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第23話 夫の署名


 結局いつの間にか眠ってしまったエレオノーラは、いつもの時間より遅くに目が覚めた。もう普段のリオネルなら出かけている頃合いだが、慌てて食堂に向かう。


「おはようメリル、聞きたいのだけど、リオネル様はもう出掛けてしまったかしら?」

「いいえ、まだそちらに居られますよ」


 メリルが示した方へ向くと、思った以上に近いところにリオネルがいた。

 あまりの近さに、エレオノーラは思わず飛び上がりそうになる。


「きゃっ、おおお、おはようございます、リオネル様」

「おはようエレオノーラ」


 どきどきと胸を高鳴っているせいかやや裏返った声で挨拶をする。

 リオネルはなんだかとても楽しそうに笑っていた。


「昨夜は俺の帰りをずっと案じてくれていたそうだが」

「は、はい、待っていたのですが、いつの間にか眠ってしまって、申し訳ありません」

「いや、そんなことはない」


 ゆっくり首を振ったところで、リオネルはすとんと両肩を落とした。


「昨夜のうちに帰りを伝えようとしたんだが、ロベルトとメリルが部屋の扉の前でとても怖い顔で睨むものだから、諦めた」

「ええっ、そんなことがあったのですか」


 それはロベルトとメリルに感謝をしたほうがいいのだろうか。起きている時ならともかく、エレオノーラはぐっすり眠っていたのだから。


「それで、急いだ様子で来て、俺の顔を見たいと思ってくれたのかい?」

「はい、リオネル様にひとつお願いがあるので、今夜お時間を頂きたいと」

「俺に頼みごと?」


 署名を貰う時には説明をしなければならないが、今はなんとなく本題は誤魔化したい。


「中央治癒院での書類に、夫の署名が必要なのです」

「夫の署名? 俺?」

「そうです」


 首を縦に動かし、そんなに大事ではないのだという雰囲気を見せる。

 リオネルは不思議そうにしていたが、頷いてくれた。


「分かった、今日はなるべく早く帰ってくるようにする」

「よろしくお願いします」


 なんとかリオネルの署名さえ貰ってしまえば、あとは中央治癒院のアンリに推薦状を用意してもらうだけだ。

 うまくいきそうだと思ったのがいけなかったのかもしれない。

 我に返った時には、訝しげなリオネルの視線が射抜くようにエレオノーラへと向けられていた。


「ちなみにそれは、どんな書類なんだい?」

「えっ?」


 どのみちリオネルの同意は得なければならないし、嘘を伝えて署名を貰いたいわけではない。しかしエレオノーラは思わずじっとこちらを見る視線から目を逸らした。


「エレオノーラ」


 静かに名を呼ぶ声が聞こえる。エレオノーラは段々と声を小さくしながらも、なんとか訴えるような視線をリオネルへと戻した。


「ええと、その、討伐作戦への参加同意書です」


 リオネルは真剣な表情でエレオノーラを眺め続けていた。

 遊びや冷やかしではないのだと、こちらも本気でリオネルのために志願しているのだと示したい。その一心で口を引き結ぶと彼に視線を返す。


 どれだけそうやって睨み合っていたろうか。

 ようやくリオネルが息を吐いた。


「分かった、この話はきちんと俺が聞こう」

「ありがとうございます」


 思わず礼を言うと、そうではないとばかりにまた真剣な目で見つめられる。


「君の夫という立場をいうなら、今の俺にその資格があるかわからない。それでも俺がきちんと向き合って、判断をするべきなのだからね」

「リオネル様……」

「頭ごなしに駄目だと言う気はないけれど、俺は反対だ」


 そこはしっかりと、釘を刺すように告げられてしまった。

 しかし彼が言った通り、頭ごなしに否定するわけではなく、きちんと話に応じてくれるようだ。その点にはありがたみを感じる。

 以前のリオネルならば、睨まれて終わるという展開が見えるくらいだ。


 自分でもよく分からない感情が入り混じったまま、リオネルを見ていると彼の手が優しくエレオノーラの髪に触れた。


