旦那さまが幸せになれるのなら、私はどうなってもかまいません
「アリエル、どうか俺を置いていかないでくれ」
「ごめんなさい、そのお願いは聞いてあげられそうにありません。トバイアスさま、私を追いかけて早死にしてはいけませんよ」
「どうしてそんな意地悪なことを言う。君のいない世界で、俺はどうやって生きていったらいいんだ」
アリエルは横たわったまま力の入らない腕を必死で持ち上げると、枕元で泣き崩れる夫の頭を静かに撫でた。夫であるトバイアスはぽろぽろと大粒の涙を流している。日頃から誰よりも合理的であり、仕事の一切に私情を挟まない冷血男と言われている彼は実のところ大変な愛妻家だった。今の姿を部下たちが見たならば、腰を抜かして驚いたに違いない。
かつてアリエルは、お飾りの妻としてこの男の元に嫁いできた。結婚式もなく、初夜の場で「お前を愛することはない」と言われたことだってある。それでも辛抱強く彼の心を解きほぐしていったことで、ふたりの間には確かな絆が生まれていた。
アリエルにとっての心残りは、彼との子どもを産むことができなかったことだろう。その昔、アリエルもまた非常に劣悪な家庭環境で過ごしていた。そのためにアリエルの身体は、子どもを育むことのできる健やかさを持ち合わせてはいなかったのだ。そもそもの話、もしも彼女の身体が人並みに健康であったならば、夫を残して早逝することもなかったに違いない。それでもアリエルは、彼と過ごした日々を人生で最上の幸福だと信じて疑わなかった。
***
いつの間にか意識を失っていたらしいアリエルは、ひとならざるものの気配で目を覚ました。夫と間違えるはずもない、あまりにも神々しい雰囲気に、相手の正体を彼女は言われずとも理解する。
「神の御使いというものはこれほどまでに美しい方なのですね。まあ確かに、非常にひょうきんな方でしたり、あまりにも恰幅がよすぎる方でしたりすると、どうしても本当に御使いなのか疑ってしまいそうですものね」
「褒めているのやら、けなしているのやらさっぱりわからないが、一応誉め言葉として受け取っておこう。それで話を進めてもよいだろうか?」
「もちろん、構いませんわ。天使さま」
息を引き取ったアリエルの元に現れたのは、それは美しい麗人だった。麗人は傷ひとつないなめらかな指を一本立てて、アリエルに提案してきた。
「そなたは、今まで非常に善き人間として暮らしてきた。そこで褒美を授けようと思う。人生における後悔を取り除いてみよ。その結果を見た上で、そなたの行く先を決めようではないか」
「今の時点では、天へ向かうか、地獄へ堕ちるか、決められていないということでしょうか」
「何もしなければ、そなたは天の国へ向かうとも。過去を振り返らず、天に昇ってもかまいはしない。だが、せっかくの機会だ。なかなか過去をやり直す幸運を与えられる人間はいないことは確かだな」
なるほどと、アリエルは頬に手をあてて考え込んだ。過去を振り返ってみれば、確かに苦い思い出は山のようにある。
両親の離婚を阻止することができていたならば、今頃どうなっていただろうか。継母や異母妹に虐められ、家庭内で奴隷のような扱いを受けることもなかったのかもしれない。もしくは縁が切られていたとはいえ、母親の実家に助けを求めていたならば。いっそ金目の物をいくつか抱えて、修道院に逃げ込んだならば。アリエルの人生はよりよいものになっていたのかもしれない。
考えれば考えるほどきりがない。前を向いて生きてきたけれど、意外なほど自分の中には後悔していることがあるのだと思い知らされた。アリエルは小さく息を吐くと、目の前の天使に向かってうなずいてみせた。
「それでは、どうぞ私の旦那さまの子ども時代を幸福にする手伝いをさせてください」
「なんだと?」
「旦那さまは、かつて過酷な子ども時代を送ってきました。それはすさまじいもので、その結果として彼は長い間人間不信に陥ることになりました。旦那さまとご家族の問題は不幸なすれ違いと偶然が重なってできています。過去に戻りそのもつれた糸を解くことができたならば、旦那さまは幸福に暮らすことができるのではないかと私は考えているのです」
麗人は何とも言えない渋い顔になった。深いしわが眉間に刻まれている。
