94. 朱に交われば
いまでは当たり前に通えてる学校も、小一の年は、ほとんど行けなかった。
寝ても覚めても変わらない天井。
そこへ冷たい夕陽が射し込み、遠くから温かな食卓の匂いが漂ってくる――誰が、誰を想って作っているんだろう。
そんなことをぼんやり考えていると、ふいに煙管の強いにおいが、温もりをかき消していった。
当主の部屋からは、四拍子のボレロで奏でられる時代劇の主題歌。
私にとって唯一の日常の変化――テレビの音に耳を澄ませた。
「泣くのは、嫌……」
その一言に応えるように、歌は次の景色へと歩み出す勇気をくれた。
心の底に、小さな熱が灯る。
それから、臥せる回数が減った。偶然かもしれない。
けれどその時は確かに、歌の力はすごいなって思ったんだ――
我が儘を音に乗せると心が軽くなる。まるで普通の女の子になれた気がして、副作用も忘れられた。涙だって堪えられた。
私は次第に、よく歌うようになった。
◆◆◆
結局、草子洗に半ば強引に送られた。黒塗りの高級車で送迎される姿を見られたくなくて、裏門からこっそり入る。人けのない廊下を足早に教室へ向かう。
(あたしは赤、あたしは赤。今日も“あっちゃん”になりきる!)
足音に合わせて自己暗示をかける。
“推し色”になりきると、ほんの少しだけ強くなれた。
教室のドアに手をかけた、その時――
「身のほどを知れよ、緑色」
突き刺すような桃山の声が、廊下にまで響く。
(織部くん……)
進路相談の季節。緑色の彼には、ますます視線が集まっているだろう。
虐げられる光景が、容易に浮かんだ。
「お前が浮夜絵師になるのは、宝くじを当てるくらい難しい。何度も言わせんな!」
犯罪者予備軍と揶揄される“緑色”を矯正している――そう信じて疑わない彼らは、誰も桃山を止めようとしない。
“魂の色”が絶対だと信じ切っているから、イロハラの自覚すらない。
胸が張り裂けそうになる。
まだ赤になりきれなかった小学生の頃の記憶が、紫煙にまぎれて響く当主の声とともに蘇る。
――『“朱に交われば赤くなる”って言うじゃないか』
きっかけは、当主の客人に歌声を聴かれたことだった。
“オオルリのさえずり”のよう――その一言で、私が紫色である可能性と、一族が必死に隠す“合成着色料”の使用事実が同時に脅かされた。
当主は古諺に従って、私をわざわざ都内の――赤色しかくぐれない私立名門校へ再入学させた。
すべては赤色らしくあるために……。
ただ、確信までは行かずとも、子どもの直感は鋭い。
書類上は赤と偽れても、“まがいもの”はすぐに浮き、そのせいで目の敵にされた。
(織部くんは、その時のあたしそっくりだ――)
あの頃、私をいつも助けてくれたのは“あっちゃん”だった。
いまの私は、その背中に少しだけ近づけてる気がする。だから――
(……今度は、あたしの番)
内から湧き上がった熱が腕に走り、ドアにかけた手に自然と力がこもった――
「宝くじと、僕を一緒にしないでよ」
意外な切り返しに、息が詰まる。ドアを引くことを躊躇ってしまう。織部くんだ。
いつものように俯いていると声色から感じ取れる。
けれど、その声にはこれまでにない覚悟の色が宿っていた。
「は? お前いまなんつった?」
桃山の声が揺れる。教卓から飛び降りざま声を上げたからだろう。
そのまま詰め寄って、胸ぐらを掴んだみたい。
織部くんは小柄な分、より苦しそうに声を絞る。
「夢を買う人は、運頼み。自分でなんとかしようとは思わないってことでしょ。自分の力を信じてないんだ」
――それでも、毅然とした強さは揺らがない。
「誰かに光らせてもらうんじゃなくて、自分で光らないと意味がない――」
そして、大きく息を吸い、意を決したように言い放った。
「僕は自分の力で夢を叶える。だから、一緒にするなって言ったんだ」
廊下まで張りつめた空気が、ふっと静まる。
机を引く音も笑い声も消え、ドアの向こうで誰もが息を潜めているのが伝わる。
私も無意識に手の力を緩め、耳を傾けていた。
桃山は鼻を鳴らし、吐き捨てる。
「お前は、“愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ”って言葉、知らねえのか」
「……知ってる。鉄血宰相の言葉だ」
「だったら――」
「僕は、ずっと考えてきたよ……」
桃山を遮り、織部くんが続ける。
「僕には何ができるのか、どんな人間になるべきなのか――絵を描けなくなった日から、ずっと……」
過去を振り返る声がわずかに上ずる。苦しみが滲む。
「社会を知るほど、夢が無謀に思えた。途方もないことだって恐くなった。緑色らしく生きるほうが、自分や周りのためになるって理解して、そう言い聞かせてきた」
それは、朱に交わって赤に染め上げた我が儘さえ揺らす火種だった。
喉の奥が熱くなる。
「……ただ」
一拍置いて、織部くんは言葉を続けた。
「僕は、いつの間にか――自分を見失ってた……」
震える声が、涙腺の扉をそっと叩く。
これ以上は、堰を切ってしまいそうで――耳を塞ぎたい本能と、行方を追いたい衝動がせめぎ合う。
「常に画面の外にいるみたいだった。……何をしても実感がなくて、自分の身体すら自分じゃないみたいで、すごく苦しかった」
窓の外の葉桜が揺れる音が、私の奥底にある揺らぎと重なる。
心の隙間へそっと沁み込むように耳を満たしていく。
すべてが揺れ動く空間で、彼の勇気だけが揺らがなかった。
「やっぱり、好きなんだ……僕は、絵を描くことが」




