第7話 公爵令嬢、領民の心を掴む
進軍開始から三日が過ぎ、青々と茂る穀物畑や小川沿いの風景が目まぐるしく入れ替わっていく中、公爵家の騎馬隊は粛々と街道を南下していた。騎馬に揺られるリディアが遠くを見やれば、点在する小さな村や領地の姿が目に入る。そのいずれもが、これまで王宮から厳しい税を課されてきたと聞く場所ばかりだ。
「お嬢様、前方の村に着きました」
副官が声をかけると、リディアは手綱を引いて先頭を止めた。村の入り口には、か細い木柵があるだけで、防衛施設らしいものは見当たらない。警戒する兵たちをよそに、リディアは静かに馬から降り、村のほうへ歩み寄る。
「ごめんください。公爵家の者ですが、王都へ向かう道すがら、この村を通らせていただきたいのです」
何人かの兵が後ろに控えているとはいえ、リディアは威圧的な態度を取ることなく、柔らかい声で呼びかけた。すると、薄汚れた服装の男がそろそろと顔を出す。見るからに農民らしく、険しい表情を浮かべていたが、リディアの姿を認めるや否や、驚いたように目を見開いた。
「こ、これは……公爵家の方が直接? ええと、お嬢さん……いや、どのようなご用向きで……?」
「ただ通過するだけです。けれどもし、王宮からの無理な徴税などでお困りのことがあれば、ぜひお聞かせくださいませんか。わたくしたちが力になれるかもしれません」
リディアの申し出に、その農民の男は一瞬言葉を失ったようだ。周囲からも、他の村人が少しずつ顔を出し始める。中には子どもの姿もある。皆揃って疲れたような面持ちをしていた。
「そりゃあ困っております……ここ数年、年貢の取り立てが厳しくて、食べるのもやっとな有様です」
「そうでしたか。安心してください。この先、わたくしどもが王都でお話をさせていただきますから。納得のいかない要求を受けているのなら、それは大いに問題ですもの」
リディアがそう言うと、村人たちは信じられないものを見るような眼差しを向けた。だが、それは次第に「本当に助けてくれるのかもしれない」という期待を帯びたものへと変わっていく。
「お嬢様、もしよろしければ、どうかこの村で一休みなさってください。急な願いで申し訳ないのですが……あまりにも疲弊しているので、何かお力添えをいただければ助かります」
「もちろん、喜んで」
リディアは目配せで兵たちを下がらせると、村人の案内に従い、簡素な家屋へ足を運んだ。畑の小麦や乾燥した豆などの食糧がわずかに置かれた光景に、兵たちは静かに息をのむ。村中を見回せば、年老いた人や幼い子が疲労の色を隠せないまま佇んでいる。王都への税がどれほど苛酷なものか、改めて思い知らされる思いだ。
リディアは持参していた荷袋から、乾パンや塩漬け肉を少し取り出して、村人たちに分けていく。
「ささやかですが、今はこれくらいしか。皆さんで召し上がってください」
「お嬢様、本当にありがとうございます……。こんなにまとまった食べ物を分けていただけるなんて……」
村人たちは感激のあまり目に涙を浮かべる者もいた。副官がこっそりとリディアのもとへ寄り、「補給の分は大丈夫でしょうか」と囁く。リディアは静かにうなずき、声を潜めて応じた。
「大きな被害が出る前に、王都を叩けば補給路は確保できます。公爵家の備蓄もありますし、ここで助けられる人を助けておくのが、わたくしたちのやり方です」
「は、承知しました」
副官はそれ以上何も言わず、リディアの意志を尊重する。実際、公爵家は要塞に多くの物資を蓄えており、しかも今のところ大規模な戦闘は起きていない。まだ余力があるうちに人心をつかむのは、戦略としても有効だろう。
その晩、リディアたち一行は村の外れで野営の準備を始めた。村人たちが差し入れてくれた野菜や薬草を使って煮込み料理を作り、騎兵たちは焚き火を囲んでにぎやかに談笑する。リディアは馬をつなぎ終えた兵士に声をかけた。
「どう? 村の様子は」
「気の毒なくらい困窮していました。特に、王宮の代官が定期的に来ては無理やりに穀物を取り上げるらしく、村人も反抗すれば罰則があるとかで……」
「やはり……。ならば、わたくしがきちんと話を聞いて、必要ならば村単位で公爵家の保護下に置きましょう。調整は大変ですが、戦が起きても、この村が巻き込まれないようにしなくては」
リディアの決断に、兵士は嬉しそうに敬礼する。以前から彼らは、時に無茶だと言われながらも民衆を守ろうとするリディアやギルベルトの姿勢に心を打たれてきた。ゆえに、こうした行動も自然と受け入れられるのだ。
「お嬢様、そろそろお休みになられますか。明日には先遣隊がさらに進んで、次の領地へ向かわれるのですよね」
「そうですね。わたくしは兵たちより少し早く出立します。父上のほうはまだ後方で主力を率いていますし、合流まではこの調子で周辺を回ります」
