第三章 始まりの光
目が覚めると、真っ白な天井が見えた。
いや、視界がぼやけていて、それが“天井”だと認識するまでに、数秒の時間がかかった。光が柔らかすぎて、輪郭が溶けていた。まるで、夢の続きにいるようだった。
身体が重い。というより、自分の体が自分のものではない感覚。指先に力が入らない。声も出ない。視線を右に向けようとするだけで、信じられないほどの労力を使う。
(……なに、これ……?)
かすかに聞こえる機械音。柔らかな衣擦れの音。遠くで誰かが話す声。それらすべてがどこか“こもって”聞こえた。体の内側で、自分という存在だけが微かに震えていた。
しばらくして気づいた。自分は、ガラスの柵のついたベビーベッドの中にいた。小さな布に包まれ、ほとんど動けない。
(まさか……)
私は、赤ん坊になっていた。
現実とは思えなかった。だが、まばたきをするたびに涙が滲み、喉の奥が小さく鳴るたびに自分が“生きている”のをはっきりと感じた。
本当に、転生してしまったのだ。
マンガやアニメの中でしか見たことがないような現象が、自分の身に起きているという事実に、頭の芯がぼんやりしてくる。でも、これは確かに現実だった。赤ん坊としての五感を通して、この世界は確かに私を受け入れていた。
そのとき、視界の隅に、誰かが座っているのが見えた。
白いブラウスに細身のカーディガン。柔らかそうな頬と、形の整った唇。長い髪をゆるく結った女性が、こちらを見下ろして、微笑んでいた。
とても優しく、どこか懐かしい。けれど、間違いなく初めて見る顔だった。
――ああ、この人が……“お母さん”なんだ。
そう思った瞬間、胸の奥からじわりと何かがこみ上げてきた。
その女性――母は、両手で私を包み込むように抱き上げた。腕はあたたかく、頬に触れる彼女の肌は、涙がにじむほど心地よかった。
「……遠矢。ようこそ、うちの子になってくれて、ありがとうね」
彼女の声は、ふんわりとした風のように耳に届いた。
その瞬間、涙が溢れた。赤ん坊の体は感情を隠すことができない。泣こうと思ったわけではないのに、堰を切ったように小さな嗚咽が漏れた。
愛を知らなかったわけではない。けれど、こんなにも自然に、ただ存在しているだけで注がれる“愛情”を、私は忘れていた。
あの審判の間の記憶が、ふと脳裏をよぎる。
――忘れるな。この出来事を口にすれば、心臓発作で死ぬ。次は、修行場だ。
私は小さく、心の中で頷いた。
だからこそ、今この腕の中のぬくもりを、何より大切にしようと思った。
これは、新たな物語の始まりだった。
柔らかな抱擁の中、私は眠ったり目を開けたりを繰り返していた。生まれて間もない体は、自分の意思とは関係なく眠りに吸い込まれ、ふとした瞬間に目を覚ます。
光がぼんやり揺れ、知らない音と匂いと手ざわりが次々に押し寄せてくる。けれどそのすべてが、やわらかく、ぬるく、そして心地よかった。
しばらくして、廊下のほうから足音が聞こえた。早足で――いや、走っているような足音だった。
バン、と扉が開いた。
その瞬間、「あっ」と思う間もなく、入ってきた男が足をもつらせて、見事に床に倒れ込んだ。病室の白い床に、スーツ姿の男が大の字で突っ伏している。
母が「ちょっと!だいじょうぶ!?」と笑いながら駆け寄った。
男は何事もなかったかのように顔を上げ、こちらに向かって満面の笑みを浮かべていた。
……どんくさい。
思わず、そう思ってしまった。赤ん坊の頭でそんな感想を抱いてしまうなんて、と思う一方で、彼の笑顔はまぶしく、まるで太陽のようだった。歯が全部見えるほどの笑顔。額にはうっすら汗がにじみ、ネクタイは曲がり、靴の先には小さな擦り傷ができている。だけど、その人の目は、まっすぐこちらを見ていた。
「会いたかったんだよ、遠矢」
男は私を覗き込みながら、目尻に小さな皺を寄せて言った。
その表情を見た瞬間、私はすぐに理解した。
――ああ、この人が、父親なんだ。
母はそんな彼の姿を見て、大笑いしていた。腹を押さえて、涙をにじませるほどに。
そんなふたりの笑い声に包まれながら、私は初めて、この新しい“家族”というものを感じ取っていた。
自分を見て、こんなにも笑ってくれる人がいる。待っていてくれた人がいる。
私は、確かにここに生まれ落ちたのだと、心のどこかでそっと思った。