「そなたの考え方は素晴らしい。非常に尊く、美しいものだ。けれど考えてもみてほしい。そなたが夫君に見初められたのは、彼が人間不信に陥り、お飾りの妻を求めたからでは?」
「さようでございます。旦那さまは家族というものを信じてはいらっしゃいませんでした。お立場上どうしても奥方が必要で、爵位も低く、実家の人間も御しやすいという理由で私は娶られました。それでも、旦那さまはお優しい方でした。飢えに悩まされることもなく、暴力に怯えることもありませんでした。最終的に心を通じ合わせることができたのは、何よりの僥倖だと思っております」
「そもそも結婚相手が飢えないことや、暴力に苦しまないことは、最低限の対応であろう。それに夫君のことを愛していると言うのであれば、なぜに彼の過去を変えようなどと言うのか」
アリエルは口元をほころばせた。
「天使さまは、旦那さまの過去を変えれば未来が変わるとおっしゃりたいのですね。結果的に彼に出会うことがなければ、私のほうこそ結婚によって救い出されることなく、不幸のどん底で死ぬことになるだろうと」
「その通りだ」
それでもなお、アリエルは柔らかく目を細めたままだ。その微笑みは、信じられないほど穏やかで晴れ晴れとしたものだった。
「過去を変えて発生する不利益はそれだけなのですね。旦那さまが幸せになれるのなら、私はどうなってもかまいません。もともと私の命は、旦那さまに出会えなければいつ潰えてもおかしくないものでした。たまたま旦那さまのお慈悲によって生かされていただけ。これまでの幸福は、本来私が受け取れるはずがないものだったのです。ですから、私はもう十分。私は受け取った幸せを彼に返さなければなりません」
「返すだと?」
「今の彼は、私がいなくなればまた心を壊してしまいそうな危うさがあります。忘れ形見となる子どもがいたら違ったかもしれません。とはいえ彼の心の弱さでは、子どもがいたとしても今度は彼らに私の面影を重ねてしまい、子どもたちの将来を潰してしまったかもしれませんね」
「夫君のことをこき下ろすではないか」
「今度こそ、彼には本当に幸せになってほしいのですよ。彼の心と身体を育て、根っこをしっかりと生やし、ちょっとやそっとの風雨では枯れることのないようにしてあげたいのです」
「まったくもって、意味が分からない。そもそも過去に戻って後悔を取り除くにしても、介入できるのは限られたわずかな時間だけ。子ども時代の夫君を育て直すことなどできぬ」
「もちろん、それで構いません。ふふふ、子ども時代の旦那さまを可愛がることができたら幸せかもしれませんが、それは私の幸せであって、旦那さまの幸せではありませんもの。それで、いかがでしょう。私の願いを叶えていただくことは難しいでしょうか?」
「まさか。もちろんそなたの望みを叶えよう。そのやり直しの末に、何が起きるのかを楽しみにしている」
アリエルは千載一遇の機会を得た喜びをただひとり噛みしめていた。
***
謎の力により時を遡ったアリエルは、下町の小汚い長屋の一部屋に飛び込んだ。そこには死にかけている母を前にして、ぽろぽろと涙を流すばかりの幼いトバイアスがいた。薬もなく、ろくな食べ物もない。寒い冬だというのに燃料もなく、お湯を沸かして飲むことさえままならない。そんな状態で、トバイアスは声を押し殺して静かに泣いていたのである。
――俺が、五つの頃だ。流行り病で母が死んだ。母は公爵家の侍女だったが、俺を身ごもったせいで実家である子爵家から縁を切られたらしい。公爵家に睨まれてはたまらないと思ったのだろう。父は必ず迎えに行くと母に約束したらしいが、実際は養育費さえ寄こさぬまま母を見殺しにした最低野郎だ。公爵家を乗っ取ってやった時に、「家令に騙されていた」と泣きながら詫びてきたがその手には乗らない。自分の保身しか考えられぬ偽善者め――
他人を信用しないトバイアスから彼の幼少期の苦労話を聞いたのは、結婚してしばらく経ったある日のことだった。公爵家から追い出され、実家からも見放されたトバイアスの母親は、刺繍の仕事をすることでなんとか生計を立てていたのだという。貴族出身ながら下町の人々に受け入れられたのは、トバイアスの母親の人柄ゆえだろう。
