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死後の審判  作者: 真冬
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第二章 白の間

目を覚ましたとき、私は知らない天井を見つめていた。

いや、天井というには奇妙だった。美術館のドームのように丸く、中央からはシャンデリアが滝のように光を滴らせていた。無数の透明なガラスが重なり、光が天井に反射して揺れている。それはまるで、現実のものとは思えないほど静かで、美しかった。

私は、ゆっくりと身体を起こした。柔らかい椅子に座っていた。椅子は深い緑色をしていて、見る角度によって質感が変わる――布でもなく、革でもなく、しかしぬくもりだけはある不思議な素材だった。

部屋は広く、四方を乳白色の壁が静かに囲んでいた。窓がひとつ、大きく開かれている。そこから、柔らかな光が差し込んでいた。

中央にある机は透明な素材で作られており、天井の光を受けてかすかにきらめいている。その表面には一切の装飾も傷もない。ただ、完璧な静寂と清潔がそこにあった。

ここは、どこだ。

私は死んだのではなかったか。いや……助かったのか?

戸惑いが胸を満たしていく。喉は渇いているのに、声が出ない。立ち上がる足が、地に着いているのかさえ怪しく思えた。

私はふらふらと窓際へと向かった。そこから見える光景が、私の思考を凍りつかせた。

――下に、私がいた。

窓の下は、病院のような場所だった。無機質なライトに照らされて、手術室らしき一室。その中央に、白いシーツに半身を覆われた自分の姿が横たわっていた。顔は青白く、目は閉じている。

周囲には、青い手術着を着た医師と、数人の看護師。

医師は小さく首を振り、看護師は両手を合わせるように目を伏せていた。

私は思わず後ずさった。頭が混乱する。これは何だ。夢か、幻か。

――じゃあ、今ここにいる自分はなんなんだ?

そのとき、静かに扉の開く音がした。

振り返ると、ひとりの老人が立っていた。

背は高く、肩幅も広い。上質な白のスーツを身にまとい、背筋を伸ばしてゆっくりと歩を進めてくる。銀色の髪は後ろに撫でつけられ、顎には立派な髭が蓄えられていた。まるで、神話の書物に登場する神官のようだった。

彼の足音だけが、静寂の中に響いた。

「ようこそ、三沢誠司さん」

穏やかな低音だった。しかし、その声は体の芯にまで染み込んでくるような不思議な響きを持っていた。

私はただ、言葉も出せずにその場に立ち尽くしていた。

老人は、扉の前に立ち止まると、静かに微笑んだ。そして、部屋の奥――ひときわ高い位置に設けられた一段上の席へとゆっくり歩いていき、深く腰を下ろした。その動作の一つひとつに威圧感はない。それでも、彼の存在そのものが、場の空気を静かに引き締めていく。

「ここは、『審判の間』と呼ばれている場所です。あなたが生きていた世界と、死の先にある世界。その中間に位置する場です。」

老人の声は穏やかで、どこか懐かしささえ漂わせていた。深く澄んだその音色は、三沢の胸の奥に、じわりと染み込んでいくようだった。

「……審判?」

三沢は、声を震わせながら問い返した。頭の中には、これまで聞いてきた“死後”のイメージが渦巻いていた。地獄の門の前に立つ閻魔大王、白黒の帳簿、罪の軽重。あるいは、蓮の台座に座る仏たちの慈悲深い微笑。

「それなら、閻魔大王が裁く世界じゃないのか? あるいは仏様が導いてくれるとも聞いたぞ。……それとは違うのか?」

老人は少し目を細めると、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

「それらは、すべて正しい。だが同時に、すべてが不正解でもあるのです。」

その曖昧な答えに、三沢はさらに困惑した。

「どういう意味だ?」

「人は皆、自らの人生を生きる。その道のりで培ってきた思想、信仰、願い――それらすべてが、その人の“死後”を形作るのです。仏を信じた者には仏が、閻魔を信じた者には閻魔が、慈母を想った者には母の姿が、現れる。それは外から与えられるものではなく、自らの内から映し出される“あの世”なのです。」

