第七章 第一の家
玄関のチャイムを押すと、足音がトントンと近づいてきた。
中から顔を覗かせたのは、小さな男の子だった。
彼は僕を見上げ、何も言わずにそのまま廊下を走り去った。
「ごめんね、勝手に出てくるから……」
母の従姉妹――“おばさん”はそう言いながら、靴を脱いで促した。
「おじゃまします」
靴をそろえて上がったとき、廊下の奥から中学生くらいの女の子がひょっこりと顔を出した。
彼女は僕の姿をちらと一瞥すると、すぐに視線をそらした。
(……そうだよな)
いきなり“親戚”が増えたら、戸惑うのも当然だ。
僕は、ゆっくりと荷物を抱え直して頭を下げた。
「……こんにちは。遠矢っていいます。しばらく、お世話になります」
声が少しだけ震えていたけれど、丁寧に言えた。
顔を上げると、女の子は少し驚いたような顔をして、ほんの少しだけ頷いた。
「ねえ、リビング行こ」
おばさんの声に促され、廊下を進むと、夫――おじさんらしき人が新聞を読んでいた。
僕が挨拶すると、「ああ、よろしく」とだけ言って、すぐに目線を戻した。
どこか気まずい沈黙が流れた。
でも、僕は構わずに、もう一歩前に出た。
「……僕、料理とか掃除、わりと手伝えます。学校のことも、遅れないようにがんばります。何かできることがあったら言ってください」
言葉を尽くすことで、自分の存在を許してもらえる気がした。
小学生の男の子がそっとこちらを見ていた。
僕が笑って手を振ると、ちょっとだけ首をかしげて、またリビングの奥へ隠れてしまった。
「……とりあえず荷物置いて。部屋、こっちだから」
おばさんがそう言って階段を上がりはじめた。
僕は黙ってうなずき、その背中を追いながら、胸の奥をそっと整えていた。
“はじめまして”から、やり直すつもりだった。
遠くから来た僕が、少しでも“ここにいてもいい”と言ってもらえるように。
どちらかといえば“静かな家庭”という印象だったが、僕がその輪に加わった瞬間、何かがわずかに歪んだ。
「お風呂は最後に入ってね」
「洗濯物は分けていいかな」
「朝ごはん、パンしかないけど……好き嫌いなかったよね?」
誰も直接的に拒絶するわけではなかった。
それでも、何かしらの“間”があるのを、身体が敏感に察知していった。
ある晩、台所の冷蔵庫を開けると、プラスチックのプリンが2つ並んでいた。
そのうち1つには――黒の油性ペンで、大きく「みさき」と名前が書かれていた。
それは、この家の娘の名前だった。
もうひとつには何も書かれていない。けれど、それを取る勇気が出なかった。
(書いてなくても、取ったら駄目なんだろうな)
そう思って、冷蔵庫をそっと閉じた。
その翌日、部屋の隅でひそひそと話す声が聞こえた。
「ねえ、あの子っていつまでいるのかな?」
「さあ……でも、家計きつくなるのに、ほんと困るよね」
「うち、別に余裕ないのに……なんか、気疲れする」
聞いていないふりをした。
イヤホンもしていなかったが、何も聞こえなかったふりをした。
そして夜、布団に潜って、顔を背けて、ようやく小さく声を漏らした。
「……ただいま」
誰も言い返さない“家”で、自分だけが言葉を発するのが、こんなにも虚しいなんて知らなかった。
その家での生活は、日が経つごとに息苦しくなっていった。
会話は増えない。食卓では、できるだけ物音を立てないように箸を持ち、トイレの使用時間を意識しながら暮らした。
でも、いちばん寂しかったのは――
誰も、僕の“名前”を呼ばなかったことかもしれない。
「ねえ、そっち、終わった?」
「あ、おかわり……いる?」
用事のあるときにだけ、ふわりと向けられる声。
けれど、“遠矢”という名が出ることはなかった。僕は、そこに“いない誰か”のようだった。
本当は、誰でもよかった。ただ、「おかえり」と言ってほしかった。
ほんの少しだけでいい、気づいてほしかった。
でもその願いさえ、この家では“迷惑”に変わるような気がして、何も言えなかった。
夜中にふと目を覚ますと、スマホの画面が青白く灯っていた。
通知はない。ただ、過去に撮った写真フォルダを無意識に開いていた。
――父と母が、僕を抱いて笑っていた。
何気ない日常の一枚。撮った日を覚えている。
あの日、父はプリンを買って帰ってきて、母に「また食べすぎ」って笑われていた。
あの日は、名前なんて書かれたことなかったな。
「全部遠矢のだからねー」と、にこにこ言っていた母の声が、耳の奥に残っていた。
今いるこの家では、プリンは“自分のもの”じゃなかった。
笑われることもなければ、叱られることもなかった。
それが、こんなにも寂しいことだとは思わなかった。
ある晩、洗面所のタオルを取りに階段を降りたときだった。
廊下の奥、キッチンとつながる扉の隙間から、電話の声が漏れていた。
「……うん、そう。いや、もう正直、限界。うちでもこれ以上は無理だよー……。子どもたちにも気を使わせちゃってるし……やっぱ他を探してもらえないかな」
聞き覚えのある声だった。
この家の“母親”――僕を引き取ってくれた親戚の声。
「もちろん、かわいそうなのはわかってるよ?でも正直、今のうちの状況でそれどころじゃ……」
そこから先の言葉は、うまく聞き取れなかった。
けれど、十分すぎるほど伝わっていた。
“かわいそう”という言葉が、まるで遠くの誰かを慰めるように使われることが、こんなにも冷たく響くなんて、知らなかった。
タオルはもうどうでもよくなっていた。
そっと足音を殺して階段を引き返す。部屋のドアを閉める音さえも気遣うように。
布団に潜ったあと、何も考えないように目を閉じた。
けれど胸の奥が、ひりついていた。
(やっぱり、“ここ”にも僕の居場所はないんだ)
翌朝、いつも通りに挨拶をして、空気のように食卓を囲んだ。
だけどもう、“他人の家”にいるという感覚が、心の隅ではっきりと輪郭を帯びていた。
その数日後だった。
別の親戚から「一度うちへ来ないか」と連絡があったのは。