第1話 気遣いなら必要
「エレオノーラ、俺は暫く留守にする、気遣いなら必要ない」
食堂に入ってくるなり一方的に告げられ、エレオノーラは食事の手を止めた。
「わかりました、リオネル様」
帰りの予定など聞いても無駄であろう。夫であるリオネル・ハルザートはそういう男だ。
気遣いは不要と言うが、エレオノーラとしては気遣いが欲しい。
そう思ったが、十六も歳上の夫にそれは言えなかった。
代わりにちらりと視線を上げて窺うようにその表情を見る。一見すると黒にも見える濃緑の髪はきちんと整えられ揺れる様子はないし、その淡い青の瞳に映る感情もよく分からない。整った顔立ちは、ぴんと伸ばされた姿勢と相俟って、彼らしい清廉な魅力を引き出している。すらりとした体躯は、まったく年齢を感じさせなかった。
「屋敷のことは、いつもの通りロベルトに任せてある」
「はい、お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
伝え終えて満足したのか、リオネルはそのまま食堂から出ていってしまう。
足音が遠ざかっていくのを確かめてから、エレオノーラは息を吐いた。
「ふう……」
なるべく気にしないようにと自分に言い聞かせつつ、中断させられた食事を再開する。リオネルは食事の時間すら合わせようとしてくれない。
そんな暮らしには、この二年ですっかり慣れっこだった
「リオネル様は、どうして私と結婚したのかしら」
食べながら、誰にも聞こえないように小さな声で呟く。
結婚の申し出をしたのは、リオネルのほうだ。しかし結婚してみても、寝室は別で触れることさえも一切ない。食事もほとんど共にとらないし、会話も先ほどのような最低限の連絡ばかりだった。
十七で結婚したエレオノーラも初めは、適齢期ではあるが自分が若いからだろうと思っていた。なんとか彼との距離を縮めようと、様々に考えて実践しようとしたこともある。
しかしどうあっても、あの冷ややかな瞳に跳ね返されてしまう。
いつものように考えごとをしている間に、食事が終わる。
片付けに来た使用人に、エレオノーラは声を掛けた。
「メリル、出掛ける準備をするから、手伝って欲しいの」
「承知いたしました、奥様はいつものお務めですか?」
「そうよ、中央治癒院に人手が足りないんですって」
治癒の術の素養があるエレオノーラは、魔術院の治癒部門に請われて手伝いに行っている。
屋敷の外に出ることは気晴らしになるし、なによりリオネルに求められない自分でも役に立てることが心の支えだ。
リオネルには話して了解を得ているが、そもそも興味がない彼はどうでもいいと思っているだろう。
朝起きて纏めていた亜麻色の髪を解くと、エレオノーラは支度に向かった。
支度を済ませ、迎えの馬車に乗ろうとしていたところだったエレオノーラは、急な来客に声を掛けられて振り返った。
「奥様おはよーございまーす、リオネル副団長はいらっしゃいますかー?」
「デリックさん、おはようございます」
リオネルに興味を持たれていないエレオノーラでも、彼のことは見知っている。リオネルが副団長を務める騎士団に所属している騎士デリックだ。
さすがにお飾りの妻といえど二年間も経てば、顔見知りもいる。
いつも笑顔を浮かべて挨拶してくれる彼には、自然に笑みが浮かぶのだ。
「ええと、申し訳ありません」
「あちゃー、もう出ちゃいましたか」
すまなそうな表情で察してくれたのだろう。
どうやら馬でここまで駆けて来たらしいデリックは、急ぎの用件があるようだ。どこへ行ったのか答えたいが、エレオノーラは行き先を知らない。
困りきっていると、執事であるロベルトが一歩前に出て淀みない口調で答え始めた。
「旦那様でしたら、もう既に出られました、本日より北東のアレガノ砦に遠征だと伺っております」
(留守と言っていたけれど、遠征だったのね)
任せてあると言ったのだから、ロベルトが行き先を把握しているのは当たり前だ。こんなことなら朝食後のうちに、彼に聞いておくべきだった。
「東門から出るはずなので、いらっしゃるならそちらの詰所かと」
「ありがとう、行ってみまーす」
デリックはロベルトへと向き直り礼を言うと、エレオノーラにも軽く会釈した。
「奥様、お出掛けならば、くれぐれーも注意してくださいねー」
「は、はい、デリックさんもお気を付けて」
一体なにに注意するのだろう。夫であるリオネルにさえ興味を持たれないエレオノーラには、デリックの言葉は掛けられ慣れていなくていまいちピンとこない。
それでも案じてくれたのはわかるので、素直に受け止める。
デリックはそのまままた馬に乗って駆けていく。おそらくリオネルを追って、王都東門の騎士詰所に向かったのだろう。
彼があんなに慌てて馬で駆けて来るほどの用件とは一体なんなのか。
気にはなるが、エレオノーラに出来ることはなにもない。
「エレオノーラ様、そろそろ出立したほうがよろしいのでは?」
「はっ、いけないわ、ええ、すぐに出ましょう」
ロベルトに言われ、大きく頷くとエレオノーラは馬車に乗り込んだ。
務めに出ている王都中央治癒院は、名前の割には王都の外れにある。王都の外で任務に当たっている騎士や衛兵の治療や、重い病気などに対応するためあえて街の中心部から離れているのだ。
「おはようございます、今日もよろしくお願いします」
声を掛けながらいつもの仕事場に入ったが、いつも和やかに返って来る返事はない。
それどころか、どこかピリピリした様子が漂っている。
すぐに上司であるアンリがやって来たが、やはりどこか浮かない表情をしていた。
「おはようエレオノーラ」
「アンリさん、なにかあったんでしょうか?」
普段から重症患者に対しても穏やかで笑顔の絶えないアンリだ。浮かない表情をしているということは、明らかになにかあったのだろう。
「王都郊外、南の平原の向こうにかなり大型の魔獣が出たらしいです」
「南の平原って、すぐ近くじゃないですか」
王都から出て南の平原は、普段は見通しも良く整備の行き届いた街道が走っている。魔獣討伐は定期的に巡回して行なっており、こういった案件はかなり稀だ。
(それでデリックさんが急いで来たのね)
リオネルは王都の騎士でも精鋭の第二師団の副団長である。おそらく今日の遠征は中止して、その魔獣の対処に向かうだろう。
(リオネル様、無事に帰られるといいけれど)
形ばかりの夫婦だとはいえ、彼になにかあるかもしれないと思うと心配だ。
「討伐に成功したとしても、怪我人が多く運び込まれる可能性は大きくなります、薬品の確認なども手分けして行なっておきましょう」
「わかりました」
リオネルのことは心配だが、危険な任務に着くのは彼ばかりではない。エレオノーラは気持ちを切り替えるように頷くと、必要な仕事の確認から始めた。
中央治癒院にその日初めの怪我人が運び込まれたのは、薬品や備品の確認が終わり、交代で軽食を取っていた時だった。
「これは、久々に相当厄介なのが出たらしいね」
最初に運び込まれたのは、巡回に当たっていた兵士だ。症状を見るなりアンリは、眉を寄せて表情を曇らせた。
魔獣といえど様々であり、怪我の場所や大きさなどで程度がわかることもある。いつも落ち着いているアンリがこんな言い方をするくらいの状況に、他の面々にも緊張が伝わっていく。