言葉の意味を噛みしめるように、三沢は黙り込んだ。すると老人は視線を投げずに続けた。

「だが、君は違う。君の人生には“完了”がなかった。意志も、成し遂げたものも、誰かに託すものすら生まれなかった。君はまだ、“最期”に手をかけていない。」

老人の目が初めて真正面から三沢をとらえた。深い海のような瞳だった。

「本来、人は長い年月をかけて、自らの役割と向き合い、他者と関わり合いながら、自分にしかできない何かを残して、旅立っていく。得意なこと、苦手なこと、喜びも痛みもすべて、その過程で与えられている。」

「だが君は、その過程の途中で、不意に終わってしまった。……そのため、ここに呼ばれた。」

三沢は、自分の手を見下ろした。指先は確かに動いている。だが、生きているという実感は、そこになかった。

「……つまり、俺はまだ“死んでない”ということか?」

「そうとも言えるし、そうでないとも言える。いま君は“判断の時”に立っている。ここで過去を見直し、未来を選ぶことができる。それがこの部屋の役目なのです。」

老人の声に一切の強制も圧もなかった。ただ、どこまでも静かで、公平だった。

「どう生きるべきだったか。どう死ぬべきだったか。そして、これから君が、どうありたいのか――君自身が、それを決めなければならないのです。」

ガラスの机に、誰の手も触れていないのに、静かに光の筋が浮かび上がった。それは、三沢の過去の記憶をたどるように、ゆっくりと場の空気を変えていった。

三沢は、窓の外にもう一度目をやった。手術室には変わらず自分が横たわっている。その姿を見つめながら、彼ははじめて、自分の人生を“振り返ろう”とする意志を持ち始めていた。

「……私は、これからどうなるのだ?」

三沢が口に出したその問いは、重く静かに室内に沈んだ。まるで、世界の淵で言葉が跳ね返らずに吸い込まれたようだった。

老紳士はゆっくりと微笑んだ。目尻に深く刻まれた皺が、ごくわずかに動く。彼は立ち上がることなく、滑るような所作で背後の一段高い席へと向かい、威厳すら帯びた優雅な身のこなしで腰を下ろした。

「まもなく、この場に“死後の世界”の代表者たちが集います。議題はもちろん……君についてです。」

その瞬間だった。

部屋を囲むように配置された椅子のひとつひとつに、光が――柔らかく、あるいは激しく――ともり始めた。光はさざ波のように揺れ、まるで空間そのものを折り曲げて出現するかのように、そこに“何か”が現れていく。

姿はさまざまだった。二足歩行のものもいれば、羽根を持つ者、煙のように形を保たないものもいた。

そのうちのひとつは、まさに三沢が「閻魔大王」として思い描いていた姿だった。巨大な顔、怒りに満ちた眉、紅蓮の衣。だがその瞳には、意外なほど静謐な観察の光が宿っていた。

また別の椅子には、仏のような光の存在がいた。性別も年齢も定かでなく、しかしその瞼の奥にある慈悲が、部屋全体に温かな波動を放っていた。

他には、青白く輝く半透明の獣のような存在、六本の腕を持つ女性の形をした神、あるいは人の姿をとってはいるが瞳の奥が星のように煌めいている異形の者もいた。

そのすべてが、何も言葉を発さないまま、ただ三沢を見つめていた。

視線が刺さるわけでも、睨まれるわけでもない。

それでも、魂の奥まで裸にされているような感覚だった。彼らの目は、表層の善悪や肩書きではなく、“生き方の濃度”そのものを見透かしている。

三沢は思わず背筋を正した。体の内側がふるえ、唇の奥が渇いていく。

「……さて、君も座りたまえ」

老人の声が、意識の深い場所に語りかけてくる。

三沢はわずかに躊躇いながらも、中央にある緑の椅子へと歩を進めた。

その椅子は、ただ見たときよりもさらに不思議な存在だった。質感も冷たさも、重さもなかった。だが、腰を沈めると、身体がすうっと安らかに包まれていくような錯覚があった。まるで、かつてどこかで抱かれたことのある記憶が、椅子というかたちで再現されているかのようだった。

