93. 我が儘
火照る胸の奥に、別の痛みが重なった。
幼い頃から、決して癒えない痛み――“大人になるまでの辛抱“と、言い聞かされてきた。
誰ひとり、「もう飲まなくていい」とは言ってくれない。
私が赤色に生まれていたなら、こんなことにはならなかった。
苦しいのも、辛いのも、そして、一族が余計な財をつぎ込む羽目になったのも――すべてお前の母親のせいだ……と、言われ続けてきた。
(……あたしのママは、青色だった)
父の家系・東雲家は、武家の流れを汲む名門。
無類の赤好きとして、永く語り継がれてきた。
やがて魂の可視化技術によって、その逸話は裏付けられる。
代々、血よりも深い赤の魂を宿していたこと――同時に、残酷な真実も暴き出された。
誇るべき赤の純度は、朝焼けの空のように、世代を追うごと薄れていたこと……。
“東雲家が色褪せたのは、黄色の甘言や青色の嘆きに、情を乱されてきたからだ”
当主はことあるごとに、そう吐き捨てた。
吐き出すたびに立ちのぼる煙管の紫煙――鉄錆びのような苦さが鼻腔に刺さり、その口癖ごと胸に焼き付いた。
だから私は、あのにおいが嫌いだ。
一族は、御家の低迷を“魂の色”のせいにし、誇りを取り戻すために赤色以外との交際を禁じた。
でも、私は赤じゃない。――両親の駆け落ちの子。
赤と青、互いに惹かれ合ったふたりから生まれた紫色。
母だけが追放された。存在ごと消されるみたいに。
私は母と一緒には行けなかった。生まれながらに持った、玉のような紫色の容姿が――一族の誇りすら揺るがすほど際立っていたからだ。
(……それが、あたしの地獄のはじまり)
一族は、私の魂の色を真っ赤に染める計画を立てた。
身体は人一倍、それを拒絶した。
外に出る気力もなくなるほどの痛み。
食事さえ喉を通らない苦しみ。
表向きは自家中毒と診断され、点滴で命をつなぐ日々。
朦朧とした意識のなか、天井の木目をぼんやり目でなぞる――その記憶が、幼少期の日常として刻まれてる。
「もうおくすり、のみたくない」
素直な気持ちを口にしただけで、それは我が儘だと叱られた。
泣くな、堪えろ――“良い子”にしていれば楽になれる、と。
「……いいこって、どうすればなれる?」
考えてもわからなかった。
叱られないよう、必死に考えた。
そんな私を、父は悲しい目で抱きしめ、ただ謝るばかりだった。
父が心から望んだはずの愛が――まるで間違いだったみたいに。
ある晩、父が事故に遭った。
私を置いて、いなくなった。
また、我が儘を言いたくなった。
涙と一緒に、喉の奥であふれそうになった。
その我が儘が悪いのだ――当主は、煙管をくゆらせながらそう言った。
私に応えようと逆らったばかりに、父は死んだのだと。
なぜ“良い子”でいられなかった?
お前の嘆く顔は、母親にそっくりだ。青色が透けて見える。
あの女の色を消し去らない限り、お前は“悪い子”のままだ――
叱られてしまうのは、漠然と自分のせいだと思ってきた。
だから言い返すことなく、“良い子”になるために、あらゆる気持ちを押し殺してきた。
本当に人形になってしまったんじゃないかってくらい、何も感じなくなっていた。
でも――
「もう、パパのこと、悪く言わないで」
(……ママのことも)
両親が侮辱されるのだけは、違った。
失くしたと思っていた感情が、たちまち込み上げてくる。
皮肉にも、合成着色料の副作用だけが、私もひとりの人間であることを思い出させてくれた。
「わたし、おくすりがんばるから」
その真っ赤に怒る姿を見て、一族は喜んでいた。
赤色が定着している証拠だ――煙管の灰をコンと捨てながら、当主は言った。
ぞっとするほど、嬉しそうに。
◆◆◆
「ご気分はいかがです?」
耳に落ちた声が、ふっと過去の映像を断ち切る。
草子洗の手が目の前で静かに揺れ、意識が現実へと引き戻された。
「優れないようでしたら、学校までお車を……」
「マジ過保護すぎ! ウケる」
明るい声で返し、勢いよく立ち上がった――けれど、足がすぐにふらつく。
身体は、“嘘”に付き合ってはくれない。
「私の前では、どうか気負わずに」
草子洗は、こうなることがわかっていたみたいに顔色ひとつ変えず、私を支えた。
強がりが一気にバレちゃいそうで、胸がざわつく。
「お嬢様が何色であろうと、私の使命は変わりませんゆえ」
「まだそのネタ、引っ張んのー? えぐいって……」
寒い冗談を受け流し、距離を取ろうとした。
草子洗が腕に力を入れる。
そのわずかな力にすら、抗えず引き寄せられてしまう。――情けないくらいに。
「大丈夫、あたしはマジでヨユーなんだから」
本当は、そう言い聞かせてるだけ。半分は嘘で、もう半分は願いだ。
私の我が儘は、他人を不幸にする。
だから、嘘で守る。――守れるって信じてる。大切な人たち。
もう決めたんだから。頑張るって。“良い子”になるって。赤色になるって……。
――あたしが生まれてきたことが間違いだったなんて、誰にも言わせない。
「……いつか、そのような日が訪れたとしても、覚えていて……と申し上げたいのが本音です」
きっとここは喜ぶべきところなんだろう。
でもいまの私には、想像がつかない。
ただ――観念して、その胸に頬を寄せる。
視界がチカチカする。偽りの赤が、ゆっくりと身体に沁み込んでいく。
その光を抱きとめるように、瞼を伏せた。
「いつか……か」
(いつかなんて来ない。あたしはもう、ありのままの自分なんか望んでない)
赤色は、無条件で信頼される。求められる。
――守りたいものを守れる、“正義の色”。
唇をきゅっと結び、彼女から静かに離れた。




