第3話 深夜の公爵邸、大騒ぎ
深夜の公爵邸はいつにも増して騒がしかった。周囲の使用人たちは慌てふためき、侍女たちは気まずそうに廊下を行ったり来たりしている。だが、当のギルベルトとリディア本人は、どこか不敵な笑みを浮かべているようにも見え、なんとも奇妙な空気が邸内を包んでいた。
「王家だろうがなんだろうが、俺の娘を侮辱した罪は重いぞ!」
ギルベルトは大股で執務室を歩き回りながら、怒鳴り声を上げる。その声は廊下まで響き渡り、使用人たちはぎょっとして耳をふさぐような仕草をした。
「叩き潰すなら、やることは決まってる。うちの軍隊を総動員して、王都もろとも押しかけてやればいいんだ! 連中の顔が真っ青になるのが目に浮かぶぜ!」
父の剣幕に、リディアは腕を組みつつ微妙に視線をそらす。表面上は冷静を装っているものの、その胸の内は激しい怒りと興奮が入り混じっていた。恋愛感情があったわけでもない婚約者だったとはいえ、国中の貴族たちの前であのように見下された屈辱は容易に払拭できるものではない。一方で、血気盛んな父の様子には呆れも感じるが、その豪胆さに助けられている部分もあるとリディアは自覚していた。
「父上、少し落ち着いてください。あまり大声を出しますと、周囲も不安になるでしょう」
「落ち着いてなんかいられるか! お前の話を聞いただけで、どれだけ腹が立ったと思う? あの王太子だか坊ちゃんだか知らんが、ただじゃ済まさんぞ」
「お気持ちはわかりますけれど、一歩ずつ段取りを踏まないと、後で面倒なことになります。まずは何から始めましょうか?」
リディアは乱暴に机を叩くギルベルトの手を押さえ、やや冷静な口調で問いかける。ギルベルトは一度大きく息をつき、憤りを整理するように首を回した。
「そうだな、まずはこの国一番の戦力を持つ公爵家を甘く見るとどうなるか、連中に思い知らせないとな。いや、それだけじゃ済まない。王太子が下手に侮辱してくれたおかげで、俺たちも正々堂々と動ける大義名分ができたわけだ」
「大義名分、ですか」
「ああ。娘の名誉を守るため、そして公爵家を貶めた卑劣な輩に制裁を下すため――いくらでも言いようがある」
そこでギルベルトは、執務室の書棚から一冊の分厚い記録帳を取り出した。過去の戦歴や兵の編成、武器の在庫などが整理されているらしい。その手つきは普段の乱暴な様子とは打って変わり、軍務経験者らしい合理的な動きが感じられる。
リディアはそんな父の横顔を見つめながら、かすかに胸を締めつけられる感覚を覚える。呆れるほど豪快で、乱暴な言葉遣いをする人だが、同時に誰よりも娘を守る意志を持ち、兵たちから絶大な信頼を集めている。それこそがギルベルトという人物の持つ最大の魅力――リディアは幼い頃から、その姿を間近で見てきた。尊敬していると同時に、あまりにも大胆不敵な行動に出がちな父を止められるのは自分だけではないか、と自負している部分もある。
「さて、王都を叩くにしても、うちの兵をどう動かすかだ」
ギルベルトが記録帳を開きながらつぶやくように言う。
「ヴァルフォード公爵家の私設軍隊は、現時点で騎兵がおよそ二千、歩兵がその倍、弓兵隊も充実している。重装歩兵は前線を押し上げるのに強力だが、機動力は落ちる。騎兵は突撃力が高いが、城攻めには苦戦する可能性がある。兵糧の確保も必要だ」
「さすがに慣れていらっしゃいますね。父上はかつての戦争でも、最前線で指揮を執ったと聞きました」
「昔の話だ。けれど役に立つ知識はまだまだ腐っちゃいないさ。加えて、公爵家の要塞『ヴァルフォード砦』があるだろう? あそこは北側の山岳地帯を切り開いて築いた天然の城壁みたいなもんだ。もし王都がこちらに手を出してきたら、絶対に落とされることはない」
