第9話 きっかけの作りかた
こうなると分かっていたのなら、あの運び込まれた時に治癒の術を掛けなかったか。問われても、エレオノーラははっきり否と言える。
「リオネル様はもう、答えを実践なさっているじゃありませんか」
「俺が? いつのことだ?」
「私には名を聞いてくれました。分からないけれど私のことが知りたいとおっしゃってくれましたよね」
「それはっ」
今日はそれがいくつも重なって、上手くいかなかったのだろう。
エレオノーラはリオネルの手を取ると、優しく包むようにした。
「思い出も記憶もこれからまた作ればいいんですよ。一緒に作りましょう」
「っ!」
リオネルが目を見開いて息を呑んだのがわかった。
それでもエレオノーラは彼に笑いかけて、包んだ手を軽く振るようにして励ましの言葉を探す。
「別人への心配だと感じても、今は素直に貰って力に変える時です」
驚いたような表情のままこちらをじっと見つめていたが、やがて包んでいた手が逆に握り返された。
「えっ、あのっ」
「どうもありがとう、エレオノーラ」
「は、はいっ」
返事をしてさりげなく手を外そうとしたが、まったく上手くいかなかった。握られた手はびくともしないし、外れない。
「リオネル様、そろそろ手を離してください」
直接訴えてみたのだが、さらにしっかりと握られてしまった。
いつの間にか手を握っていたのはエレオノーラだが、どうしてこうなっているのか。
おまけに手を握られているので、二人の距離はとても近くなっている。
まだ馬車は屋敷に着かないのか。視線を彷徨わせ続けるのもなんだか気まずい。
そう感じているのはこちらだけなのか、リオネルはなんだか機嫌が良さそうなまま握った手を軽く振ってエレオノーラの注意を引く。
なんとか知らぬふりをしていたが、振り向くまで手を離してくれる気はないらしい。
諦めて視線を上げて彼のほうを見る。
「ところで、その呼び方はどうにかならないものか」
「どういうことでしょうか」
おかしな呼び方などしていないはず。きちんと敬称だって付けている。
よくわからずにいると、リオネルは口元に不満そうな感情を乗せた。
「なんだか距離があるように感じるから、もっと気軽に読んでもらいたいんだ」
「無理です」
エレオノーラは反射的に答えを返し、ぶんぶんと首を左右に動かす。
「どうして? 君なら呼び捨ててくれて構わないんだ」
「私が構いますし、急に言われても馴染みません」
「それは残念だ」
不満そうに言葉を漏らしたが、それ以上の無理強いなどはしてこなかった。
会話がしばらく途切れたところで、悟られないように横顔をそっと眺める。
黙っている時の彼は、佇まいもほぼ同じなのだ。ただ濃緑の髪だけは整えられていないままなので、そのぶん印象が違う。
(私はリオネル様にどうなって欲しいのかしら)
結婚して嫁いだ時から、呼び方を改めたことはない。彼からも特に指摘はなかったので、ずっと一貫してそう呼んでいた。
彼が変わってしまったからこそ、その呼び方は変えたくないのかもしれない。
もっとリオネルのことを知っていたら、妻だと言えたし対応だって違っていたろう。
しかしエレオノーラは、二年も一緒にいた夫をなんら知らないのだ。
結婚する前も、それから結婚してからも、ずっと……。
***
エレオノーラの家は、リオネルのハルザート家とは違い平凡より少し上くらい位置付けである一般家庭だ。本来であれば、歴史もあるハルザート家との縁談などありはしない。
二年前のこと、そもそも彼とのきっかけだっておかしなものだった。
四つ上の兄が結婚した頃から、実家に居場所は段々となくなっていくようになった。
兄が結婚して義姉となった女性は、どうもエレオノーラのことを嫌っている。それは日々過ごしていくうちに、どんどんと露骨であからさまになっていく。
「早く出ていけばいいのに」
聞こえるところで、義姉が兄に訴えているのは、おそらくわざとだったろう。
エレオノーラはその頃から中央治癒院に勤めていたが、なるべく職場にいるようにしたし、家には最低限しか帰らないようにしていた。
しかしある日唐突に、エレオノーラの部屋は家財ごとなくなった。
仕事から帰ったら、部屋はなんの断りもなく処分され空っぽになっていたのだ。まだ使える家財だってあったろうに、もはや嫌がらせとしか思えない仕打ちだった。
大切にしていたものも関係なく、ぐちゃぐちゃに押し込まれた状態の木箱が二つ。それが残った全てだった。
「酷いです! 急にどうして!」
「子供が生まれるから場所が必要なの、仕方なかったのよ」
まったく仕方ないと思っていない様子で言われて、エレオノーラは呆然と空っぽになった部屋を眺める。
義姉はそんな様子を面倒そうに見て薄ら笑いさえ浮かべて言った。
「なによ、喜ばしいことなのに意地の悪い女ね」
「おめでとう、ございます」
そう言って引き攣った笑みを浮かべるのが精一杯だった。
意地が悪いのは一体どちらなのだ。そう思ったが呆気に取られてしまいそれ以上言い返す気力も湧かない。
木箱を抱えてすぐに出ていくわけにもいかず、家の片隅で途方に暮れるばかりだ。
食事だってこんな状況でエレオノーラの分が用意されているわけない。こんなことになるとは全く思っていなかったので、勤めの給金も大半を兄に渡している。
それでも全く手持ちがないわけではなかったので、まずは街に出ようと家を出た。
木箱のことは心配だったが、すぐには持って歩けない。もう金目のものだって取り上げられているだろう。
「これから、どうしよう」
まだかろうじて救いなのは、勤めはまだしていられるということだ。なんとか食べて寝場所さえ見つければ、働き続けることはできる。
「とはいっても、一体どうしたらいいのかしら」
いくら栄えている王都の片隅でも街に出てすぐ食事と寝場所が見つかるわけがない。その頃のエレオノーラは、十七の娘である。あてもないし、うまく考えることもできなかった。
その上、夕刻過ぎて街に出るのは、あまりに危ないことだ。
女性でも、冒険者など旅慣れていれば別なのだろうが、治癒の術が使えるとはいえエレオノーラは一般人である。
食事を求めて明るい通りに向かった途端、揶揄うように声をかけられた。
「お嬢ちゃん、こんなところでどうしたよ、おじさんたちと一緒に飲むかい?」
「ええと、あの……」
これから飲む割には、男たち三人はもう既にかなり酒臭い息を吐いている。
(どうしよう)
そう思って思わず一歩下がったが、二歩め下がろうとしたところで一度止まった。
これから先だって、行く場所などないのだからなにごとも経験なのかもしれない。
限界に達していたエレオノーラは、世間知らずにそんなことを考えてまず頷いた。
「えっ、どうしたよ嬢ちゃん、そこで頷くなんて正気かい?」
「お酒は飲めませんが、一杯だけならご馳走できます、それでは駄目ですか?」
「いやいや、あきらかに絡んだ俺たちが悪いんだろ」
男たちからしたら予想外のことをしたらしく、目玉が落ちそうなほど驚いている男たちからは、その場で逆に心配されてしまった。
軽い様子の声掛けは、彼らなりの警告も含んでいたのだろう。
「ええと、じゃあおじさんたち一杯だけご馳走になろうかな」
「腹が減ってるんだろ、食事は俺たちが奢ってやる」
「でも、それでは申し訳がありません」
「いいんだいいんだ、なんだか一気に酔いが覚めてきちまった」
結局その晩エレオノーラは、その場で声を掛けられた男三人と酒場に入った。