剣が名を与える村
第一章のはじまり
山に囲まれた谷間に、その村はあった。エリド――剣の名を継ぐ者たちの里。代々、剣で命を護り、剣で生き、剣で死ぬ。それがこの地に根づいた流儀であり、誇りであり、逃れられぬ宿命だった。
五つになれば木剣を持ち、十に満たずして模擬戦に参加する。剣の重みを知り、斬られる痛みを知ることが、“名を持つ者”の第一歩とされた。剣を持てぬ者は、名を持たぬ者。村の記録にすら残らぬ影として扱われる。
ルークという名の少年は、そんな村の孤児院で十の歳を迎えてなお、剣を持つことが許されなかった。身体は細く、腕に力もなく、何より“構え”がなっていないと評された。なんとか自分の剣を手に入れるため、近くの剣術道場裏のゴミ捨て場へ何日も通い、削れた木剣一本を手に入れることができた。
その日、彼は近くの剣術道場の隅に立ちこっそりと中をのぞいていた。中の少年たちは真剣に組み手に興じたり、流派に伝わる型を繰り返していた。型を繰り返していた少年の一人と目が合ってしまい、そそくさと道場から離れた。道場の少年たちの型や動きを思い出しながら、孤児院の裏で素振りを始めた。それから毎日、孤児院での勤めの合間をぬって昼夜を問わず、練習に励んだ。
「鈍剣がまたやってるぞ」「何百回振ったって、あいつの剣には音すらないさ」
そんな声が聞こえても、ルークは顔を上げなかった。ただ、膝を少し曲げ、足を少しだけ開き、呼吸を整えて木剣を振る。力に頼らず、形だけをなぞるようにして。
彼には師もいなかった。誰にも教わらず、ただ目で見て覚えるだけだった。村にあるすべての道場をまわり上手な者の動きを盗み、自分の身体に合うように調整し、ひとり黙々と繰り返す。
陽が西へ傾き、道場の影が長く伸びていく。ほかの少年たちが帰路についたあとも、ルークは孤児院に戻り、ひと振り、またひと振りとひたすら繰り返していた。
泥と汗にまみれ、剣を落とし、膝をつきながら、それでも剣を拾い上げる。
「はあ……はあ……まだ、いける」
その声は誰にも届かない。けれど彼にとって、それは“名”を失わぬための祈りだった。
やがて、夜の風が訓練場を吹き抜ける。冷えた空気が肌を撫で、身体の芯から震えが上がる。限界は近い。
そのとき、背後から低くくぐもった声が響いた。
「また無理しやがって」
振り返れば、黒い犬がこちらを見ていた。筋肉質の体躯、澄んだ瞳。人語を話す不思議な存在――ラグスだった。
「黙って見てろよ、ラグス」
ルークはそう言いながらも、どこか安心したように肩の力を抜いた。
「見てなきゃ、お前は間違いなく三回は死んでたな」
ラグスは鼻を鳴らし、傍らに腰を下ろした。火も灯さぬ闇の中で、ただひとりの剣士と、一匹の犬が並んで夜を迎える。
ルークは泥まみれの手で木剣を握り直した。
「あと十本だけ。そうしたら帰る」
「あと三本で倒れるに一票」
「賭けてもいいよ。負けたら明日、お前の餌を増やす」
「そりゃ楽しみにしてるわ」
ふたりのやりとりには、どこか奇妙な温かさがあった。
ラグスはもともと、王都の騎士団で名を馳せた剣士の魂を持っていた。今は犬の姿を借りてこの村にいる。かつて命を救われた恩を返すため、輪廻の中で“次の器”を探し続けていた。そして今、それがルークであることに、彼自身もまだ確信が持てないまま、ただ見守っていた。
ルークが最後の一太刀を打ち、崩れるように膝をつく。
「ほらな、三本」
「うるさい……ラグス」
ルークは顔を上げる。夜空に星が浮かび、風が草の香りを運んでいた。
この日もまた、誰の拍手もなかった。だが彼にとって、この時間こそが“存在の証明”だった。
剣を振るう限り、自分はまだ名を持っている。
――少年の、その小さな戦いは、誰にも知られぬままに、静かに続いていた。