「ヴァルフォード砦……ええ、知っております。あれだけ堅牢な要塞、そうそう他国にもないはずです」
リディアの頭に、険しい山々と岩壁に囲まれた圧倒的な構造を誇る砦の光景が浮かぶ。幼い頃から何度か訪れるたびに、その威容には驚かされてきたものだ。そこには公爵家に忠誠を誓う兵士たちが常駐しており、武器や備蓄食糧、さらには攻城兵器に至るまで揃っているという。
「まあ、まずは王都の連中もまさか本気で攻めてくるとは思うまい。いきなり城門に殺到するよりも、周囲の小領地や村々をうまく取り込めば、連中の統治の杜撰さが浮き彫りになるかもしれん」
ギルベルトは指で地図を弾いて示した。王都への街道沿いに点々とある小さな領地の名前が記されている。
「大方、王宮の役人どもが散々搾取しているはずだ。実際に公爵家の兵が行けば、『王都の連中よりはマシ』と歓迎される公算が高い」
「それなら、わたくしが指揮を執ります」
リディアは言い切ると、ギルベルトの動きがぴたりと止まった。
「お前が……か? いや、もちろんいいんだが、本当にやる気なんだな」
「父上が怒るのはわかりますし、わたくしだってあの王太子を許せません。ならばこそ、この戦いはわたくし自身の手で主導したいのです。自分を見下した連中を懲らしめるには、自分で兵を動かすのが筋でしょう」
「ははっ、言うじゃねえか。いいだろう、娘の晴れ舞台だ。存分にやりたいようにやってみろ!」
そう言って、ギルベルトは満面の笑みを浮かべる。まるで幼子が危険な遊びを思いついたのを、面白がって後押ししているかのようだ。リディアはその笑顔を見て、あらためて複雑な感情を覚えた。破天荒で傍迷惑な父だが、自分の意志を真っ向から受け止め、奮い立たせてくれる存在でもある。
「では明朝、要塞から兵をこちらへ集めましょう。進軍ルートは少しずつ固めながら、王都へ向かって南下する形になりますかしら」
「ああ、それがいい。加えて、王都へ送る使者にもちゃんと宣戦布告の意を示さねえとな。俺が書いた書状、もうあるだろう?」
「ええ。あの下書きをもう少し体裁を整えれば、正式な宣戦布告になります。大公印もしっかり押して、向こうに届けさせましょう」
リディアがうなずくと、ギルベルトは満足げに腰を下ろし、机の上から紙の束を手繰り寄せた。そこには兵士たちの配属一覧、装備や馬の飼育数、戦術のメモなどがぎっしり書き込まれている。
「うちの軍隊はな、ただ数が多いだけじゃねえ。兵たちは全員、俺が直々に訓練を監督した精鋭だ。戦場での厳しさをたたき込まれてるし、俺を『親父』と呼ぶくらいには懐いてくれてる連中だよ」
「そうですね。みなさんが父上を『親父さん』と呼ぶの、最初は驚きましたけれど、今は納得です。あれだけの部隊を一人で率いてきた実績があるわけですし」
「俺も若え頃には好き勝手やったもんだ。小競り合いがあればすぐ飛び出して、剣を振り回してな。もっとも、『あの公爵はイカれてる』なんて噂されてるがね」
ギルベルトはそう言うと、豪快に高笑いする。リディアは呆れ半分、しかしながら自慢の父でもあると感じていた。どこの家にもこんな人物はいないだろう。普通なら貴族としての体面を重んじて表に立たない場面でも、ギルベルトは率先して突撃する。それが時には恐れられ、時には称えられる結果を生んできた。
「でも父上、今回の件は昔の戦と違って、相手が王家です。この国の中心であり、貴族社会の核と言える存在に対して、堂々と牙を剥くことになります」
「何が言いたい?」
「うまくいけばいいですが、失敗したら……」
「失敗? そんなもの想定してねえな」
ギルベルトは迷うそぶりもなく言い切って、手を止めた。
