影の導き手
春の剣試からひと月が過ぎたある日、ルークたち三人はいつもの丘にいた。
朝の霧が晴れ、太陽が東の山を照らし始めると同時に、木剣の音が連なる。
「足の出し方が違う、ケリー、右じゃなくて半身に体重を……そう、もっと膝を使って!」
「おいルーク、これでどうだ!」
「ベック、それじゃ音が鳴るだけだ。剣が止まってる。肩からじゃなくて腰から打ち込むんだよ」
そんなやりとりが交わされるようになったのは、試合の翌週からだった。
だがその日――彼らの訓練場に、新たな影が現れた。
霧の合間に黒い塊が現れたとき、ベックが警戒心を露わにした。
「うわっ、なんだあれ……犬か?」
丘の斜面を静かに登ってきたのは、漆黒の犬だった。体は大きく、鈍く光る毛並みは野生のそれとは思えぬほど整っている。
ベックとケリーが距離を取る一方で、ルークは表情を変えずにその黒犬を見つめた。
「……ラグス」
その名を呼ぶと、黒犬はぴたりと動きを止め、彼の前で座り込んだ。
「随分と真剣じゃねぇか」
犬の口は動いていない。しかし確かにその声は、ルークの耳にだけ届いた。
「……どうしてここに」
「別に、お前の剣がどれだけマシになったか、見に来ただけだ。少しは“意志”を帯びてきたな。仲間と共にある剣は、鋼よりも脆く、だが時に鋼よりも強くなる」
ルークはわずかに頷いた。ケリーとベックには、ただの黒犬がルークの前でじっとしているようにしか見えていなかった。
「ルーク、大丈夫か? あの犬、ちょっと目つきヤバいぞ」
「平気だよ。こいつは吠えないから」
「そういう問題かよ……」
黒犬――ラグスは、ルーク以外の誰にも反応を示さなかった。呼びかけられても吠えもせず、ただじっとルークを見つめていた。
その後も黒犬は、ときおり丘に現れた。
他の少年たちが怪訝そうに遠巻きに見る中で、ルークにだけ近づき、彼の動きを見守り、時に言葉を投げかけてくる。
「腰が甘い。力を受け流すなら、まず地を掴め」
「振るのではない。導くのだ。敵の重心の先に、お前の剣を置いておけ」
「仲間の位置を忘れるな。集団戦での剣は“孤独”であってはならぬ」
ルークはその教えを、自分の中でかみ砕き、仲間に“言葉を変えて”伝えた。
ラグスは、他者に口を開くことは一切なかった。
少年たちは「ルークが一人であの犬に語りかけている」と思っていたが、次第に気味悪がる者もいれば、逆に興味を持つ者も出てきた。
「お前ら、あれ……ほんとに野犬か? 妙にルークとだけ通じてるように見えねぇか?」
「いや、あいつ……なんか“知ってる目”してる」
やがて、丘には村の道場に通う少年たちが集まるようになった。
ケリーの幼なじみラット、ベックと喧嘩ばかりしていたナリス、村長の次男カイン、そしてルークに敗れたアーブさえも、静かに姿を見せた。
だが黒犬――ラグスは、その中に立っていても、彼らに向けて一言も発することはなかった。
ただ、ルークにだけこう告げた。
「教えるのはお前の役目だ。私は影にすぎん。“伝える剣”は、お前の手で紡げ」
「……わかった」
それ以来、ルークは自身が得た教えを、仲間たちへ伝えていった。彼の言葉には、どこか冷静な重みがあり、教え方にも“筋”が通っていた。
「なんでそんなこと知ってんだ?」
「まあ……ちょっと“変わった師匠”がいるんだ」
と笑ってごまかすその横で、ラグスはいつも草陰に横たわり、瞼を閉じていた。
ある日、激しい打ち合いの末、ナリスがルークに打ち負かされた。
荒く息をつきながら、彼は苦笑する。
「なんでお前だけ、そんな動きができるんだよ……」
その問いに、ルークは木剣を納めてから、こう答えた。
「たぶん、“よく見てる”からだ。剣も、人も」
そのとき、風が吹いた。
ラグスが微かに顔を上げ、空を見た。
誰にも気づかれないほどの、小さな仕草だったが――ルークは見ていた。
そしてその夜、ラグスはルークにだけ呟いた。
「……あいつらの中から、いつか“本物”が現れるかもしれねぇな」
丘の上、剣を振る音が止むことはなかった。
それは、剣の形を通して心を育てる音。
そしてルークのそばには、いつも黒き影がいた。
他者の目にはただの野犬と映っても――
彼にとっては、唯一無二の“師”であり、“導き手”だった。