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RGB:僕と浮世離れの戯画絵筆 ~緑色のアウトサイダー・アート~  作者: 雪染衛門
第九章 すべての絵師を処せ

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88. 蒔かぬ種は生えぬ

部屋のドアをゆっくり開けると、廊下に漂う白檀(びゃくだん)の香りが鼻をくすぐった。

祖母は朝起きると、必ず仏間(ぶつま)で線香を()く。


仏壇(ぶつだん)に並ぶ位牌(いはい)のなかには、ひと際小さなものもある。顔も知らない、僕の姉だ。


「お、おはよう、お婆ちゃん」


「おやおや、どうしたんだい、その眼鏡」


祖母は僕の頬にそっと手を当て、親指で優しくなぞる。


「……ちょっと、ぶつけちゃって」


なんでもないよって笑ってみせたけど、目元に触れる祖母の手は、その奥まで見透かしているようだった。


「目の下も……。あんた、ちゃんと眠れてないんじゃないのかい?」


「か、考え事してたらつい……あっ、レ、レンズ探さなきゃ……」


誤魔化(ごまか)すように、僕は祖母から距離を取った。

レンズを探すふりをしながら、目は部屋の隅々を追う。


机の脇、ベッドの下――あの男の影も、浮夜絵(うきよえ)の光もどこにも見当たらない。


(……夢、だった?)


探る指先が、クロッキー帳の角に当たる。


「夜の夜中に考え事したって、ろくなこと浮かばないもんさ。さっさと寝ちまうんだよ」


いつの間にか、祖母がレンズの一枚を差し出していた。


「……あ、ありがとう」


手元を見つめ、慎重にフレームにはめていく。

……うまく収まった感触に、安堵(あんど)(にじ)む。


「お婆ちゃんは、これから畑?」


「そろそろ種まきの準備をしないとね。夏は、あっと言う間にきちまうから」


「それなら、僕も行くよ」


眼鏡を掛け直し、ようやく顔を上げる。

(もや)がかった広い世界が、祖母の姿に引き寄せられ、狭い枠のなかへと絞られていく。


「おや手伝ってくれるのかい? でも今日も学校だろう?」


その視線が、ふいに床へ落ちた。クロッキー帳だ。

僕は慌てて拾い上げ、机のなかへ押し込む。


祖母は(いぶか)しむ様子も、目で追うこともなかった。


「少しでも寝ておいたほうがいいんじゃないのかい?」


「だ、大丈夫……!」


頭が冴えて、眠れる気がしなかった。

スマホの光より、土の闇へ身を置きたかった。


祖母も、それ以上は何も言わない。

僕の心の向き先を、ただ静かに受け止めてくれた。



◆◆◆


家から少し離れた、小高い丘に広がる畑。


僕は(くわ)を握り、土を(たがや)し、(うね)を立てていく。

振り下ろすたびに、夢で聞いた大鎌(おおがま)の音が(よみがえ)る。


鍬の重さに、手の震えを(しの)ばせながら、強張(こわば)る顔を振り払った。


祖母は僕に背を向けたまま、畝に沿って肥料を()いている。

その音が、春雨のように土を優しく叩く。


「……緑光(ろくみつ)


手を止めることなく、ゆっくり口を開く。


すべてを見通すような声色(こわいろ)に、僕は思わず身構えてしまった。


「重いだろう。無理しなくていいんだよ」


「へ、平気だよ」


気のせいだと胸をなだめた瞬間だった。


「生きづらくなったねえ」


祖母がぽつりと漏らす。

()いも甘いも噛み分けた祖母――やっぱり誤魔化せそうにない。


「世の中はずいぶん、便利(らく)になった。

色んなものが、あれこれ()()()ようになった」


祖母の声が、畝をたどるように続く。


「そのほとんどは、余計なことばかりだ」


祖母の話し方はいつだって、心の(しん)にまっすぐ届いてくる。不思議と、心地いい。


「日本人はね、昔は()も“アオ”と呼んでたんだ。色の境なんて、なかったんだよ」


曖昧だったものが、いつの間にか線引きされていった。境界がはっきりしだしたのは、緑色が“問題視”されるようになってからだ。


「色は持ち味であって、決めつけるものでも、優劣をつけるものでもなかったのさ」


現代は便利になった反面、必要以上に他者に干渉しやすくなった。人目ばかり気にする世の中になった。

自分が何をしたいかより、どう()()()()が先にくる――そんな時代だ。


失敗は許されない。

たった一度の過ちで、半永久的にネットで批判と嘲笑(ちょうしょう)の的にされる。


便利な世の中は、生きづらい――祖母には、そんなふうに映っているのだろう。


だから、“(こせい)”が色として見えることは、世界の“救い”になる。はずだったのに。


「……“十人十色”。魂なんて見えない時代からあった言葉だ」


「それぞれの、色……」


考え方も、好みも、十人いれば十通り。昔の人は、それを“十人十色”と呼んだ。


「魂なんざ、わざわざ見えるようにしなくたって、大昔から心得ていたことだ。すべての色は()()()()現身(うつしみ)で、すべからく平等で(とうと)ぶべきもの」


魂の色(ソウルカラー)の話になると、祖母は決まって“光の神様”の伝承を語る。


まだ魍魎(もうりょう)跋扈(ばっこ)していた神代(じんだい)――

御自(おんみずか)らを(めい)(あん)(けん)(ばく)の四つの色に分かち、その(いろどり)を世界に授けることで、人々を救ったという神様の話。


これが、すべての色のはじまり――


「見えなかった時代のほうが、人は他人様を大切にできたんじゃないのかね」


まるで誰かに語りかけるように、祖母の言葉が空にほどけていく。


「目に見えるものしか信じないこの世は、優しさを見失っちまったんだ。古臭い風習にしがみつくことも、あたしゃ嫌いさ。でもね」


雨上がりの気配のように、肥料の音が静かに消えた。


「目に見えるものだけがすべてじゃあないんだよ」


「お婆ちゃん……」


あの日の父と、祖母の声が重なって聴こえた。

父の想いは――このひとから、受け継がれている。


「何事も、きっかけは目に見えない種からはじまるもんさ」


祖母は、一呼吸のあと、吐息に(こと)()を乗せていく。


()かぬ種は生えぬ」


当たり前の言葉が、冬を越えた種のように芽吹いてく。僕の心に、ゆっくりと根を下ろしていく。


(……ああ、どうしてだろう)


胸が痛む。なのに……同じだけ、温かい――

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