ガラスのように透明な机の表面に、光の筋がゆらゆらと浮かびはじめる。まだ誰も語っていないのに、空間は“語り”の準備を始めていた。

老紳士は、静かに目を閉じた。そして、再び開くと同時に、低く、明瞭な声で宣言した。

「――さて、諸君。会議を始めよう」

まるで古代から続く儀式の続きを読むかのように、その言葉に呼応して、周囲の者たちが小さくうなずいた。

神々しくも恐ろしく、理解できる言語を超えた存在たちの前で、

三沢の過去と、生き様と、これからの在り方が問われる。

その瞬間、彼の“死”がようやく「意味」を持ちはじめたのだった。

「まず、諸君は彼について、どう思う?」

老人が静かに問いかけると、部屋の空気がぴたりと止まった。光をまとった存在たちは互いに言葉を交わすでもなく、それぞれの意思で応じるか否かを決めているようだった。

やがて、仏のような穏やかな存在が、静かに光を強めながら語り始めた。

「彼は、これまで、さまざまな場面でつらい思いをしてきました」

その声は、まるで傷口にそっと手を添えるような、包み込むような優しさを帯びていた。

「孤独の中でも、誰かを傷つけようとはせず、ただ自分の居場所を探していた。光の見えない場所にいながら、彼はそれでも前へ進もうとしていた。……死後の世界で、どうか穏やかに過ごせるよう導くべきです」

語尾が静かに消えると、部屋のあちこちから拍手が起こった。手のある者もない者も、意志で音を立てているようだった。その音は、暖かく、静かに三沢の胸の奥に届いた。

(……認められた……?)

束の間、三沢の胸にわずかな温もりが広がった。それはほんの一滴の希望だった。

だが次の瞬間、それはかき消された。

「なるほどな。……では、君はどう思う?」

老人が別の存在に視線を向けた途端、空気がピリリと張り詰めた。

低く、割れた鐘のような声が響いた。

「それは――こやつ自身の問題だろうがよ」

声の主は、明らかに“閻魔”のような姿をしていた。巨大な体、血のように赤い衣。目を細めて笑うその顔は、慈悲ではなく威圧を含んでいた。

「自分自身に甘いから、そういうふうに沈んでいく。社会に適応できぬと嘆き、他者を拒み、何も変えようとせず、ただ“苦しかった”と口にする。それで済むと思っているのか」

その言葉は、まるで鈍い刃物のように三沢の胸を裂いた。

「死後は千年ほど、修行に投じさせるべきだ。心を鍛え直さねば、あの世でも同じことを繰り返す。――釜茹でにでもしてやれば、少しは現世のぬるさを思い知るだろう」

そう言うと、閻魔のような存在は豪快に笑った。その笑い声は、人間の耳には耐え難いほど重く、乾いていた。

三沢の肩が無意識に震えた。

「……ひ、人を……茹でる……?」

息が詰まるほどの恐怖が、喉の奥を塞いだ。ふざけているように聞こえたのに、彼の表情には一分の迷いもなかった。

「だいたい、最近の人間ときたらどうだ。インターネットとやらが普及したせいで、顔も名も出さずに他人を傷つける。思いやりも礼節もなく、口先だけで責め立て、叩き、嘲笑う。――その悪意に耐えられず沈んでいく者も、確かにいる。だが、そういう空気に“染まる者”が問題なのだ。軟弱で、他者の顔色ばかり伺って、自分を保てないような、情けない魂が多すぎる!」

一言ごとに、椅子に座るいくつかの存在が力強くうなずき、拍手が巻き起こった。

それは冷たい評価だった。情け容赦のない正論だった。

三沢の中で、小さな希望が音を立てて崩れていく。

(――俺は……やっぱり、ダメなのか)

