないよな。突然誰かが自分の部屋に来たら、そりゃ戸惑うだろう)
僕はそう自分に言い聞かせ、机の下に持参した段ボールを置いた。
その晩、少しでも打ち解けようと、寝る前のタイミングを見て話しかけてみた。
「好きなアーティストとか、いる?」
「……別に」
短い返事。会話はそこできっぱり切られた。
でも、何も言ってくれないよりはいい。僕はそう思っていた。
しかし、それは希望的観測にすぎなかった。
翌日から、部屋にいる間だけ空気がよどむようになった。
ペンが一本ずつ減っていき、洗濯かごに入れたはずのシャツがベランダの隅で見つかる。
机の引き出しの位置が微妙に変わっていたり、ノートの端が破れていたり。
不自然だけど、証明できない。だから、何も言わなかった。
学校でも妙な空気が広がった。
「遠矢くん、今日、昼休みに校庭で怒鳴ってたって聞いたけど……」
そう言われたとき、僕は何も答えられなかった。
怒鳴る理由なんて、なかった。そもそも誰とも話していなかった。
それでも、言葉は重なるうちに“事実”のように重くなっていく。
その夜、僕は自分を落ち着かせるためにノートを開いた。
机に向かい、ページをめくって、今日見た空の色のことを文章にしようとしていた。
そのときだった。ベッドの上から、ぽつりと声が落ちてきた。
「……ほんと、邪魔だよな。おまえが来てから、母さんがやたら気をつかっててムカつく」
僕は鉛筆を握りしめたまま、顔を上げなかった。
「……」
「なに、家族ごっこでもしてるつもり? あんた、家族じゃねぇから」
心にぶつかった言葉は鋭く、でも、乾いていた。
冷たいというより、熱のない“事実”のようだった。
僕は何も返さなかった。ただ、鉛筆をそっと置いて、ノートを閉じた。
そして目を閉じて、深く息をついた。
――でもその夜の言葉は、まだ“痛み”の範囲に収まっていた。
数日後の夕方、彼がわざとこちらにぶつかるようにしてきた拍子に、僕の手からマグカップが落ちて割れた。
彼はその破片を見下ろしながら、吐き捨てるように言った。
「知ってるよ。お前んち、事故で死んだんだろ? なんか変に納得したわ。お前って、どこか……そういう空気、あるもんな」
頭の奥で、何かが“かちん”と音を立てた。
心がぐらりと揺れた瞬間、体の奥が熱を帯びる。思考より先に、体が動いていた。
「きっと親も、変な奴だったんだろ。ああいうふうに死ぬのって、なんか……そうなるべくして、みたいなさ」
――ぱしん。
反射的に放たれた平手打ちが、鋭い音をたてて空気を裂いた。
秀司は頬を押さえ、唖然とした表情でこちらを見た。
僕は、息を吸うことも忘れて、立ち尽くした。
けれど、言葉が止まらなかった。
「うちの家族のどこが変だっていうんだよ……」
声は震えていた。けれど、止める気はなかった。
「母さんは、誰よりもきれいだった。声も、笑い方も、全部優しくて……
父さんだって、どんなに疲れてても俺の話を聞いてくれた。格好悪いとこなんか、一度も見たことなかった。優しくて、ちゃんと怒ってくれて……誰よりも、自慢の家族だったんだよ……!」
言っているうちに、涙がぽろぽろと落ちてきた。
視界が歪み、言葉がところどころ途切れた。
「勝手に汚すなよ……! 何も知らないくせに……! なんでお前にそんなこと言われなきゃなんないんだよ!」
机の端を握りながら、僕は必死で立っていた。
「それに……お前もさ、つまんない嫌がらせばっかしてないで、なんかあるならちゃんと直接言えよ! むかつくなら、そう言えよ! お前なんかにうちの親が気を使っているのが面白くないって、そう言ってくれたほうがまだマシなんだよ……!」
沈黙のなか、秀司が鼻をすすった。泣いていた。
「なにそれ……キモいんだよ、ほんとおまえ……!」
言葉とは裏腹に、彼の表情は混乱していた。戸惑いと苛立ちが入り混じったような顔だった。
そのまま彼は部屋のドアを開けて、階段を駆け下りていった。
階下から、彼の叫ぶ声が聞こえた。
「お母さーん! あいつ……あいつ、俺のこと殴ったー!!」
階下から響いた秀司の声に、僕は部屋の中心で立ち尽くしていた。
自分の手がまだ温かい気がした。呼吸のしかたが、よくわからなかった。
どうして、こんなことになったのか。いや、わかっていた。
わかっているのに、どこにも持っていけない怒りと悲しみが、胸の奥でずっと震えていた。
夜が明けても、僕はほとんど眠れなかった。
ふと窓の外を見ると、薄曇りの空が広がっていた。世界は相変わらず、静かに回っていた。
リビングに降りると、親戚の女性――秀司の母が、食卓でコーヒーを飲んでいた。
目の下にうっすらとクマができていて、眠れなかったことはすぐにわかった。
僕が椅子に座ると、彼女はしばらく黙っていた。
その沈黙が、逆にすべてを語っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……昨日のこと、ね。秀司から聞いたよ」
僕は視線を伏せたまま、小さくうなずいた。
「もちろん、何かあったんだとは思ってる。たぶん、あの子も悪いことを言ったんだろうなって、わかってるつもり。でも……」
言い淀んだ声は、どこか責任をかばおうとしているようでもあった。
「だけど、やっぱり、手をあげるのは……難しいわね。うちは……少し、これ以上のことに対応できる余裕がないの。ごめんね」
彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。
“あなたが悪いわけじゃない”という言葉を飲み込んで、“でも、受け入れることもできない”と伝えていた。
「遠矢くん……少し、考えたんだけどね。やっぱり、他にも預かってくれるところを探そうかと思って」
声は柔らかかった。でも、決して変わることのない“結論”がそこにあった。
「昨日、ちゃんと話を聞けてればよかったんだけど……
あなたも、ずっとがまんしてたんだよね。……ごめんなさい」
僕は、首を横に振った。それが、精一杯だった。
食卓に置かれたトーストとマグカップ。ミルクの匂い。
すべてが“普通の家族の朝”だった。でも、そのなかに僕の居場所はなかった。
ドアの向こう、階段の上から秀司がこっちを見ていた。
その頬にはまだ、うっすらと昨夜の痕が残っていた。
目が合っても、彼は何も言わなかった。ただ、すぐに目をそらした。
僕は再び、移動することになった。
今度は、どこへ行くのだろう。誰が待っていてくれるのだろう。
けれど、期待よりも先に、不安のほうが先を歩いていた。