第一章 適応できない世界で
朝の通勤電車。吊革にしがみつく指先が、冷たい。ギュウギュウに詰め込まれた車内で、誰もがどこか遠くを見ている。イヤホン越しの音楽に逃げ込む者、スマートフォンの画面を見つめる者。彼――三沢誠司も、そのなかにいた。ただ、彼の場合は、逃げ場すら持ち合わせていないような感覚だった。
会社では、会話に加わるタイミングをいつも逸する。雑談の輪に入る勇気もない。上司の佐川部長には「もっと主体的に動け」と毎日のように叱責され、同僚たちはその横で目をそらすだけだった。何かを間違えたわけではない。けれど、何かがいつも、決定的に噛み合わない。コミュニケーションとは、ただ言葉を交わせば成立するものではないと、嫌というほど理解していた。
「……あの人ってさ、なんか、こっち見てくるの多くない?」
「うん。ていうか、何考えてるのか分かんなくて、ちょっと怖いよね……」
コピー機の陰、給湯室の扉越しに聞こえてきた、くぐもった声。
はっきりと名指しはされていない。けれど、誰のことを指しているかは明白だった。背中が冷たくなり、足がその場に根を張ったように動かなくなる。
三沢は給湯室に入るタイミングを逸して、そっと踵を返した。
――俺、そんなに気味悪いのか。
言葉にできない感情が、喉の奥に詰まっていく。弁明する言葉も、怒りも、何も出てこない。ただ、頭の中がしんと静まり返っていく。
その日、デスクに戻った彼の目線は自然と下を向いた。パソコンの画面も、壁の時計も、上司の声も、すべてがぼやけて見えた。
昼休みも独り。社員食堂の隅、窓際の席。外の空を眺めながら、冷めたカレーにスプーンを運ぶ。声をかけられたいと思っていたはずなのに、誰かの視線を感じれば、つい肩をすくめてしまう。「俺は、社会に適合できない人間なんだ」――そう心のどこかで呟く自分がいた。
夜、自室の明かりの下で、机に頬杖をつきながらふと浮かぶのは、"このままでいいのか?"という問いだった。しかし、"どうすればいいのか"が、まったくわからない。漠然とした不安と重さだけが、胸に広がっていく。
答えのないまま時間は過ぎて、いつのまにか朝が来る。目覚ましの音に押されて、体を起こし、機械的に身支度を整える。昨夜の思考は、まだ体の奥に澱のように残っていた。駅のホームに立つ。何本も電車が目の前を通り過ぎていくのを眺めながら、ふと、乗らずにここに立ち続けていたらどうなるんだろう、と考える。
毎日、同じ電車に乗って、同じオフィスビルに入り、同じデスクで淡々と仕事をこなす。誰かと笑い合うわけでもなく、心を動かす出来事が起きるわけでもなく、ただ時間だけが、一定のリズムで過ぎていく。
夜、アパートに帰ると誰もいない。蛍光灯の白い光と、静まり返った空間。テレビの電源はつけず、冷えたコンビニの弁当を黙々と口に運ぶ。この味に、もう何の感想も湧かない。
友達はいない。学生時代にいた数少ない知人たちとも、卒業を機に自然と連絡は絶えた。職場の人間とも、必要最低限の業務連絡以外、会話はない。
恋人も、いたことはない。誰かと親密な関係を築く方法も、そもそも自分を理解してくれる人間がこの世に存在するかも、もう分からない。
休日はベッドに沈み込むように眠るだけ。スマートフォンに通知は来ない。目覚めても、あくびを噛み殺しながら天井を見つめ、「今日が何曜日か」よりも「今日をどうやって終わらせるか」だけを考える。
このまま、自分は一生、誰の記憶にも残らずに消えていくのだろうか。
何のために生きているのか。
誰のために働いているのか。
いや、それ以前に、自分は本当に「生きている」と呼べるのだろうか。
そんなことを考えながら、また明日のためにアラームをセットする。そして、眠りにつく。いや、眠ったふりをする。
憂鬱が体の内側で膨らんでいく感覚をただ、じっと耐えて。
その朝も、いつも通りだった。
目覚ましが鳴り、無意識に止める。顔を洗い、ネクタイを締め、コンビニでコーヒーを買って駅へ向かう。何一つ変わらない、倦んだ朝。
信号待ちの交差点。耳にはイヤホン。音楽でも、ニュースでもない。無音のまま、ただ何かを聴いているふりをしていた。
そのとき、風が一瞬、ざわついた。乾いた金属音が頭上から降ってくる。
視線を上げると、隣接する建設中のビルのクレーンが、不自然な角度で傾いていた。空中で揺れる鉄骨材が、軋むような音を響かせたかと思うと、支えを失ったように重力へと引きずられていく。
見上げる間もなく、世界が崩れた。
バキン、と鋼が折れる音。鉄とコンクリートが悲鳴を上げながら空を裂く。視界の端で、落下してくる鉄骨の塊がビルの間を縫うように迫ってくるのが見えた。通りの向こうで、誰かが「危ない!」と叫んでいた。
逃げようとした足は、一歩も動かなかった。
そして、視界が真っ白になった。
身体が宙に浮いたのか、それともただ膝が崩れ落ちただけなのかも分からない。ただ、ものすごい圧と衝撃が体を叩きつけて、肺の中の空気が一瞬で抜けた。
痛みは、あったかもしれない。でも、それ以上に「時間」が止まっていた。音も感覚も、すべてが遠ざかっていく。
その中で、なぜか妙に静かに、思考だけが漂っていた。
――ああ、俺、死ぬのか。
最後に思ったのは、「もっとちゃんと生きればよかった」ということだった。
誰にも何も伝えていない。何一つ成し遂げていない。ただ、流されるように毎日を繰り返し、心の声を押し殺したまま、何も残さずに終わる。
怖さよりも、悔しさが胸の奥にじわりとにじんだ。
こんな終わり方、嫌だ――
けれど、意識はもう、音のない深い海の底へと沈みはじめていた。