何も言い返せなかった。

たしかに、逃げたこともあった。自分を変える努力を、途中で諦めたこともあった。だからこそ、彼の言葉は胸を抉った。

視線をあげると、また何人かの存在が拍手を送っていた。

判断の場において、同情や慰めは足場にならない。

この場には“感情”ではなく、“真実”が持ち込まれているのだ。

三沢の心はざわめいた。己の生き方が、こうして“材料”にされていく感覚――それは、どんな痛みよりも鮮烈だった。

「――君自身の意見を、聞かせてくれ」

老紳士は静かに言った。圧も強要もなかった。ただ、真正面から問われていた。

その瞬間、机の前に立てられたマイクに、すっと小さな光が宿った。

それは、「さあ、話せ」と無言で促してくるようだった。

三沢は、一瞬目を伏せた。

視線を感じた。周囲を囲む存在すべてが、自分ひとりに意識を向けているのがわかった。

仏のような者の慈悲深いまなざしも、閻魔のような者の鋭い眼差しも、そのほか名も知れぬ姿をした者たちの視線も――。

三沢は何かを言おうとした。

けれど、喉が音を拒んだ。マイクを持つ手が震えていた。

唇が乾き、息が浅くなる。

(……何を言えば、許される?)

(心が弱いせいだと言われた。それは……否定できなかった)

(でも、じゃあ俺は――このまま“だめな人間”として、裁かれるのか?)

言葉にならない焦りだけが、頭の中で渦を巻いていく。

胸が、きゅうっと苦しくなった。情けない、と思った。みじめだ、と思った。でも――

「……怖いんだ」

掠れた声だった。自分の中で何かが外れたような感覚とともに、喉からその言葉が漏れた。

静寂のなかに、それは静かに響いた。

「生きてる間、ずっと怖かったんだ……。誰かと話すのも、自分をさらけ出すのも、間違えるのも、嫌われるのも。何より、自分が“何者にもなれない”まま終わっていくのが、一番怖かった」

誰かが動いた気配がした。だが、三沢は顔を上げなかった。

マイクにだけ向かって、自分の中の奥底と向き合っていた。

「誰かを傷つけたくなかった。でも、本当は自分が傷つくのが嫌だっただけかもしれない。何もできなかった。変わろうとしても、やっぱり怖くて逃げて……それでも、朝は来るし、会社にも行かなきゃいけなかった。そうやって生きてるうちに、もう“何のために”が分からなくなって……」

手が、椅子の肘かけに落ちた。涙がこぼれたわけではない。ただ、重力に逆らう力がすべて抜けていくようだった。

「死んでみて、はじめて思ったんだ。……俺、本当は、誰かに気づいてほしかった。気づいて、できれば、いてほしかった。いてもいいって、言ってほしかった」

その言葉に、誰が反応したのかはわからない。けれど空気がわずかに揺れた気がした。

拍手も、同情も、否定もなかった。ただ、そこには“聴かれている”という確かな感触だけがあった。

三沢は、深く息を吸った。

「俺は……何かを残したかった。こんなふうに、何もできずに、誰にも知られずに終わりたくなかった。だからもし……もし、もう一度やり直せるなら……今度は、“怖くても動ける人間”になりたい。誰かに見てもらえるような……そんな、自分に……」

言葉が途切れた。マイクの光が、すっと消えた。

再び、静寂。

三沢はその場に座りながら、胸の奥に残る“語り終えた”という温もりを、小さく抱えていた。恐怖も、不安も、後悔も、すべてがそこに残っていたけれど――

ほんの少し、息がしやすくなっていた。

部屋の静けさは、霧のように重たく漂っていた。誰も動かず、誰も口を開かなかった。ただ、あの老人――白髪と白髭をたくわえた、あらゆる時代を見てきたような男だけが、ふっと微かに口角を上げた。

それは、笑みというよりも、哀しみを帯びた慈しみに近いものだった。

「――聞いての通りだ」

老紳士の声は、空間にやさしく染み込んだ。語りのようであり、裁きの鐘のようでもあった。

「彼は……確かに、心が弱かった。過度に他者の目を気にし、恐怖に支配され、沈黙を選んできた。だが――」

そこでひと呼吸置いたあと、彼は続けた。

「修行場に送り、千年を費やすほど、魂が汚れているとは思わぬ。無知であったとは言えるが、悪意をもって誰かを傷つけたわけでもない。逃げるように生きたが、それは心が壊れかけていたからだ」

重々しい沈黙のなか、一部の存在たちからうめくような声が漏れた。

高位の存在――観察者にして記録者、裁き手にして案内人たち。

長く、多くの魂の軌跡を見守ってきた彼らの心にも、今は判断のゆらぎがあった。

「しかし」と、老人は言葉を繋げた。「死後の世界で平穏に暮らすほどの“生”を、彼が残してきたとも言い難い。あまりに道半ばであった。何ひとつ、託せておらぬ。誰とも深く交われなかった。心に灯火を持ったまま、誰にも見せることなく、消えていくはずだった」

