95. 正しさと幸せ
“好き”ってなんだろう――意識もしないほど簡単なはずの言葉なのに、織部くんの口から出ると急に難しくなる。
わかりそうで、わからない。理解しようとした瞬間、幼い頃に引き戻されるみたいで……叱られる気がして、心がすくんだ。
「もう、魂の色を理由に僕の心から、目を逸らすのはやめる」
廊下まで響く織部くんの声は、いつもとは別人みたいに澄み渡っていた。
「心のまま、正直に生きたいんだ」
正直に生きるって――それは、我が儘じゃないの?
素直になれば、傷付くだけ。だから人は嘘をついたり、隠したりして、自分を守ってるんじゃないの?
「それが険しい道でも……嘘をついて生きるよりマシだ」
まっすぐな響きに、耳がびくりと震えた。
――『自分のやりてぇこともできねーくらいなら、死んだほうがマシだ』
そこにいるはずのない“あっちゃん”の声が、教室の奥から重なって聴こえた気がして――
「僕は、どうしても嘘はつけないよ」
ビー玉を放り込まれたみたいな衝撃が走る。
(あたしって、こんなに空っぽだった……?)
その衝撃は、空洞のなかをくるくる転がり続けていた。
「化けの皮がはがれたな、怪物」
張りつめた空気のなか、桃山だけが嗤った。
「やっぱ適色診断通りだ」
掲げられたタブレットに“緑色”のページ、大きく刻まれた二文字――『怪物』。
「怪物は主役の引き立て役だ。怪物が勝つ漫画なんてない。怪物に勝てないゲームは、ただのバグだ」
「この世界は漫画でもゲームでもない。現実を見ろって言ったのは、君だろ」
織部くんは一瞬も迷わず言い返した。
その速さに、桃山が思わず大きなため息をつく。
「聞いたか、お前ら」
静まり返った教室に、桃山の声が一気に広がる。
たちまち全員を抱き込むような圧で響いた。
「こうして秩序は乱れ、犯罪が増える。……緑光、お前みたいに魂の色に歯向かう“色”があるからだ」
「僕は……自分が緑色で良かったって、思ってる」
声は震えていた。でもそれは、勇気を振り絞った証として、廊下まで届いていた。
「緑光、俺はお前に同情してるんだぜ?」
桃山の声に、妙な安堵が滲んだ。臆病な織部くんが戻ってきたと思い込んで、さらに語気を強める。
「まともな親なら、緑色が生まれる可能性は潰すだろ」
その一言を合図に、教室中から便乗の声が湧き上がった。
「緑色で良かった? 冗談えぐいて」
「御三家色しか勝たんっしょ」
「親ガチャ敗北者の負け惜しみか~?」
渦巻く嘲笑に、織部くんの我が儘が吞み込まれそうで――胸がざわついた。
両親を貶められた彼の怒りは、痛いほどわかる。
でも私は、“良い子”を選ぶしかできなかった。望まれる色に染まっていった。
織部くんも、きっと私と同じに――
「僕の両親を侮辱するな」
低く唸るような声に、思わず耳を疑う。
……織部くんだと気付くまで、息が詰まるほどの間があった。
彼は強い。見えないものを見ようとしてる――それでも“緑色”には限界がある。
まわりは他人に可能性なんて見出さない。人の価値は、生まれ持った色で決まるから。
“魂の色”で未来まで可視化された社会は、あまりにも正確で、誰も疑わない。
色を見ただけで知った気になり、他人の気持ちを理解しようとする思考が欠けている。……欠けていることさえ、きっと誰も気付いていない。
でも、私は気付いてる。赤色として見られているからこそ。
入学式の日、織部くんが一度だけ見せた屈託のない笑顔を憶えてる。
“好き”を語ったときの純粋な輝き――私の知らない、私にはできない笑顔。
“好き”って、難しい。けど、私まで嬉しくなって、もっと見ていたくなる。
安心する理由を知りたかった。
……その笑顔は、わずか三年で“社会の色”に塗り固められていった。
緑色の枷に縛られて、奪われたもの、刷り込まれたもの――
「だから、お前は“緑色”なんだ」
桃山の声には薄笑いが混じってる。
強がっているはずなのに、どこか焦りが募っているようにも感じられる。
「魂の色は正しい。従っていれば間違いない」
桃山の口からこぼれる言葉は、植え付けられた子守歌みたいに機械的で――そこに彼自身の意志は感じられなかった。
「与えられた色に従え。言われた通り、間違えないことが正解な生き方――」
「色のせいにして、思考を止めるなよ」
桃山の言葉を遮る織部くんの声は、叫んだわけでもないのに空気をも震わせた。
直後、物音ひとつ立たない静けさが広がる。
その理由は恐怖じゃない。
ただ言葉にできない何かが胸の奥を掻き立てた。
クラス全体の息が止まった気配が、ドア越しにも伝わってくる。
永遠にも感じられる沈黙を静かに取り戻したのは織部くんだった。
「その正しさは、君を本当に幸せにしてるの?」
織部くんの言葉は、桃山をまっすぐ射抜きながらも、芯の強さとともに寄り添う優しさを響かせる。
「“勝ち組色”に生まれたからって、その人にとって幸せとは限らないじゃないか」
胸のなかを転がり続けていたビー玉が、ふいに止まった。
奥に、人影が透けて見える。蘇芳色を思わせる深赤の瞳――
――『勘違いすんな。赤だからって、なんでも上手くいくとは限らねぇんだよ』
一度目の錯覚よりも鮮明に、その声が甦った気がした。
「……あっちゃん?」
けれど掴む間もなく、ビー玉は砕け、余韻だけが胸に染み込んでいく――