「俺はやると決めたらやる。お前もそうだろう? このまま王家に黙って従うくらいなら、叩き潰してしまったほうが手っ取り早い。それに、俺たちにはそれだけの力がある」
「……わかりました」
リディアはゆっくりと息を吐き、父親の目をしっかりと見据えてうなずく。父の強烈なまでの自信は、ある意味では危うい。しかし、それを裏打ちするだけの軍事力が公爵家にはあるのもまた事実。兵士たちはギルベルトを恐れつつも慕っており、装備も王国軍よりも新しいものを取り揃えている。
「そういえば、最近導入した攻城用の破城槌や投石機なんかは、まだ実戦で使っていないんだったな。ちょうど王都の城壁を試すにはいい機会かもしれん」
「破城槌や投石機……そんなものまであったのですか?」
「あるさ。こればかりは俺も血税を注ぎ込んだからな。どうせ平時に使わないなら、何かあったときに備えろと兵たちに訓練させてるところだ」
ギルベルトが鼻を鳴らして書類を捲る。そこには投石機の構造図や、破城槌の運用方法が細かく記されていた。リディアは思わず目を丸くする。ここまで周到に準備されているとなれば、たとえ王家相手でも勝算は充分にあると感じずにはいられない。
「それでは、明日からすぐに要塞へ連絡を回しますね。兵たちにも出動の準備をさせましょう。ある程度、荷馬車に物資を積み込むのに時間がかかるはずですから」
「おお、やる気だな、リディア。よし、俺も徹夜で計画を練っておくとするか。いやはや、面白くなってきた」
ギルベルトはわざとらしく指を鳴らしてみせる。まるで戦の開始を待ち望む子供のように目が輝いている。リディアはその様子に苦笑しながらも、確かに奇妙な高揚感を感じていた。
その夜、公爵邸の廊下には行き来する人影が絶えなかった。書状を届ける者、武器庫の在庫を確認する者、兵たちに伝令を走らせる者――皆が一斉に動き始め、屋敷は小さな軍事拠点さながらの緊迫感に包まれている。それでいて、不思議と活気に満ちていた。
屋敷の奥まった一室で、リディアは侍女たちを集めて手短に指示を出す。
「明朝一番に要塞からの連絡が入るはずです。もし来客や使者があったら、すぐにわたくしに報告を。特に王宮からの動向には注意してください。こちらが宣戦布告の書状を送った後は、向こうも黙ってはいないでしょうから」
「かしこまりました。お嬢様、御身をお大事に。こんな大事になってしまって……わたくしたちも、少し不安です」
「気持ちはわかります。けれど大丈夫。公爵家の名に懸けて、わたくしと父上がすべて押し返してみせます」
リディアの言葉に、侍女たちはおずおずとうなずく。そのまっすぐな眼差しに、不思議と人を安心させる力があると感じているのだろう。
自室に戻ったリディアは、大きな窓を開け放ち、夜風を一息に吸い込んだ。あの舞踏会で味わった屈辱感が、まるで導火線に火がついたように、自らの行動原理を突き動かしている。
――王太子の振る舞いが許せない。公爵家を軽んじたことはもちろん、一人の人間として恥をかかせたことが何より悔しい。もはやただの政略結婚の話では済まされない。ならば、徹底的にやってやるしかない。
ベッドに腰掛け、ふと鏡に映る自分の姿を見る。目は冴え渡り、頬はわずかに紅潮している。これから始まるものが国を揺るがす大事だとわかっていても、怯えるどころか心が躍る自分を自覚した。
「わたくしがこの手で全てを変えてみせる。そう、ただ怒りに任せているわけではないのよ。侮辱した者たちには、相応の報いを受けてもらうのが筋でしょう?」
誰もいない室内で、リディアは自分に言い聞かせるようにつぶやく。いつもなら消灯の時刻だが、到底眠れる気がしなかった。