92. 合成着色料
カプセルが、手のひらでじわじわ温まってく。
赤の膜越しに、嘘が透けて見える気がして、息が詰まった。鼻の奥がつんと痛む。
(泣いちゃダメ。絶対、泣かない……)
鼻下を押さえた指先を、草子洗の手が、そっと包む。
優しく、でも無言で。慰めるでもなく、ただ受け止めるだけの温度。
「魔性の女――そう、お開き直りくださいませ」
「フォローになってないって」
草子洗の視線は一切揺れない。
私が涙をこぼさないよう、あえて無機質に徹してるんだと思う。
そのまま、私の膨れ上がった罪悪感を切り分けるように淡々と言った。
「幼少期から、ご自身を偽り続ける生活を強いされてきたお嬢様が、人を利得で測るのはごく自然なこと。秘密が露見する危険と、人間関係の価値を秤にかけるのは、防衛本能にすぎません」
……そう。私にとって、まわりは“赤色らしさ”を飾るための存在。
学生時代の人間関係なんて、通りすがりの風景。使い捨ての茶番――“友だち”と呼ぶことさえ、後ろめたい。
無意識に視線を落とす私を、草子洗は逃さない。
「“演じる自分”を補強する。それがために築く交友は、決して裏切りなどではございません」
正当化だって、わかってる。退学の一件で、嫌というほど思い知った。割り切ったつもりだったのに――織部くんの前だと、赤を着こなせなくなる。
「よろしいのでは? 彼に共有してしまっても」
思いがけない言葉。私は弾かれるように顔を上げる。
草子洗は、私の視線を捉えると、薄い嗤いを浮かべ、挑発的に言い放つ。
「追い詰められた緑色のことです。お嬢様の秘密を死守する姿が目に浮かびます。人畜無害のはけ口として、さぞかし従順に立ち回ってくれるでしょう」
心の奥がひりつく。草子洗に言語化されると、より実感してしまう。
やっぱり、私も織部くんのこと――誠実で立場の弱い“緑色”として見てるんだ。
そういう目も、彼はきっとすぐに気付く。
気付いた上で、懸命に受け止めてくれる。
私にとって都合の良いサンドバッグ、軽くなるのは私だけ。
どこまでも独りよがり。
「ガチ笑えないんだけど。ぶっちゃけたって、なんも変わんないし」
秘密を打ち明けたところで、赤色やめられるわけじゃない。
だって、この『真っ赤な嘘』は、私個人の問題じゃないんだから。
嘘に嘘を重ねて、戻れなくなる。そんな世界に織部くんを引きずり込んで――“誠実さ”さえも搾取して……。私が生きてる限り、彼の優しさを食い潰していくだろう。
そんなの、桃山たちより、よほどタチが悪い。
(だから、あたしは嘘を……つき通さなきゃならない)
「……独りのほうが、楽……」
頭おかしいけど、友情にカタチがあるのなら、私にはこれしかできない。
「差し出がましいことを申し上げますが、私はお嬢様さえ……」
「……だから、やなんだって」
言葉より先に、怒りが胸を焦がしていく。
“正義スイッチ”なんて言われてるけど、そんな綺麗なもんじゃない。
もうどうなってもいいやって――破壊衝動が、血管を伝って根を張っていく。
抗えない、抑えられない。
(はやく、飲まなきゃ……)
ポケットを探る前に、草子洗が錠剤を差し出していた。その目に、狼狽の色はない。
「副作用……ご不自由なことです」
普段ならしないような――ひったくる勢いで、錠剤を取った。そんな自分に驚く暇もなく、口のなかへ押し込む。わざと奥歯で砕いた。怒りを噛み潰すように。
「申し訳ございません。少々、悪ふざけがすぎました」
背中をさする草子洗の手から、体温は伝わってこなかった。
「謝る必要なくない? 泣いたら、説教三時間コース確定だし。そっちのがダルいわ」
いつになく、考えすぎてた。
通りすがりとか使い捨てとか、飾り立ててた“あたし”どこ行った? ってくらい。
草子洗の意地悪な冗談がなかったら。怒りにすり替えてくれなかったら。
私は――罪悪感に呑まれてた。
自分が許せなくなって、悔しさに歯止めがきかなくなって、泣いてた。
いままでの努力を、水の泡にするところだった。
気を取り直して、真っ赤なカプセルを水で一気に流し込む。
喉の奥に、拒絶の残響が広がる。
『合成着色料』――魂の色を変える、魂の整形薬。
一日三回、決められた時間に服用する。高カカオチョコみたいな、苦いとも酸っぱいともつかない、えぐい味。口に入れた瞬間、背中に冷たい棘が走る。
何年経っても、この異物感には慣れない。
身体はとっくに知ってる。毒だって、ちゃんと認識してる。
でも――そんな悲鳴を、まわりの大人は無視してる。私も、ずっと無視してる。
「ゆっくりで構いません。どうぞ、並べた順に」
草子洗に促され、震える唇を噛み締めながら、整列した錠剤に視線を落とす。
ひとつ、またひとつ。喉に流すたび、胸の奥で何かが軋んだ。
この薬が“夢のリセマラ”と呼ばれてた時代を、私は知らない。
なりたい自分になれる、やり直せるって――希望だと信じて飛びついた人も少なくなかったらしい。
でも、現実は甘くなかった。
合成着色料は、十八歳になる前の、未成熟な身体にしか定着しない。
しかも、血や涙で成分が体外へ流れ出す欠陥つき。
たった一滴の涙で、せっかく染めかけた魂の色も、あっけなく色褪せてく。
子どもなのに、外で走り回ることも、泣くことも許されなかった。
痛みも、悲しみも、喜びさえも――涙を誘う感情は、“悪”だった。
磁器人形みたいに、意思も体温も凍らせて、生きていくしかなかった。
――ただ、それより厄介なのは、副作用だ。
どんなに“良い子”でいたって、身体は正直だった。
発熱で汗を、感情の暴走で涙や怪我を誘って、薬を拒絶する。
“嘘”を、体のなかから吐き出そうとする。
ポケットには常に安定剤。副作用を抑え込むための必需品。
“子どもらしさ”の欠片もない生活。虐待だって騒がれるまでに時間はかからなかった。生まれ持った色が一番だとかなんとかで……。
やがて、欧米諸国で使用禁止されたのをきっかけに、日本でもタブー視され、忘れ去られていく……はずだった。
アジア圏では、いまもこっそり流通してる。
莫大な維持費を払える、ほんのひと握りの富裕層の間で――
(……涙の数だけ、弱くなる)
私も、デスペナレベルの涙一滴に震えながら暮らしてる。
例えるなら、賽の河原で石積みしてる感じ。文字通り――地獄。
最後の一粒を口に含み、水で流し込む。
火照るような熱が、全身にじわりと帯びていく。
これは、薬の効果じゃない。きっと、胸の奥に仕舞い込んだ、やり場のない怒りなんだ。
いまの私には必要だった。怒りだけが、弱さも迷いも吹き飛ばしてくれる。
“赤色は怒りっぽい”と言われてるだけあって、怒りは私に馴染んだ。嬉しさや悲しさに呑まれるより、怒っていたほうが涙を堪えられる。
だから、“正義感”に身を任せるようになった。
「秘密が普通に――変わるまでの辛抱です」
草子洗の言葉と同時に、チリっと視界に電流が奔った。
手鏡を覗くと、瞳の色が赤く色めき立っている。
「……嘘が、真実に。変わる日……」




