第2話 魔獣の穢れ
患者が簡易ベッドに寝かされると、エレオノーラは率先して治癒に回った。
「すぐに治療に当たります!」
「エレオノーラ、この後患者は増えるでしょう、くれぐれも力の配分を考えて対応に当たってください」
「わかりました」
分かったとは答えるが、それでも苦しがっている怪我人を前にして癒しの力を加減したくない。
そんな風に落ち着いて考えられたのは、その一人目だけだった。
どのくらいの魔獣が何体出ているのか。そんなことは全くわからない。しかし運び込まれる怪我人は一向に少なくならなかった。
「ふう……」
目まぐるしい忙しさに、エレオノーラはひと息だけしようと断りを入れてテラスに出た。
今日は天気が良いことが幸いだ。これで雨でも降っていたら、状況はもっと悪かったろう。
「なんとか、討伐されるといいけれど」
ここまで大ごとになっているとなれば、リオネルも間違いなく遠征どころではない。魔獣と対峙しているのなら無事なのかとても心配だ。
エレオノーラは決してリオネルが嫌いではない。
「どうか、リオネル様が無事に戻ってくれますように」
手を組んで目を閉じる。祈るように呟き、まじないにもならないくらい僅かに力を込めた。
突然、低い唸り声のように空気が鳴る音が聞こえ、強く風が吹く。付けているエプロンがはためき、なにか大きなものが風に吹き飛ばされて陽を遮る。
エレオノーラは慌てて目を開いて周囲を見回す。
「嫌だわ、まるで魔獣の声みたい」
一瞬、本当に魔獣かもしれないと思った。だが空はよく晴れているし、風ももう落ち着いている。
なによりここは南の平原からは離れているのだ。さすがに魔獣の咆哮は聞こえない。
不安な心が過剰に反応してしまっただけなのだろう。
いつまでも休んでいられない。
そろそろ戻ろうと、深呼吸をした時だった。
「エレオノーラさん、ここにいた!」
慌てた様子でやって来たのは、薬品などの扱いが得意な同僚だった。
また患者が運び込まれたのだろう。表情を引き締めたところで、同僚のいつも以上に焦ったような表情に気が付く。
なにかがおかしいと、嫌な予感が汗となって背中を流れた。
「大変よ、今さっき、リオネル副団長が運び込まれたの!」
「え……」
そうならなければいいと、まさに祈ったばかりだというのに。
いや、まだ運び込まれたと聞いただけではないか。実は大したことはない、そういう結果かもしれない。
嘘だと信じたい。震えそうになる足を叱咤して、エレオノーラは運び込まれたという部屋に向かう。
リオネルが運び込まれたのは、中央治癒院でも個室になっている部屋だった。隔離や専用の術が必要な場合に使われる場所である。つまり、それだけ怪我の程度が重いのだ。
「リオネル様!」
エレオノーラが部屋に入ると、アンリとそれからさらに二人がかりで治癒の術を掛けているところだった。
術の対象者、ベッドに寝かされているリオネルの状況は異様だった。
全身を青紫の炎のようなものに包まれている。それでいて寝ているベッドは燃えていないし、傍にいても熱さを感じない。
ベッドに近寄ると、普段は淡々と表情すら変えないリオネルが苦しそうに呻いていた。
「おそらく魔獣の穢れを浴びたのでしょう」
治癒の術を掛け続けたまま、アンリが説明をしてくれた。
「燃え広がることはないし火傷もない、しかしどんなに治癒の術を掛けても炎は消えない、こんな症状は初めて見る」
アンリの額にはじんわりと汗が浮かんでいる。そのくらい強い力で治癒の術を掛けているのに、変化が見られないのだ。
「私にやらせてください!」
エレオノーラはすぐさま交代を申し出た。術が通じないとしても、このまま見ているだけなのは嫌だった。
一人と交代すると、すぐに深呼吸をして集中力を高める。両手を翳し、治癒の術を掛けていく。
しかしすぐに、いくらやっても効果がないことに気がついた。
なんとなくわかる。この青紫の炎のようなものに、治癒の術が全て弾かれているのだ。
「だったら、これでどうっ」
「無理をしないで、エレオノーラ!」
向かい側で同じように治癒に当たっていたアンリが、慌てて注意をする。
エレオノーラは炎の中に手を差し込んで、治癒の術を強引に掛けることにした。
これならかなり効果があるに違いない。
炎が渦巻くようにしてエレオノーラの白く細い腕に絡みつき、抗っているのがわかった。それはつまり効果があるということだ。
翳した両手に痺れるような痛みがはしる。それでも構わずエレオノーラはリオネルの胸元に手を押し当てた。
「リオネル様、どうか戻ってきてください!」
渾身の力を込めて、治癒の術を掛ける。
青紫の炎を弾くように広がった白い光が、リオネルを包んでいく。
しばらく経ち、白い光は全ての炎を弾き消し飛ばすと、ようやく治まっていった。
「ん……?」
小さく呻きながら、ゆっくりとリオネルの両瞼が持ち上がる。淡い青の瞳はまだぼんやりとしているが、どうやら無事らしい。
ただなんだろう、どこか違和感を感じる。
(なんだか普段よりも若く見えるような……)
不安気に覗き込むエレオノーラのほうへと僅かに瞳が動くと、ふわりと瞳が柔らかく弧を描いた。まるで大丈夫だと示してくれるような、そして心配してくれるような。
わずかな表情の変化なのに、とても温かな笑みに感じられた。
(いつもこんな風に笑ってくれたら、よかったのに……)
そう思うと同時に、全身の力が抜けていくような感覚がして、エレオノーラの目の前は暗く塗りつぶされた。
それからエレオノーラが目覚めた時には、倒れてから半日ほど経っていた。
すぐにアンリが来てくれて、体調など問題はないかといくつか尋ねられる。
どうやら魔力切れを起こして倒れてしまったらしい。検査はすぐに終わり、エレオノーラに異常はみられなかった。
「患者を放り出すどころか、私がアンリさんのお世話になってしまうなんて」
「僕はなにもしていないよ、続いていた急患もあれからすぐ落ち着いたしね」
いつも通り穏やかな笑顔を浮かべているアンリの様子からして、確かにもう落ち着いたのだろう。
ここまで落ち着いた表情をしているということは、彼も無事なのだろうか。
倒れる寸前、視線が合ったような気がした。あれからどうなったのだろう。
「あのう、リオネル様は無事でしょうか?」
無事だと答えられても、意識が戻っているのなら尚更エレオノーラに出来ることはないとは思う。会ってもおそらくあの冷ややかな視線を向けられるだけだ。
それでもどうしても気にかかった。
アンリは僅かに首を傾け考えるような仕草をしている。
どこか曖昧で不自然な反応を見せてから、ようやく口を開く。
「意識は戻っています、軽く食事もしているし、体調に関しては随分良くなりました」
症状は聞くからに良さそうでほっと息を吐く。
しかし、困ったようなアンリの曖昧な表情がどこか気にかかる。
「そうですか、無事なら良かったです」
「会ってくるといいでしょう、さっきから君はどこにいった会わせろと繰り返していてね」
「私に、ですか?」
そんなわけない。
エレオノーラは喉まで出かかった言葉をなんとか堪えて頷いた。