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第16話 妻である可能性

 今さっき和らげたばかりの表情を怪訝に曇らせ、眉を寄せている。そしてゆっくりと視線がエレオノーラの方へと向く。

 この場で妻と形容できる可能性があるのは一人だけだ。


「それはエレオノーラのことか?」


 リオネルの淡い青の瞳が揺らいだのが、エレオノーラからもはっきりと見えた。

 どう説明したらいいのだろうか。しかし知られてしまった以上、きちんとリオネルには説明してこれからのことを考えなければならない。


「隠していたわけではなくてですね、このことはずっと相談すべきだと思っておりました」


 もうこうなってしまったら、きちんと伝えるしかない。その上でどうするかは、リオネルが決めることだ。

 しかしリオネルは、なにかを拒むようにふいと視線を逸らした。


「そうか、既に結婚していたのか。そうだな、こんなに素敵な君なのだから隣に立つ相手が既にいたとしてもおかしくない」

「え? ちょ、副団長?」

「すまなかった。なにも覚えていないとはいえ、俺は夫人である女性に失礼な振る舞いを重ねていた」


 もしかしなくともリオネルは相当な誤解をしている。


(やはり私が妻であるとは、考えもしないのだわ)


 可能性としてそう考えてもくれない。それがなんだかエレオノーラの心に切なさを感じさせる。

 しかしこうなったらきちんと説明をしたい。たとえ拒まれるとしても、彼自身のことでもあるから、知る権利もある。

 だがこの場は王都の往来で人目もあるし、先ほど宝飾店に入ったアノルド夫人が出てきて見られでもしたら、さらに騒ぎは大きくなるだろう。


「リオネル様、帰ったら話しをする時間をください。私から話すべきだと思っていた大切なことがあります」

「すまないが、すぐには聞きたくない」


 ぽつりと呟くように答えたリオネルの表情からは、感情が読み取れなくなっていた。それはかつて、形ばかりの妻であったエレオノーラに対して向けていた時とよく似ている。


 その表情を見たエレオノーラは、もうそれ以上なにも言えなくなった。


「副団長ー、大人なんですから、ちゃーんと話を聞いてあげてくださいー」


 デリックがそう訴えてくれたが、リオネルからの返答はなかった。


 当然、その後に予定していた服飾店へも寄れるような空気ではない。

 予定を早めて屋敷に戻ろうと提案したのはエレオノーラだったが、リオネルもそれに異を唱えなかった。


 帰りの馬車を待つ間も、リオネルはずっと黙っている。

 本当にかつての冷ややかだった彼に戻ってしまったかのようで、エレオノーラは深く沈んでいた。


(これが本来の私とリオネル様なのよ、いずれはこうなることだった、それだけでしょう。なのに、どうしてこんなに心が苦しいの……)


 黙っていたのは、リオネルのためでもなんでもなく、エレオノーラの都合だ。

 こんなことなら、きちんと初めに二人の関係を伝えておけばよかったのだろうか。そう考えようとしても、エレオノーラにも上手く答えが出なかった。



 心ここに在らずといった状態で俯いていたエレオノーラは、弾かれたように顔を上げた。やや甲高い覚えのある声が風に乗って聞こえてきたからだ。


「なんということ、アノルド夫人だわ!」


 宝飾店のほうを見ると、店員に見送られているアノルド夫人の姿が見える。確かに今日は細工が出来上がったからと言っていた。確かめて受けとるだけだったので時間も掛からなかったのだろう。


「ああ、もう買い物を済ませてしまったのだわ」


 エレオノーラはまだ視線を逸らしているリオネルに素早く近付くと、やや強引に腕を掴む。多少無理にでも、アノルド夫人からは隠したい。


「リオネル様、少し場所を移動しましょう」

「エレオノーラ?」


 突然腕を掴んで歩き始めたエレオノーラに、リオネルは戸惑っているのだろう。それでも構わず大通りの宝飾店から死角になるように、路地へとリオネルを押し込む。


 デリックが残っていてくれたら良かったのだが、迎えの馬車を探しがてら巡回に戻ると言って少し前に離れたばかりだ。


「リオネル様、ここにいてください、絶対に出てこないでください」

「どういうことだ、説明してくれ」

「アノルド夫人です。ハルザート家とも昔から付き合いがあるかたなのですが、その……」


 他人をあまり悪くは言いたくない。実際、彼女は悪い人間ではないのだ。ただ対応がひどく面倒なだけで。


 リオネルは首を傾けて考えるようにしていたが、すぐに答えを返した。


「もしかして、アノルド商会の老夫人か? ならば幼い頃に世話になったことがある、まだ壮健なのか」

「覚えておられるのですか!」


 リオネルの過去の記憶は全て曖昧だと思われていたが、かなり昔にあったことは記憶としてあるようだ。ただそれは今わかっても、なんの解決にもならない。

 エレオノーラは首を振って否定した。


「その先代の夫人ではありません。そのご子息の奥様が、今のアノルド夫人です」

「なるほど、あの宝飾店から出てきた女性か」

「そうです、確かにハルザート家とも付き合いがあり、懇意にしております。ただひとつ私やロベルトさんが気にしていることもありまして」


 路地から顔を出して眺めようとしたリオネルを、もう一度押し込むように隠す。さらに出ないでくださいと目線で訴える。


「自分のことを情報通の聡明な人物だと勘違いしていまして、とにかく話が好きなんです。今回のリオネル様の症状についても、興味津々らしくハルザート家になにかと探りを入れてくるので、困っているんです」

「ロベルトが俺に黙っていたのはこの件か」

「そうです、本当のことだけを言いふらすならまだいいのですが、どうにも尾鰭がつくので厄介だなと思っているところがあります」

「知られれば面白おかしく噂にされる可能性がある、ということか」

「はい、そうなりたくないと、そのロベルトさんに頼まれた菓子もアノルド夫人のお気に入りなのです」

「なるほど」


 リオネルがまだ抱えている包みへと視線を落とす。

 それからエレオノーラは路地の影から注意深く大通りの宝飾店のほうを見た。アノルド夫人はまだそこに立っていて、見送りの店員と会話をしているようだ。さっきデリックが馬車を動かすよう指示してしまったのが、ここにきて逆効果となったかもしれない。


「それにしてもエレオノーラ、君はずいぶんうちの事情に詳しいようだが?」

「……それは」

「すまない、俺ばかり聞きたくないと言ったり気にしたり、勝手だな」


 話好きのアノルド夫人なので、立ち話もすぐには終わらない。そうこうしているうちに、ハルザート家で手配した迎えの馬車が大通りの向こうからやってくるのが見えた。


 今さっき気まずかったこともすっかり頭の隅へ追いやり、二人並んで様子を窺う。


「馬車が来たようだがどうする?」

「リオネル様はこのまま馬車に乗ってください、なるべく背を見せるように立っていればおそらくわかりません。もし夫人に気付かれそうになったら私が敢えてアノルド夫人の気を惹きますから」

「……わかった」


 反論するかと思ったが、意外にもリオネルは素直に頷いた。

 馬車がやってきて止まる。御者はリオネルとエレオノーラを探して、周囲を見回しているようだ。

 リオネルは大股で馬車に向かって歩き始めた、慣れた御者はすぐにそれに気が付く。


 荷を預けたリオネルが馬車に乗る。大通りにもう一台の馬車がやってきた。どうやらアノルド夫人を迎えに来た馬車のようだ。


(どうかもう少し、店員と話をしていますように)


 そう祈りつつ馬車に向かって足を動かす。

 しかしあともう少しというところで、アノルド夫人らしき声が背中越しに聞こえた。


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