そんなトバイアスの母親も、流行り病には勝てなかった。希少で高価な薬を手に入れることができれば話は別だったが、トバイアス母子にも、周囲の下町の人間たちにも難しい話だったのである。その後トバイアスは亡くなった母の葬式を挙げるために父親の住む公爵家を訪ねたが、けんもほろろに追い返されたらしい。その時に彼は公爵家への復讐を誓い、武勲を立てることで最終的に公爵家の正当な跡取りの座を手に入れることに成功したのである。和解する機会のなかった父親はひとり寂しい老後を送り、早逝したそうだ。
けれどその後何年もしてから、アリエルとトバイアスは残された日記から真実を知ることになった。実はトバイアスの父親は、本当に彼の母のことを愛していたらしい。先代当主の目をかいくぐる形で、自ら財産を運用し、トバイアスの母に養育費として送金していたそうだ。残念ながらそれらのお金は、トバイアス母子の元には一銭たりとも届いていなかったのだが。
公爵家の当主が渡していた金は、秘密裏に対処を任されていたはずの家令がすべて着服していたのである。トバイアスの母親は、あまりにも我慢強い女性だった。もっと声高に不満を訴え、公爵家に押しかけてきていたならば、彼女たちの窮状はトバイアスの父親の知るところになったはずである。けれど現実として、彼女は耐えに耐え、何も語らないまま亡くなってしまうのだ。
これらの真実を知っているアリエルは、今この時こそがトバイアスの人生の分岐点であることを理解していた。もう少し余裕のある時間軸に戻してもらいたかったような気もするが、その場合、きっとトバイアスもその母親も公爵家に迷惑をかけるような行為は望まなかったに違いない。現在の、生きるか死ぬかという究極の事態だからこそ、大胆過ぎる提案を呑んでくれるだろうという確信が彼女にはあった。
「だん……トバイアスさま。ここで泣いていても仕方がありません。お母さまを救うためには、トバイアスさまの勇気が必要です!」
「だ、だれ?」
「わ、私は、トバイアスさまのお生まれの秘密を知る者です。トバイアスさまのお母さまは、このままでは天に召されてしまいます。お母さまをお守りすることができるのは、トバイアスさまだけ。今すぐに私の言うことを信じて、動いてください」
あまりにも怪しすぎることは、アリエルにもわかっていた。母親の死の間際に飛び込んできた見知らぬ中年女が、自分と母を捨てた父親の元に行けと言っている。うさんくさいことこの上ない。それでも、これは彼にしかできないことなのだ。母譲りの美しい緑の瞳と、父親そっくりの整った顔立ち。誰に何を言われようが、彼本人が公爵家に出向いて父親に会うことさえできれば、力技ですべてを解決できるのだから。
「トバイアスさま、お母さまが大事にされている指輪を忘れずに。それは、トバイアスさまのお父さまがお母さまに贈られたものです。あなたの出生を証明する大事なものです。失くしてはいけませんよ」
「わかった。でも、公爵家までは遠いよ?」
「歩きであれば、そうでしょうとも。馬車に乗って行ってくださいませ。支払いはこちらを渡せばよいですわ。公爵家に着いたら、家令ではなく侍女長のマーサを呼んでくださいね。その間、私はお母さまの面倒をみておきますわ。安心してください、きっとうまくいきますから」
アリエルは、少年の手に美しいエメラルドのイヤリングをのせた。それはかつてトバイアスが、アリエルの誕生日に用意してくれたものだ。お飾りの妻へ、世間体のために適当に買い与えたような代物ではなく、ふたりの心が通い合うようになってからトバイアスが自分の色を身に着けてほしくてアリエルに贈った特別な一品。
(天の国まで持っていきたかったけれど、旦那さまの幸せのために使うのなら手放しても惜しくはないわ)
アリエルはトバイアスの手を優しく握りしめた。
***
慌ただしくトバイアスが走り出していく姿を、アリエルと麗人は静かに見送った。
「首尾よく、ことは運んだようだな」
「ありがとうございます。これで、思い残すことはございません」
「結果も見ていないのに、何をのんきなことを」
「いいえ、きっとうまくいくとわかっております。それで、私の魂は天に向かうことができるのでしょうか。それとも地獄へ堕ちるのでしょうか」
