ラグスとの出会い
ルークがラグスと出会ったのは、道場へ向かういつもの山道から、ふと一本それた細い獣道を辿った ときだった。季節は冬の名残を微かに残した早春。霜の消えかけた地面はぬかるみ、湿った空気に枯葉と腐草の匂いが漂っていた。
踏み込んだ先の茂みに、何かがうずくまっていた。
直感でわかった。あれは犬に似た獣だ、と。
ルークは木剣を手に身構えたが、相手の動きはなかった。よく見ると、血で濡れた毛並みと傷の走った足。荒い息遣いが、湿った風に混じって聞こえてくる。
「……怪我、してるのか」
思わず声が漏れた。相手は大きな黒犬だった。だが、その金色の瞳は、どこか人間めいていた。見下すでも恐れるでもなく、ただ静かにこちらを見つめていた。
ルークは恐れを振り切り、慎重に近づいた。布切れで傷口を縛り、水筒の水をかけると、黒犬は微かに震えたが反撃はしてこなかった。
そのまま数刻、獣の隣に座っていた。風が木々を揺らす音と、自分の鼓動だけが耳に残っていた。
その日、訓練は休んだ。
数日後、村に戻ると、軒下に黒い影が潜んでいた。例の獣――いや、もうそう呼ぶのはためらわれる何か。
「また来たのか、お前……」
返事はない。ただ、あの金の瞳がこちらを見ていた。
村人たちは不審がった。「あの犬は不吉だ」「厄災を呼ぶ」そう言って石を投げる者もいた。けれどルークは、静かに掃き清めた地面に干し藁を敷いた。
やがて夜が来て、静寂が満ちるころ、彼は焚き火のそばにいた。
「礼を言うべきなんだろうな。……傷がふさがった」
その声は、確かに黒犬のものだった。
「……喋った……」
「喋る犬なんて、珍しくもねぇさ。俺はラグス。かつて剣士だったもののなれの果てだ」
「剣士……だった?」
「そうだ。借りを返すために、お前のそばに来た」
ルークは何も言えなかった。ただ、なぜか胸の奥で何かが共鳴している気がした。
それからというもの、ラグスは毎日道場の隅に現れた。人前では吠えるふりをし、誰もいないところで皮肉交じりの助言を残していった。
「その構え、見た目は良いが中身が空っぽだな」
「足運びが甘い。斬られた後で気づいても遅ぇぞ」
最初はラグスのぶっきらぼうな言い回しや、指摘に苛立っていた。だが、ラグスの指摘を何度か聞き、その通りにやってみると、確かに無駄のない動きであり、核心を突いていると感じられた。
力を抜いた踏み出し、相手の重心を見る目。肩の揺れ、目線の意図。すべてが剣に直結していた。
「剣は力じゃねぇ。動きの“前”を読む目と、“先”を誤魔化す体だ」
「読む……誤魔化す……」
「そう。相手の腰が沈んだか、爪先が開いたか。次の動きを教えてくれるのは、相手の身体そのものだ」
ラグスは言った。戦いは“観察”で決まるのだと。だからこそ、見せるな。自分の意図を読み取らせるな。足音、呼吸、目線すら相手に利用される。
「気配を殺して動け。姿は見せても、意志は隠せ」
その助言を受けてから、ルークは訓練の方法を変えた。
ただ型をなぞるのではなく、敵の目になって自分を見るように。自身の剣を“読む側”の視点で見直し、癖を削り、癖を隠す。見られる場所を制御し、視線を誘導し、斬る直前で逆を打つ。
その全てが、剣に意志を宿す行為だと理解した。
春が過ぎ、また次の春が来る頃。ルークの動きは別人のように変わっていた。
まだ力はなかった。けれど、剣に“狙い”があった。無駄な動きが減り、間合いの感覚が鋭くなっていた。
ラグスは言った。
「ようやく“一本”だな」
「え、何が?」
「お前の中に、初めて“意思で振られた剣”が見えた」
それは、剣に魂が灯った瞬間だった。
その夜、ルークは夢を見た。
戦場のような場所で、ひとり剣を構える影。その背中はどこか懐かしく、そして哀しげだった。
『次は……守れるか……』
その声は、風に流れて消えた。
ルークは目を覚まし、そっと呟いた。
「ラグス……」
剣の師匠であり、唯一の友である黒犬は、変わらず軒下で眠っていた。
だが彼の存在は、もうルークにとって“ただの犬”ではなかった。かつて誰かの剣であり、今は自分のためにそこにいる者。
剣を学ぶとは、戦いを知ることではない。
己を知り、他を知り、その間でどう選ぶかを考え続けることだった。
ルークは、ようやくその入り口に立ったのだった。