リディアは小さく息をつき、焚き火の揺れる炎を見つめた。父ギルベルトは歩兵と重装部隊を率いており、一日ほど遅れて合流する計画だ。騎兵の機動力を活かして先に進むリディアと、後からじわじわと押し上げるギルベルト――親子の連携によって効率的に勢力を伸ばす算段である。
翌朝、鶏が鳴く前にリディアは目を覚ました。夜はまだ少し肌寒く、寝袋から抜け出すと兵たちが仮設テントを片づけ始めている。視線をやれば、副官が真剣な表情で地図を広げていた。
「お嬢様、次の目的地はラフォル伯爵領になります。伯爵とは王都寄りの貴族だと聞きますが……」
「伯爵領はそこそこ大きいはずね。もし無駄に抵抗されると厄介だわ。けれど、戦いたくないなら、交渉に応じる余地を与えましょう。もし向こうが剣を抜くなら……」
「そこはわたくしどもにお任せください」
副官は力強くうなずくと、テントの撤収を指揮する。リディアは早々に身支度を済ませ、馬に鞍を載せている最中、村の青年が息を切らして走り寄ってきた。
「お嬢様、もう行かれるのですね? あの、もしまた何かありましたら、いつでも呼んでください。村のみんなで、あなた方に協力いたします」
「ありがとう。けれど村の皆さんは、くれぐれもご自身の生活を大事に。王宮からの厳しい取り立てがあったときは、公爵家の名前を出していいですから」
リディアがそう言うと、青年は深々とお辞儀をし、目に力を込めて「必ず」と応じた。その姿を見送っていると、副官が「お嬢様、準備が完了しました」と声をかける。
「では、出発しましょう!」
リディアは乗馬姿勢を正し、手綱を軽く引く。兵たちも号令に合わせて列を整え、街道へ向かって進軍を再開した。日の光が稜線から差し込み、今日も天候には恵まれそうだ。今のところ王国軍の姿は見えないが、油断は禁物――リディアはそう自分に言い聞かせながら、先頭を進んでいく。
次の行程をひとつふたつ消化したころ、朗報とともに、少し驚くべき知らせが入った。なんと、後方からギルベルトが予定よりも早く歩兵隊を率いて追いついてきたというのだ。リディアは急ぎ街道脇で隊列を止め、父との合流を迎える体勢を整える。
「お嬢様、本隊の大部分はまだかなり後ろを進んでいるようですが、公爵様ご自身は数十名の騎兵とともに先行してきた模様です」
「父上らしい行動ね。無茶なことをしていなければいいけれど」
そうつぶやいた矢先、遠くに砂煙が立ち、威勢の良い怒声や笑い声が混じって聞こえてくる。まさしくギルベルトの一行だ。リディアは苦笑しつつ馬上から手を振り、目印を示す。
「おいリディア! 元気か? 早く会いたかったぜ!」
いつもながらに声が大きい。その後ろには、屈強な男たちがぞろぞろと騎馬に乗って続いている。彼らは公爵家の古参兵で、ギルベルトの片腕となって戦ってきた歴戦の精鋭たちだ。先日まで要塞に残っていたが、戦の薫りを嗅ぎつけると真っ先に手を挙げて同行を志願したという。
「父上、道中は大丈夫でしたか? 休みもそこそこに無理をして来られたのでしょう?」
「何、俺はまだまだ若いもんには負けん。お前のほうこそどうなんだ? 不意に王国軍とぶつかったりはしてないだろうな?」
「ええ、今のところは。村々を回って情報を集めていましたが、王国軍はまだ出ていないようです。もっとも、いずれぶつかるのは確実でしょうけれど」
リディアがそう告げると、ギルベルトは「ははっ、よし、やってやろうじゃねえか」と上機嫌に笑う。彼が腰に差した剣には、古参兵たちとの激戦をくぐり抜けた証が刻まれており、見るからに歴戦の勇壮を感じさせる。
「ところで、もう一つ報告があります。次の目的地としてラフォル伯爵領を通る予定なのですが、どうやら伯爵は王太子の取り巻きと縁があるらしいのです」
「なるほど、ならば抵抗してくるかもしれん。話し合いの余地があるなら、お前が交渉してみるのもいいが……どうだ?」
「もちろん、最初は会談の場を持つように伝えてみます。でも、拒否されたら問答無用ですね」
リディアの答えに、ギルベルトは「その調子だ」と笑顔を見せる。彼女の自信に満ちた言葉からは、まったく迷いが感じられない。親として、軍の仲間として、この娘を頼もしく思う気持ちは隠せないらしい。
「よし、じゃあ俺の隊は後方から支援する。お前は先に伯爵領へ行け。何かあればすぐに知らせろ。俺が全部まとめて蹴散らしてやる!」
「ありがたいですわ。では先行しますが、こちらも慎重に動きますのでご心配なく」
その会話の最中、古参兵たちはリディアに軽く頭を下げて敬意を示す。若い頃のギルベルトを知る彼らにとっては、リディアの姿は「まるで若返った公爵」のようにも見えるのかもしれない。
こうしてギルベルト隊とリディア隊は一時的に再会を果たした後、再び別行動に移る。リディアは約束通り、さらに馬を進めてラフォル伯爵領へ向かい、ギルベルトは後続の歩兵と合流しながら全体の隊列を調整する段取りだ。