机の光が一瞬、翳った。まるで、三沢の人生の浅さを映すかのように、輝きはかすかに揺れた。

彼は口を閉じたまま、じっと老人の言葉を受け止めていた。

そして、再び老紳士の声が響いた。

「……ここで、明確な結論を出すのは、難しい。儂とて、断じるには躊躇がある」

全員の視線が、再び彼に集まった。

光を帯びた眼差しと、炎のような怒気、慈愛と疑念が交錯するなか――老人は、静かに宣言した。

「そこで、異例ではあるが……急な事故により命を落としたことを考慮し、“転生”を提案する」

部屋の空気がわずかにざわめいた。

転生――それは通常、“生の完結”を迎えた者にのみ許される循環の恩恵。

判断を保留したまま“再び命を与える”という裁定は、きわめて稀な措置だった。

「再び、あの“生きている世界”へと彼を送る。今度こそ何を為すのか、何を選ぶのか――われらの眼で見届けようではないか」

そして、老人は微かに口元を綻ばせた。

「……わしらにとって、人の一生など、瞬きに等しい。それを見守る時間くらい、与えてやろう」

しんと静まり返っていた部屋に、最初の拍手が響いた。それは仏のような光の存在からだった。

続いて、異形の者たちが次々と、独自のリズムで拍手を重ねていく。煙のような影も、翼を打ち鳴らすように賛同の音を立て、全体にやがて同意の波が広がった。

三沢は、しばらくその音を呆然と聞いていた。

――生きて、いいのか?

誰にも理解されず、誰にも愛されずに死んだと思っていたこの命が、いまここで、別の評価を受けている。

完全な赦しでも、断罪でもない。けれど、機会が与えられた。

「……それでは、これでいこう」

老紳士が手を軽く掲げると、椅子の光がひとつずつ静かに消えていった。

会議が、終わりのときを迎える。

「三沢誠司――多くの苦難があろう。だが、今度は……最後まで、生きよ」

その声が届いた次の瞬間、三沢の身体はふっと軽くなった。

重力が失われ、意識の輪郭がほどけていく。

光が、視界の隅から溢れ始める――

私はいつの間にか見知らぬ場所に立っていた。そこは古びた駅のようでもあり、どこか荘厳な神殿のようでもあった。プラットフォームには鉄の線路が延び、淡く輝く霧が足元を漂っている。天井は見えず、空さえも存在しないのに、そこには明確な“出発の気配”があった。

傍らには例の老人がいた。彼は相変わらず真っ白なスーツを身に纏い、満足げに顎鬚を撫でていた。

「さて、そろそろ時間だ。今からやってくる電車に乗れば、しばらくして眠くなり……気がつけば、君は転生しているだろう」

「……本当に、戻れるんですか?」

私の問いに、老人は少し笑った。

「特別大サービスでな。転生先は“日本”にしてやる。記憶も保持されたままだ。ただし――」

その口調がわずかに低くなった。

「ここで見聞きしたことを、誰かに話した瞬間、心臓発作で死ぬ。そのときは問答無用で修行場送りだ。……言葉を選ぶのだな」

冗談のような口ぶりだったが、その目には本気の光があった。私は小さく頷いた。

ちょうどそのとき、遠くから音がした。金属がレールを叩くような、重く響く音。霧の向こうから一両の電車が滑り込んできた。古めかしい外観の車体には、何の行き先表示もなかった。

「では――達者でな」

老人はにっこりと笑い、ゆっくりと手を差し出した。私は小さく頭を下げて車内へと乗り込む。扉が静かに閉まり、淡い光が車内を満たした。

座席に身体を預けると、どこか懐かしい温もりが背中を包んだ。車窓の外では、老人がこちらに向かって静かに手を振っていた。私は最後にもう一度だけ、彼に小さく手を挙げた。

そして、目を閉じた。

車両がゆっくりと揺れ始めた。まぶたの裏側が、やがて光に満たされていった――。


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