85. 仮説
「……誰が、そんなこと」
「警視庁――上層部からの命令だったそうだ」
「警察……まさか、そんな……」
言葉にならない動揺が、頭のなかをぐしゃぐしゃにかき乱す。
「表向きには、落画鬼が再び顕現する危険性を考慮してとのことだったが……」
実葛さんは、どこか釈然としない様子で続けた。
「幹部連中は、それこそ浮夜絵師の起源から本質まで熟知している。彼らがそんな稚拙な判断を下すとは、とても思えない」
そう言って、静かに目を細める。
険しさが滲んだ横顔に、僕は思わず息を呑んだ。
「……どうも、警察内部あるいは政府側に――
お父さんの指名手配を解除したくない者がいる。
“絵憑師”にしておかなければ、都合が悪い連中がいる。そんな気がしてならない」
僕の知らないところで、父はずっと“都合のいい悪者”として扱われている――そんな現実が、背中のリュックをさらに重く感じさせた。
絵の具の色が重なっていくように、真実が少しずつ姿を現していく。
同時に、疑問も生まれる。
特異な絵師の勘だとか、いくら実葛さんが“赤色”であることを考慮しても、一方的な感情だけで父を信じているとは思えなかった。
「……実葛さんは、何か見つけてるんですか……?」
実葛さんは、織り込み済みだったとでも言いたげに、フッと目元を和らげる。
「やはり君は鋭いな。
ここまできたら渋る理由もない……君のお婆さんのおかげだよ」
「僕の祖母、ですか……?」
「和紙の断片を預かったんだよ。
事件当時、警察の目を盗んで拾い上げてくれていたらしくてね」
祖母が事件直後、現場に立ち会っていた話は、僕も聞かされていた。
「それを信用筋で調べさせた。
結果、残された色は、大鼠生成に使われた違法塗料とは異なっていたんだ」
実葛さんの言葉を待たず、僕は目を見開く。
「お父さんの魂の色、そのカラーコードと完全に一致したんだよ」
――お父さんは、絵憑師じゃない。
それだけで、胸に食い込んでいた荊棘が、ほんの少しほどけた気がした。
実葛さんは、指先で静かに万年筆を転がすと、「僕の仮説はこうだ」と口火を切る。
「大鼠の落画鬼は、君の父を狙った第三者によって仕掛けられたもの。それが、“和紙”を巡ってのトラブルか否かまでは不明だが、絵憑師絡みの組織犯罪に巻き込まれていた可能性は、十分にある。
君の父はすべてわかったうえで自らを囮にし、そして姿を消した。
……警察も頼れない身の上だったからだ」
「父は……犯罪組織だけじゃなく……警察、いや政府にとっても……」
続きを言い淀んだ僕に、実葛さんは真剣な目を向ける。
「消しゴムを所有していない現状、浮夜絵師だとも言い切れないからね」
そのまま、一呼吸おいてから、言葉を継いだ。
「念のため、浮夜絵師のデータベースも調べてみたが、案の定、お父さんの特徴と一致する画号は、登録されていなかった」
遊んでもらっていると勘違いしたんだろう――
小さな浮夜絵は、僕の手のひらで楽しそうに跳ね回っていた。
でも、沈んだ僕の肩に気付くと、ぴたりと動きを止める。
「データベースにない以上、制度上は“無許可の能力者”とみなされる。
……警察は、追うしかないんだ」
あどけない、小さな星の手が、鼻先をぺちぺち触れてくる。
僕は力なく笑いながら、光の瞬きを見つめた。その瞬間――
――『自分よりほかの誰かを考えてしまう。家族を、優先したくなるんだ』
父の言葉が、光のなかで息を吹き返す。
僕は、はっと口を開いた。
「……父が行方不明な理由って」
僕たちを守るため――きっと、それは、目に見えない“優しさ”だった。
(そう教えてくれたのは、他の誰でもない――お父さんなのに……)
膝が崩れ落ちる。僕は両手で口元を押さえた。
小さな浮夜絵は、僕の肩にすとんと降り立つと、今度は頬をぷにぷに押してくる。
対照的に、実葛さんは僕の沈黙を破ることなく、ぽつりと続けた。
「いまもどこかで、ひとり闘っているのかもしれない。
多数決の正義でも、法律でもなく、“自分の正しさ”を信じて」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
「だからこそ、君が浮夜絵師になって、自分の目で確かめる必要がある。
このままじゃ、お父さんは“極悪人”のまま捕まってしまう。
……真相を明らかにできるのは、君だけだ」
力強い声に呼応して、小さな浮夜絵が、家の玄関へと光の尾を引いていく。
まるで星の導きのように……。
「助けるんだ、君が。お父さんを」――
◆◆◆
反芻の余韻を引きずったまま、ぼんやりと部屋の片隅を見つめた。
飼い猫がよく爪を研いでいた柱には、いまも小さな傷痕が残っている。
あの頃は、ちょっとした悩みの種だったけど――いまは、ただただ……愛おしい。
小さな意志が、確かにここに生きていた証。
どこにでも落書きしたがるやんちゃな君。
僕たちは、よく似てたんだ。
(……クロ)
僕が納屋に描いたクロの落書きが、鬼になって襲ってきたんじゃないか――
最悪の想像を、あの日からずっと、心の奥に抱えて生きてきた。
大切なクロを、僕の手で“落画鬼”に変えてしまったんじゃないかって。
僕の願いが、すべてを傷付けてしまったんだって……。
「落画鬼にならなくて、本当に、良かった……」
クロを想うたび、込み上げてくるもの――いままでずっと、蓋をしてきた。
涙が、止まらなくなるから……。
長いかぎ尻尾に、目の覚めるような黄色い瞳。
宵闇に命を吹き込んだような、しなやかな肢体。
失うことを恐れ、逆に遠ざけてしまったクロの温もり。
想像してたより、ずっと……ずっと傍にいてくれたんだ。
「クロ……」
心が色立つ――
今日、実葛さんと話して、多くの疑問が晴れた。
でも、ひとつだけ――
――クロの落書きは、いったい、どこへ?
その問いだけが、胸の奥で淡く燻り続けていた。
……ふと、パソコンの画面端に赤く表示された通知に気付く。
僕はそっと、上体を起こした。