「さあ、どちらだと思う?」
「どちらでも構いません。過去を変えてしまったら、その行為を選んだという自身の記憶さえなくなってしまうのでしょう?」
「それならばそなたにいつか、自身の選択をする前の人生と、選択をした後の人生を比較してもらうのもいいかもしれぬな」
麗人の問いに、アリエルは肩をすくめてみせた。だってそれさえも彼女にとってはどうでもいいことだったのだから。彼女にとっての関心事は、トバイアスが幸せになれるかどうかなのだ。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。トバイアスが、部屋の中に飛び込んできた。彼の後ろでは、彼によく似た顔の男性が青ざめた顔で謝罪の言葉を叫びながら、涙を流している。トバイアスの父親だろう男性は、何かつぶやきながら寝台に横たわるトバイアスの母親の手を握りしめていた。
「母さま!」
「トバイアス、大丈夫だ。わたしがついている。ほら、先生に診てもらおう。薬を飲めば、彼女はすぐに良くなるとも」
「本当? 母さまは、いなくなったりしない?」
「もちろんだ。わたしは嘘など決してついたりしないよ」
どうやら無事に親子の再会は果たせたらしい。すれ違いさえなければ、あれほどまでにこじれることはないはずだ。何せもともと彼らは、お互いに愛し合っている夫婦と、そんなふたりの元に生まれた愛の結晶だったのだから。
アリエルは、彼らの姿を確認すると誰にも見つからないように黙って家を出る。別れの言葉は伝えなかった。これから彼らは、幸せな家族として過ごしていくのだ。そこに、かつてあった未来の残滓であるアリエルは必要ない。
きっと彼は、素晴らしい結婚相手を見つけるだろう。それは、アリエルのように家族に愛されなかった不出来な娘ではなく、誰からも愛された砂糖菓子のように甘いご令嬢に違いないのだ。素晴らしい彼の隣には、素晴らしい女性が良く似合う。
「これで満足か?」
「ええ。ありがとうございます」
「本当に、これで彼は幸せになれるのだろうか」
「さあ、それはきっと誰にもわかりません。それでも私は、彼が将来ひとりぼっちにならずに済み、ずっと笑って暮らしてくれるならそれで十分だと思ってしまうのですよ」
「過去のそなた自身が悲しみに沈み、泣きぬれていたとしても?」
アリエルはその問いには返事をしないまま、やがて淡い光の粒となりゆっくりと消えていった。
***
日当たりのいい部屋の中で、ふたりの年若い男女が仲睦まじくおしゃべりをしていた。
「アリエル、何の本を読んでいるんだい?」
「まあ、トバイアスさま。今、流行りの恋愛小説家の最新作を読んでおりますの。少女趣味すぎるでしょうか」
子爵令嬢アリエルは、婚約者である公爵令息のトバイアスに声をかけられて、はにかむように笑った。トバイアスが屋敷に来るのが遅くなりそうだと伝えてきていたので、油断して大好きな本を読み始めていたのだ。
本来ならばトバイアスが来た時に出迎えをするべきだったのに、気が付けば本の世界に夢中になっていた。恥ずかしさでおかしなことを口走ってしまったとアリエルが反省する横で、彼女の婚約者はアリエルの本を手に取り内容に目を通していた。
「ああ、彼の本か。実は俺も読んでいるよ。彼の家族の描き方は、良い物も悪いものもついつい目を奪われてしまう。どうしてだか、目が離せなくなってしまうんだ。まるで自分のことのように感情移入してしまう」
「トバイアスさま、お詳しいのですね。そうなのです、この方の作品はなぜだか妙に心に響くのです。私の両親はおしどり夫婦として有名で、政略結婚やらお飾りの妻とは無縁ですのに、なぜか私も引き込まれて読まずにはいられないのです」
アリエルの両親は、社交界でも評判のおしどり夫婦だ。実は婚約当初はお互いに恋人がいるだの、王家の命令による政略結婚など散々な言われようだったらしい。ところがとある男性の忠告により、すれ違いを避けることができたそうだ。
その謎の男性には、以降二度と会うことができなかったため、アリエルの両親は神の御使いに出会ったのだと信じ、非常に熱心で敬虔な教会の信者になったことは有名な話だ。教会の教えが他の家よりも身近にある分、世俗的な話からは離れた生活をしていて、だからこそ少々きわどい内容の話が気になってしまうのかもしれないとアリエルは考えている。
