89. 絵は念いの結晶
「何もしなければ、何も生まれないし、はじまりもしないよ」
祖母の言葉は、呪文みたいに僕の欠けた部分を埋めていく。
「だから、ちゃっちゃとやっちまえばいいんだ」
くつくつと笑いながらも、その手は丁寧に肥料を土に馴染ませていく。
背中越しでも伝わるその所作は、まるで広大なカンバスに絵を描いているみたいだった。
(……人をより笑顔にするための、ひと刷毛の優しさ)
僕は、おずおずと問いかけた。
「それが毒の種だとわかってても、お婆ちゃんは……それでも、蒔くの?」
――緑色は、毒。
祖母は、土に残っていた雑草を摘まみ上げると、ぽいと宙へ放った。
「この世で、毒のないものを探すほうが難しいもんさ」
投げ捨てられた雑草の軌道を、僕は無意識に目で追う。
気づけば口が勝手に動いていて、“高速詠唱”が漏れ出していた。
「……確かに、トマトにはトマチン、キュウリにはククルビタシン、じゃがいもにはソラニン――」
――あらゆるものは毒であり、毒なきものなど存在しない。
医科学の祖だって、そんなふうに言ってたっけ……。
少し調子が戻ってきたのを感じ取ったのか、祖母の声が、柔らかく土の上に落ちた。
「毒と薬は表裏一体。何事も匙加減。お前なら、わかるだろ?」
祖母の手に撫でられた土は、肥料と混ざり合い、ふっくらと艶を帯びていく。
過ぎれば毒になる――それは、肥料だって同じこと。
だけど……どうしても、自分だけは“特別に猛毒”なんじゃないかって。不安が拭えない。
「……浮夜絵師に、なりたい」
そのひと言が、ぽとりと落ちた瞬間、あたり一面から音が消えた。
祖母の手も、土の匂いも、風のざわめきも――太陽すら雲に隠れて。
まるで、すべてが黙って僕の声に耳を澄ましているようだった。
あまりの静けさに耐えきれず、僕は鍬に力を込める。
「でも……僕がそこにいるだけで、誰かの毒になるんじゃないかって、それが、怖いんだ。
僕が“薬”になれる姿が、どうしても思い描けなくて」
沈黙はなお深く、耳に残るのは、自分の血がめぐる音だけだった。
――ああ、僕って、ほんとネガティブだな。
「絵は念いの結晶」
静寂を縫うように、祖母の声がひっそりと降りてくる。
吸い寄せられるように顔を上げると、雲間から射す陽が、頬にすっと梯子を架けた。
思わず手を翳して光をかき分ける――その向こうで、祖母がいつの間にか、静かに僕を見つめていた。
「緑光。お前の、ここには何がある?」
そう言いながら、祖母は自分の胸をそっと叩く。
導かれるように、僕もゆっくりと胸に手を当てる。
「……僕の、ここ……?」
「そこに悪しき魂は、あるのかい?」
胸に手を当てたまま、僕はじっと目を閉じた。
あるわけない。僕はずっと、人を笑顔にしたいと願ってきた。
その力が、絵にはあるって信じてる。
でも、僕がどれだけ善良なつもりでも、周りが同じように受け取ってくれるとは限らない。
気付かないうちに、誰かを傷つけてしまうかもしれない――
「いいかい、緑光」
ぐっと力の入る手に、歳月の刻まれた手が重なる。
爪の隙間に残る土が、ふくよかな匂いを立ちのぼらせた。
「緑は“再生”の色だ。緑がなければ、生命は成り立たない。
何度打ちのめされても、いの一番に芽吹くのは、緑色なんだよ」
祖母の目を見つめ返すと、落ち窪んだ瞳の奥に、萌芽の光が揺れていた。
「それにね。星に願えるほどの心が込められた種が、毒になるわけないじゃないか」
耳の奥に広がる淡い残響が、僕を呼んでる気がした。
「あんたは忘れちまったのかい?」
祖母の声に押され、その余韻はさらに強く、深く。
額の傷に奪われた、遠い遠い記憶――
東京から越してきた頃、僕は夜空ばかり見上げていた。
それまで見たことのなかった満天の星。都会と違って空のほうが賑やかで――
馴染めない夜に、祖母が聞かせてくれた“浮夜絵師”。
こんなに魔法めいた空なら、不思議と信じられた。
だから夢中で探して……その途中で、僕はあの星に出会ったんだ。
(……どうして忘れてたんだろう。ずっと、お婆ちゃんは覚えてくれてたのに)
「お前は、これからどんな種を蒔くんだろうね」
祖母は何事もなかったように背を向け、再び作業に戻っていく。
まるで、こみ上げる僕の想いに――気づかないふりをしてくれているみたいに。
「残念だけど、あたしゃ最後まで見届けられないだろうよ。忘れちまうことも多くなったから」
「へ、変なこと言わないでよ……お婆ちゃん」
その背中が、妙に小さく見えた。
星を眺めていた頃は、すべてが大きく映っていたのに――
いつの間に、こんなにも小さく、儚く、尊い存在になっていたんだろう。
どうして、気付けなかったんだろう。
あの日から止まったままだと言い聞かせていた時間が、ゆっくりと進んでいたことに。
「当然のことを言ったまでだ。これ以上はもうたくさん。憶えとくのも容易じゃないんだ」
胸をしめつける言葉を、祖母はまるで天気の話でもするかのように、あっさりと口にした。
自分の“終わり”でさえ、春夏秋冬を渡る一遍の風にすぎぬとでも言うように。
「ただ、清らかな願いは、まわりの心をも動かすものだ。胸に残り続ける。だから憶えてられる」
祖母の胸には、僕の想いが、ずっと刻まれていた。
夜空の星に置き去りにした願いを、祖母はそっと手を引くように守り続けてくれた。
深い迷いのなかでも――道を見失わずに済むように。
「あんたらしい種をいっぱい蒔きな。好きなように、やりたいように」
その背中には、陽だまりが宿っている。
「どんな色に染まろうが、緑光は、緑光のままだ」
(……お婆ちゃん)
言葉に詰まる。でも、何か言わなきゃ――
目に浮かんだものを悟られそうで、照れくさい。
かといって、声が震えても結局、バレるし……。
そんなジレンマに揺れて動けなくなる。
祖母は、きっとそれすらも見透かしていて。
だから、一度も振り返らなかった。
「おやまあ、もうお天道さんがあんなに。学校は大丈夫かい?」
空を仰ぐ仕草には、どこか、悪戯っぽい慈しみが滲んでいた。
まるで、籠の小鳥をこっそり逃がすお転婆娘みたいに。
「……ごめん。そろそろ、行くね……」
言葉が震えないよう、声を低く抑えながら口にした。
用の済んだ農具を担ぎ、足早に坂道を駆け下りる。
眼鏡を掛けているのに、視界が曇る。
それでも立ち止まることなく、瞬きで無理やり振りはらった。
時間に追われてるわけじゃない。
でも、待っててくれるわけでもない。
時は流星だ。光はすぐに消える。
だから僕は行かなくちゃいけない。
あの星に届くように。
緑色に光る、不思議な、不思議な星に。
僕が無事に生まれるようにと、母も願ったあの星に……。
その祈りに導かれて、望まれて――生まれてきた僕が、怪物なんかになるわけない。
星は願いを受け止めてくれる。
でも、願うだけじゃ届かない。
だから僕は、僕らしく、僕だけの種を蒔く。
あの星まで届くように――