「エレオノーラは屋敷で待っていてくれれば大丈夫だ、と言っても不安なんだろう?」

「それもありますが、私は自分の目で見たいです」

「同行といっても後方支援だ、見えるくらい危険な場所には近寄らせないが」


 そういうことではない、それはわかって言っているのだろう。リオネルはその後もしばらく、指先にエレオノーラの髪を巻き付けるようにして眺めていた。


「この話は、帰ってからきちんとしよう」

「はい、よろしくお願いします、行ってらっしゃいませ、リオネル様」


 するりと髪が指先から離れる直前、リオネルは一房優しく手に取るとそこへ軽く口付けるような仕草をする。

 エレオノーラが慌てるよりも早く、手はすっと離れていく。


「行ってくるよ」


 素早く踵を返すと、リオネルはそのまま行ってしまう。

 頬を紅く染めて呆けていたエレオノーラが我に返ったのは、もうすでにリオネルが出てしまった後だった。



 非常勤であるエレオノーラは、毎日必ず中央治癒院に行っているわけではない。

 今日はちょうど患者も少なく非番であったため、屋敷の細々としたことをしたり、アンリから借り受けた書物を眺めたりして過ごすことにした。


 手配した菓子を送ったアノルド夫人からは、すぐに礼を綴った手紙が届いていた。

 といっても礼はついでで、体調を崩していると噂に聞いていたリオネルが、案外元気そうに声をかけてくれたことへの感激と、近々騎士団で大きな作戦があるらしいと聞いたが、体調は大丈夫か、などといった内容だった。


「夫人ったら、もう騎士団の話を知っているなんて、本当にこういう話が好きな方だわ」


 仕事柄や、茶会や夜会で駆け引きをするために情報収集が大切なのはわかる。しかし夫人のお節介と噂好きはそれだけではないだろう。エレオノーラにはとてもじゃないが真似はできない。だからこそ、苦手でも縁を持ち続けているというのもある。


 手紙を封筒に戻してから机の上に置く。

 まあ、菓子をこちらから送っているので、これ以上の詮索はしてこないだろう。討伐作戦があるのは本当のことだし、後で返事がなかったと蒸し返された時は、忙しかったとでも答えればいい。


 それからエレオノーラは並べてあった数冊の本から、一番上にある書物を取った。

 基礎ばかりが丁寧に書き込まれている書物は、若い従騎士などが習うための物だろう。簡潔だが分かりやすく、すんなり読めてしまった。


 書物を呼んで勉強したからといって、リオネルに同意の署名を貰わねばエレオノーラは討伐作戦に同行すらできない。


「たとえ強く拒まれても、今回だけは誰にも譲れないわ」


 これは今まで逃げていた責でもあるのだ。

 書物を開いたまま、リオネルを説得できるような言葉をひたすら探す。頭ごなしに駄目だと言われることはないまでも、それに近い状況にはなるだろう。


 そうやって、エレオノーラは彼を説得出来るような理由をいくつも考えていた。

 だがしかし、実際夕刻になってリオネルが帰ってくると、そのどれにも当てはまらない結果が待っていた。


「エレオノーラ、食事の前に済ませておこう、例の参加同意書を持って俺の書斎に来てくれないか」

「え? わ、わかりました」


 書類に目を通してからなにか言う気なのか、それとも認められないと破かれてしまうのか。そんな緊張を抱きながら、同意書を持ってリオネルの書斎に向かう。


 扉を二回軽く叩くとすぐに中から返事があった。


「エレオノーラだろう、入ってくれ」

「はい、失礼します」


 書斎に入ると、リオネルはなにかを書き留めているところだったらしく、机に向かっていた。

 妻ではあるが、エレオノーラがリオネルの書斎へ入ることはあまりない。そのための緊張もさらに上乗せされているせいか、ぎくしゃくとした動きで机の近くへ向かう。

 リオネルは、書き終えたなにかを丁寧な仕草で封筒へと入れた。

 それからすぐに振り返ってじっとこちらを見る。視線の示す意図はすぐに分かったので、エレオノーラは署名が必要な同意書を差し出した。



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