「我が家はいろいろややこしい事情を抱えていたことがあってね。君の家と同じように、とある恩人のお陰で幸せに暮らしているんだ。俺が出会ったのは、男性ではなく女性だったけれど」
「まあ、そうなのですか」
「彼女のお陰でなんとか家族はみな不幸にならずに済んだはずなのに、どうしてだかこの作者の書く復讐譚が気になって仕方がないんだ。これほどまでの激情を身の内に持っていたことなんてないはずなのに。不思議なほど他人のような気がしない」
「本当にどうしてなのでしょう」
ふたりが好んでいる作品は、新進気鋭の恋愛小説家によるものだ。不遇な環境にも負けず、運命を切り開く主人公たちの力強さが有名である。そしてそのような不幸な経験をした覚えのないアリエルも、辛い時期はあったが復讐を企てようとまでは思わない現在のトバイアスも、どうしてこの作品にここまで心が惹かれてしまうのか実は説明できなかったのである。
「この方の描く作品は、作り物とは思えない力強さをもっている気がしてならないのです」
「それは俺にもよくわかる。君に初めて会った時に、例の命の恩人のことを思い出したのだけれど、この本に出会った時も同じような感覚があったんだ」
「私も初めてトバイアスさまにお会いした時に、あなたに会うことを私はずっと待っていたと確信できたんです」
言葉では言い表せないものの、お互いにどこかで繋がっている感覚が嬉しい。その心のままに、アリエルはトバイアスに身体を持たれかける。
「そういえば今度、この作家の講演会が開かれるそうなんだ。ぜひ一緒に行ってみないか」
「まあ、よろしいのですか」
「もちろんだとも。君と出かけることができるなんて夢のようだ」
「これから、たくさんの思い出を積み重ねてまいりましょうね」
物語のように美しいアリエルとトバイアスの恋は、きらきらとした光に包まれて続いていく。ふたりは、かつてあったはずの未来の思い出も、暗くおぞましい過去も完全に消え失せてしまったことに気が付かない。ただお互いへの愛を胸に、鮮やかな未来に向かって歩き出すのだ。
***
「やれやれ、このような結果におさまるとは」
先ほどまで新進気鋭の恋愛小説家として講演会で作品語りをしていたはずの男が、公園のベンチでひとつ大きな伸びをした。どことなく錆びついた印象があったはずなのに、一瞬にして彼の身にまとう雰囲気がまったく異なるものに変化する。
ひれ伏したくなるような神々しさのせいか、辺りに静寂が満ちる。講演会で握手を求めてきたうら若き恋人たちの姿を思い起こしながら、男は再び身体を動かした。まるで背中に大きくて重たい荷物を背負っているかのような動きだった。
「まったく。彼女の選択により過去が改変されて、それに伴い彼女を中心とする種々の記憶の消去が行われ始めた瞬間にすべてを理解し、こちらを物理的に脅してくるとはさすがに予想できぬわ」
男は、「アリエルを犠牲にして幸せになんてなりたくない。俺にとっての幸せとは、アリエルが幸せになることだ」と言い放ったトバイアスの強い眼差しを思い出す。
「自分が幸せになれるのだから、亡くなった人間のことなんて気にすることはないんじゃないのか。そう言っただけで、鋼の剣で心臓を貫かれることになるとは思ってもみなかったよ」
よもや、人間なんぞに存在を消滅されかけるとは。一寸の虫にも五分の魂。その心の強さに免じて、彼はトバイアスにも過去を変える権利を与えてやったのである。
男はどちらでも良かったのだ。アリエルが成功しようが失敗しようが、トバイアスが成功しようが失敗しようが。大切なのは自分が彼らを観察して楽しめるかどうかだったのだから。その生き方は天使というよりも、悪魔に似ている。
「人間というものは、脆弱なくせにしたたかで本当に面白い」
気ままに吹き渡る風にあおられるように、麗人は立ち上がる。公園のベンチに残された書籍のページを、風が悪戯にめくっていた。
お手にとっていただき、ありがとうございます。ブックマークや★、いいね、お気に入り登録など、応援していただけると大変励みになります。