第8話 戦う前から勝負あり?
それから半日ほど進んだ頃、リディアの隊に異変が起こった。道の先に見慣れない人影があると思い、偵察に行かせたら、なんと王国軍の小規模な部隊がこちらをうかがっているという報告が入ったのだ。
「王国軍ですか? どこかの領主が独自に動いているのかしら、それとも王宮直轄の兵なの?」
リディアは馬上から副官に問いかける。副官は地図を確認し、首を横に振る。
「王都からはまだ距離がありますし、周辺にはそう大きな駐屯地もないはずです。もしかすると、ラフォル伯爵領からの派兵かもしれません。人数はそう多くないようなので、偵察隊かもしれませんね」
「なるほど……交戦したくはありませんが、こちらの存在を知られた以上、放っておくのは危険ですね」
リディアがそう言い含めると、副官はうなずいて目配せをする。騎兵の一部が素早く陣形を組み、弓兵が続く。偵察程度の部隊なら、こちらの編制だけで容易に圧倒できるだろう。
「お嬢様、どうなさいますか? 先手を打ちますか、それとも呼びかけだけでも?」
「呼びかけましょう。下手に血を見る必要はないですから」
リディアは馬を進め、ある程度近づいたところで大きな声を張り上げた。
「そちらにいるのは王国軍の方ですね! わたくしたちは公爵家の騎馬隊です。無益な争いを避けたければ、今すぐ武器を収めて立ち去ってください!」
声が通る距離まで近づくと、王国軍と思われる兵たちがバタバタと騒ぎ始めるのが見えた。まばらに槍や弓を構えているが、統率が取れているようには見えない。おそらくは寄せ集めの小部隊なのだろう。
「な、何を言うか! こっちは王太子殿下の名において、この辺りを警護しているのだ!」
先頭に立つ男が震える声で応じる。リディアは思わずため息をつきそうになった。まるで指示が徹底していないか、あるいは隊長の経験が浅いのか。こんな状態で戦をするなど無謀にも程がある。
「わかりました。わたくしはもう一度だけお尋ねします。貴方たちが引いてくれるなら、あえて追撃はしません。ですが、こちらの進軍を妨げるならば――」
「ま、待て! 引くなんてできるものか! 貴様らこそ、何のつもりだ……!」
彼らは動揺しながらも槍を構え直した。隊列は歪んでいるが、どうやら簡単には退かない気らしい。リディアは仕方なく、槍兵を中心とする隊に向かって声を張り上げる。
「弓兵! 威嚇射撃! 相手を殺さないように、足元を狙って!」
瞬時に複数の弓兵が矢をつがえ、バシュッと風を切る音が響く。矢は巧みに兵たちの足元や脇をかすめ、地面に突き刺さる。王国軍の兵たちは恐怖から悲鳴を上げ、思わず後ずさりした。
「ひ、ひぃっ……!」
「馬鹿な……矢が……!」
槍を握ったまま膝をつく者、馬をあやす余裕もなく逃げ出す者――ほぼ統制不能だ。これを見ただけで、リディアは「もう勝負あったな」と確信する。彼らはまともに戦う意志も装備もない。
「もう一度言います。わたくしたちは無益な殺生をしたくありません。さあ、引き下がってください!」
リディアの声に、隊長らしき男が顔面蒼白のまま叫んだ。
「そ、そんなことができるか……。我々は殿下の命令で……ぐっ!」
何かを言いかけた男が、その場に倒れ込む。足元には先ほど放たれた矢がかすめた跡がある。どうやら軽く擦っただけの傷だが、血の気を失うには十分だったようだ。
「まずいな……。お嬢様、どうします?」
副官がリディアのそばまで寄り、小声で問いかける。リディアは目を伏せ、わずかに逡巡した。相手がこれほど腰砕けなら、もはや本格的な戦闘は不要だろう。しかし、そのまま解散させるだけでは、また王子側の増援が来る可能性もある。
「あなたたち、名前は?」
リディアは隊長に向けて問いかけるが、相手は悔しそうに唇を噛み、「ランド隊長だ……」とだけ答えた。その声はほぼ泣きそうな響きを帯びている。
「ランド隊長、貴方の部隊はこれ以上戦っても勝ち目がない。わたくしの言うことを聞くなら、命だけは保証します」
「命を保証……? それは……どういう……?」
「単純に、貴方の兵たちを解散させるのです。ここでわたくしたちを通す代わりに、今後一切この街道で邪魔をしないと誓ってください。それで全部終わりです」
「……」
ランド隊長はしばらく黙ったまま地面に伏せていたが、やがて身を起こして部下たちを見回す。皆顔色が悪く、槍を握る手が震えている。ここで不毛な血を流すよりは、退却したほうがましだと誰もが思っているに違いなかった。
「わ、わかった……退くよ。お前たち、武器を下ろせ!」
そう隊長が叫ぶと、兵たちはほっとしたように槍や弓を投げ捨て、一斉に逃げるように後方へ散っていく。中には腰を抜かして立ち上がれない者もいて、仲間が抱えて退出していく有様だ。リディアはその光景を見届け、弓兵を下げさせる。
「よろしい。それならもう何も言いません。ただし、王都や伯爵領に戻って、わたくしたちを迎え撃つような真似はしないこと。次に会うときは容赦しませんので」
「……くっ……」
ランド隊長は唇を噛んだまま目を伏せるが、結局何も言わずに部下とともに退却していった。こうして、最初の衝突とも呼べない小競り合いは呆気なく幕を閉じる。
「お嬢様、お見事です。血を流さずに済んで何よりでした」
「相手が本気で向かってきていたら、こうはいかなかったでしょうけれど……。やはり、王都側の兵はまとまりがないのですね」
リディアは淡々と言葉を交わしながら、部下たちを次の行動へ移す。矢の回収や怪我人の確認など、必要な処理を怠らないのが公爵家の流儀だった。
「これでわかったわ。おそらく伯爵領で会う相手も、あまり強くはないでしょうね」
「そうですね。こちらとしてはありがたいです。もしラフォル伯爵が頑なに拒んだとしても、軽く示威行為をすれば屈する可能性が高そうです」
副官が笑みを浮かべ、リディアも軽くうなずく。それでも油断は禁物だが、王都軍の脆さが見えたことは一つの収穫だ。婚約破棄事件を起因とした衝突に、果たしてどれほどの兵が本気でついてくるのか――現状を見る限り、王太子とその取り巻きの命令に忠誠を尽くす者はそう多くないらしい。
やがて、隊は整列を再開し、再び馬を進める。後方では二、三人の兵が残って逃げ遅れた王国兵の扱いに手間取っていたが、結局彼らも恐怖のあまり投降し、武器を放棄して逃げ出すように走っていった。戦う意志のない相手を深追いする理由もないため、リディアはそれを許す。
「もしあれがラフォル伯爵の差し金なら、伯爵領で待ち構えているかもしれませんね」
「おそらくそうだろう。それでいてあの程度の兵力なら、苦労はしないわ」
リディアは馬上でそうつぶやく。緊張感のある場面だったが、実際に相手が散り散りに退却してしまうと少々拍子抜けだ。けれどこれこそが、公爵家の圧倒的武力による示威の効果というものかもしれない。